【木下長嘯子宅跡】
(きのしたちょうしょうしたくあと)
木下長嘯子は名を勝俊といいます。
高台院(豊臣秀吉の正室)の甥に当たります。
豊臣秀吉に仕え、若狭小浜城主となりましたが、
関ヶ原の戦いで失脚しました。
その後は京都・東山に隠棲(いんせい)し、
当代一の歌人として名を残しました。
【所在地】
〒453-0053 愛知県名古屋市中村区中村町木下屋敷47−47
【木下勝俊】
木下 勝俊(きのした かつとし)は、
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名、歌人。
初め龍野城主で、次いで
若狭小浜城(後瀬山城)主で、
官位が従四位下式部大夫、
左近衛権少将であったので、通称を、
式部大輔、若狭少将または若狭宰相といいました。
一時期はキリシタンであり洗礼名は
「ペテロ」(ペドロ)と伝わります。
歌人としては長嘯(ちょうしょう)
または長嘯子(ちょうしょうし)、
あるいは挙白(きょはく)、
天哉爺(てんかおう)など
様々の称を用いました。
一般には木下長嘯子の名が高名です。
関ヶ原の戦いでは東軍に属して
伏見城留守居の将とされましたが、
鳥居元忠に退去を迫られ、
これに従った結果、
敵前逃亡したと戦後に責められて改易。
次いで父である木下家定の備中足守藩を継いで
第2代藩主となりましたが、
異母弟利房と遺領を争って
公儀の沙汰で所領没収とされました。
以後、京の東山に隠棲して文人となりました。
作風は近世初期における歌壇に
新境地を開いたものとされ、
その和歌は俳諧師松尾芭蕉にも
影響を与えたということです。
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【出自と家族】
永禄12年(1569年)、
木下家定の長男として生まれました。
木下家定は豊臣秀吉の
正室高台院(北政所、おね)の父である
杉原定利の子であるため、
木下勝俊は高台院の甥にあたります。
木下姓を称していますが、
秀吉と血のつながりはありません。
異母弟に利房、延俊、小早川秀秋などがいます。
木下勝俊の正室は森可成の娘うめ(宝泉院)。
子息は嫡庶含めて1男4女あり、
女児はそれぞれ、
徳川家康の五男武田信吉の妻、
山崎家治の妻、
権大納言阿野公業の妻となりました。
【匿われた男児】
男児に関しては、
関ヶ原の戦いの年に庶子が
誕生しましたが、
失態の連座を避けるために、
死んだことにされ、
匿われたことが「常光院過去帳」や
「挙白集」の「きならし衣」などを通じた
後年の研究で判明しています。
この人物は長じて堀尾吉晴に仕え、
堀尾家断絶後は、
親族の浅野幸長のもとを頼り、
さらに細川家家老松井興長に仕えて
橋本姓を名乗った勝信
であるということです。
この系譜は現在も八代市で
継続しているので血統は
続いているとのことですが、
勝俊は後に継嗣なしとして
隠居したために、
系譜そのものは断絶したとのことです。
【秀吉の一門衆】
幼少より豊臣秀吉に仕えました。
一門衆の1人として厚遇され、
家老蜂須賀正勝の死後、
その所領であった播磨国龍野城を、
福島正則の次に代わって
与えられました。
天正16年(1588年)、
豊臣姓を下賜されました。
天正18年(1590年)、
小田原征伐に参陣。
文禄の役では1500名を率いて
在陣衆の1人として名護屋城に滞在。
文禄3年(ないし2年)に
若狭国後瀬山城8万1500石を
与えられました。
20歳代前半にあたる
1590年代初め頃の時期から
和歌に才能を発揮し、文禄の役の際に
肥前国の陣中へ向かう旅路で
記された文章や和歌は「九州道之記」として
遺されています。
【関ヶ原の戦い・伏見城】
慶長5年(1600年)、
会津征伐に赴く五大老筆頭徳川家康の命で、
木下勝俊は特に伏見城に留め置かれ、
松の丸の守備を任されました。
