明智光綱(あけち-みつつな)は、明智光継の嫡男として1497年に生まれました。
母は、若狭守護・武田信豊の娘と推測されます。
明智家は、美濃・土岐氏の一族であり、美濃・明智城(明智長山城)が本拠だったと考えられています。
1342年、美濃源氏の土岐一族である土岐頼兼(とき-よりかね)が、美濃国可児郡明智庄を知行して「明智」と改名したことから始まりました。
明智氏は、室町時代になると、足利将軍家を支えた奉公衆になっていました。
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明智光綱の名前は、他にも明智光隆、明智光国とする場合根あり、史料では一致していません。
そして、明智光綱自身も、若狭守護・武田信豊の娘を正室に迎えたと言い、その間に生まれた子が「明智光秀」であった可能性があります。
ただし、明智家に関しては、よくわかっていないため、諸説あります。
明智十兵衛(明智光秀)は、1528年に生まれたとする説もあります。
なお、明智家は、斎藤道三が美濃の守護大名・土岐頼芸のもとで実力をつけてくると、早い時期から斎藤道三に従っていました。
そのため、明智光継の娘とされる、小見の方を斎藤道三に人質としても出しています。
父・明智光継は、1525年に、出家して明智一関斎宗善と号したようです。
そして、1535年に、斎藤道三が美濃・明智城を攻めたともあり、このとき、明智光秀の父・明智光綱は討死したとする説が有力になっています。
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そのため、明智家の本家(宗家)の家督は、明智十兵衛(明智光秀)になったとされますが、まだ幼かったため、祖父・明智光継は、弟である明智光安に後見をさせたと言う事になります。
いずれにせよ、明智光秀の出自に関しても、よくわかっていないのが実情ですので、父や祖父に関しては、もっと、わかっていません。
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