【川瀬城 石碑】
<形態>
山城(200m/50m)
<遺 構>
土塁、郭、堀
川瀬城は
風伝トンネルの東口の南側に聳える
標高200m程の山に築かれています。
立派な石碑と横に小さな五輪塔があるだけです。
石碑には矢印があり、左上を指しており、
矢印方向の山が城山らしいとのことです。
川瀬城は山頂に南北に長い
楕円形の主郭があり、
周囲に低い土塁が概ね巡り、
南東側に虎口があります。
東下には帯曲輪があり、
その南端に竪堀があります。
南尾根は二段ほどの
腰曲輪らしき削平地があり、
さらに南の尾根は石積された平段があります。
この辺りは開墾されていたらしく、
堀切は確認できませんが、
西側に大きく竪堀が落ちています。
この他北西尾根にも
腰曲輪のような平段があります。
赤木城と5km余の距離の場所にあります。
築城者や城主などは不明です。
藤堂高虎らの
新領主に抵抗した
旧来の北山の国人士豪らの誰かの
居城だったのでしょうか?
【所在地】
三重県南牟婁郡御浜町川瀬
赤木城~築城は藤堂高虎で続日本100名城に選定、田平子峠刑場跡と共に国の史跡に指定されています。
田平子峠処刑場~新領主に抵抗した旧来の北山の国人士豪達が処刑された刑場の跡。
尾鷲・中村山城~仲氏の本拠の城でしたが、堀内氏善に攻略され和睦し降伏しました。
金井城(北金井城)~種付千代次秀信の居城、遺構が良好に残っています。
笠木館~笠木御所とも呼ばれ北畠氏の一門である坂内氏の居館、県内屈指の中世の居館跡となります。
浜田城(伊勢国)~田原忠秀が築城し四日市の地名も誕生、後に滝川一益に攻略され落城、子は小牧・長久手の戦いで討死
堀内氏屋敷~堀内新宮城とも呼ばれた熊野水軍の将であった堀内氏善の居城跡です。
鬼ヶ城本城~有馬忠親の隠居城でしたが攻城され熊野水軍を率いた堀内氏善が治めました。
紀伊・長島城~北畠氏の家臣である加藤氏が南北朝に築城、奥村氏に時を超えて数度裏切られる。
有馬本城~鎌倉時代に熊野別当家の出という有馬氏が築城したと伝わります。
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