【高瀬城】
高瀬城(たかせじょう)は
島根県出雲市斐川町神庭にあった日本の城です。
米原氏によって築かれた山城です。
宍道湖南岸及び出雲平野の押さえとして
重要視され、尼子十旗の一つに数えられていました。
【城郭形態】
連郭式山城
【天守構造】
なし
【築城主】
米原氏
【築城年】
戦国時代か
【主な城主】
米原氏、吉川元春、建部氏
【廃城年】
元亀2年(1571年)?
【遺構】
郭、土塁、空堀、虎口
【縄張形態】
山城
【標高(比高)】
319.4m(200m)
【築城主】
建部内蔵伊賀
【築城開始・完了年】
着工 暦応年間(1338年~1341年)
【構造・遺構】
高瀬城は、宍道湖南岸の独立性の高い丘陵上に占地し、
山頂の大高瀬、一段下がった小高瀬、
山麓付近の鉄砲立、の三段から構成されています。
大高瀬と小高瀬の間の鞍部には
駄置場と呼ばれる郭群が築かれ、
両段間の接続に加え七曲道を通じて
鉄砲立へも接続しています。
主郭は大高瀬とされていますが、
山頂の大高瀬は削平の甘い
小規模な郭からなるのに対し、
小高瀬は比較的大規模な郭が連なることから、
小高瀬を主郭、大高瀬を詰の城と考える説もあります。
城域には自然地形を巧みに利用しながら、
横堀や土塁、竪土塁とを複雑に組み合わせて
構成した防御施設が数多く存在しており、
守備側のさまざまな工夫と
激しい攻防戦の事実を伺わせる。
【埋蔵金伝説】
現在は登山道がよく整備され、
容易に登城できるそうです。
地元では、米原氏が落城時に持ち出せずに
埋めたという埋蔵金が
城内に眠っているという伝説があるそうです。
スポンサーリンク
【歴史】
築城年代は不明ですが、
戦国時代に米原氏(よねはらし)により
築城されたものと考えられています。
<天文元年(1532年)>
塩冶興久の乱に際し、
高瀬城主の米原綱広が
塩冶興久を救い出そうとしたと伝わります。
<永禄12年(1569年)>
尼子氏残党の挙兵に加わった
米原綱寛が拠点としました。
<元亀元年(1570年)>
布部山の戦いの結果、
尼子勢は総崩れとなり、
高瀬城は孤立となります。
鳶ヶ巣城の毛利輝元・元春、
平田城の岡又十郎等との間に、
城下で激しい戦いが繰り広げられました。
<元亀2年(1571年)>
毛利輝元に率いられた毛利勢に攻められ落城。
一時は吉川元春が入城しましたが、
尼子残党勢が一掃された後、
廃されたと考えられています。
なお、吉川元春は父親の毛利元就の訃報を
この城で受け取っています。
【高瀬城と米原氏】
高瀬城は米原(よねはら)氏の居城で
「尼子十旗」のひとつに数えられます。
米原氏は佐々木六角氏の支流で、
出雲国守護代となった尼子氏の被官として
下向しました。
戦国時代の城主であった米原綱寛は
毛利氏に降伏しましたが、
尼子勝久が永禄12年(1569年)に
挙兵すると尼子再興軍に加わり、
この城を拠点としました。
けれども翌年の「布部山の戦い」で
尼子方が大敗すると高瀬城は
孤立することとなり、
毛利輝元の軍勢に攻められ落城しました。
その後は吉川元春が入城し、
尼子再興軍一掃の拠点として使われましたが、
尼子氏が滅亡すると廃城となりました。
現在城址には遊歩道が整備されていますが、
遺構はほとんど残っていません。
山頂の本丸跡に案内板が設置されています。
月山富田城~出雲国守護の城、170年間尼子氏6代の本拠地で別名は天空の城、日本五大山城です。
鳶ケ巣城~宍道湖の水運を押さえる戦略的重要性のある要害。登山口に駐車場あります。
平田城跡~鳶ヶ巣城・高瀬城と同じく宍道湖の水軍の要衝として重用された城
三笠(牛尾)城跡・島根県~尼子十旗で尼子再興軍の拠点の城。城主は牛尾氏。
玉造要害山城・城主の湯氏は、宇多源氏佐々木一族で、戦国の知将にて辣腕大名の亀井茲矩のご先祖です。
この記事へのコメントはありません。