けれども関ヶ原の戦いが始まると、
東軍の鳥居元忠は信頼できる
三河衆を中心に城の守りを
固めようと考え、寄せ手の西軍に
弟の小早川秀秋が含まれていると
木下勝俊に疑いをかけて、
退去しなければ攻め寄せると迫ります。
このために木下勝俊は退去して
北政所のいる京都に向かいました。
木下勝俊が伏見城を退去した
理由については諸説あります。
通説では北政所は反石田・淀殿の側であり、
まず東軍・勝俊と西軍・小早川秀秋が
兄弟であることを理由に
仲裁して停戦させようとし、
それが木下勝俊の退去で
失敗した後は秀秋に伏見城へ入城させて
東軍に加勢させようとしたことが
知られています。
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【除封の処分】
妻のうめ(宝泉院)は大坂で
人質となっていましたが、
木下勝俊の敵前逃亡を知って激怒し、
これを理由に後に離縁しています。
戦後、鳥居元忠に追い出されたとはいえ、
木下勝俊が与えられた任務を
勝手に放棄した行為は
許し難きことであり、
徳川家康は伏見城退去を理由に
木下勝俊を除封の処分としました。
【遺領をめぐっての兄弟間の争議】
慶長13年(1608年)、
父である木下家定の死去後、
高台院(北政所)の周旋によって
遺領(備中国足守2万5千石)は安堵され、
その裁量に任されることになりました。
この際、徳川家康は遺領を
木下勝俊と兄弟の木下利房に
分賜するとも定めていましたが、
高台院は寵愛する木下勝俊に
遺領の全てを渡しました。
所領を得られなくなった
弟の木下利房は抗議して
徳川家康に泣きつき、約半年間、
双方の使者が京都と駿河を往復して
争議となったのでした。
翌年9月、江戸幕府は
分地の沙汰を犯して
命に背いたという理由で、
木下家定の遺領の全てを没収。
これで再び木下勝俊は失領、
木下利房もこれに同じとなりました。
代わりに遠縁にあたる浅野長晟が、
足守藩を一時拝領して管理しました。
なお、木下利房は、
大坂の陣で徳川方として
参戦して軍功を挙げ、
それによって晴れて父の遺領である
足守藩の継承を認められています。
【隠居後】
勝俊は剃髪して京都東山に隠棲し、
高台院が開いた高台寺の南隣りに
挙白堂を営んで、長嘯子と号しました。
この隠棲地には「歌仙堂」
と称する小閣があり、
その2階には三十六歌仙図を掲げました。
その後、長嘯子(勝俊)は挙白堂で
1640年頃まで和歌を詠み続け、
後水尾天皇が勅撰したと伝えられる
集外三十六歌仙にも名を連ねています。
最晩年は山城乙訓大原野(西山)の
勝持寺の畔に移住し、
西山樵夫(西山樵翁)と称しました。
隠棲後も後妻か娘かは不明ですが、
家族と手紙のやりとりはあったということです。
【最期】
慶安2年(1649年)に死去。
墓は高台院らが眠る高台寺にあります。
遺された和歌作品の数々は、
弟子の山本春正らによって
編纂された歌文集「挙白集」に
収載されています。
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【交流・弟子・人脈】
木下長嘯子(木下勝俊)は、
小堀政一や伊達政宗といった
大名をはじめとして、
林羅山や春日局といった
幕府の要職にあった人たちや、
藤原惺窩とその息子の
冷泉為景(叔父・冷泉為将の養子)、
松永貞徳、中院通勝たち
文化人らとも交流を持っていました。
弟子には先に挙げた
山本春正や岡本宗好、
打它公軌といった人たちがいます。
また、石川丈山、下河辺長流や
山鹿素行にも私淑され、
山鹿素行には住居の訪問を受けています。
なお、木下勝俊は吉備大臣入唐絵巻を
所有していたことでも知られているとのことです。
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