【源頼茂】
源頼茂(みなもと の よりもち、
治承3年(1179年)?⇒承久元年7月13日
(1219年8月24日))は、
鎌倉時代前期の武将でした。
源頼兼の長男で源頼政(馬場頼政)の孫です。
正五位下、大内守護、安房守、近江守、右馬権頭。
【源頼茂の生涯】
父である源頼兼と同じく都で
大内裏守護の任に就く一方、
鎌倉幕府の在京御家人となって
双方を仲介する立場にありました。
建暦3年(1213年)の
和田合戦にも幕府方として参戦し、
建保4年(1216年)には
5人から9人に増員された
政所別当に任じられています。
承久元年(1219年)に
鎌倉で行われた将軍源実朝の
右大臣拝賀式にも参列し、
源実朝暗殺事件に遭遇しています。
けれども、源実朝暗殺後の
同年7月13日、
後鳥羽上皇の命に従った
在京御家人にその在所であった
昭陽舎を襲撃されてしまいます。
源頼茂は応戦し抵抗しましたが、
仁寿殿に篭り火を掛け自害し、
子の頼氏は捕縛されました。
討伐の理由として、
「愚管抄」「保暦間記」では
源頼茂が将軍職に就くことを
企てたためとされております。
「吾妻鏡』では後鳥羽院の意に
背いたためと記されています。
後鳥羽院が突如源頼茂を攻め滅ぼした
明確な理由はわかってはいませんが、
鎌倉と通じる源頼茂が
京方の倒幕計画を
察知した為ではないかとする説も
あるとのことです。
後鳥羽院は、関東調伏のため建立した
京都にあった
最勝四天王院を貞応元年(1222年)に
焼失させています。
その建物内で
鎌倉幕府の倒幕の祈祷を行っていた
可能性があるとされています。
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また「愚管抄」には
源頼茂と藤原忠綱の間に
怪しい共謀があったとし、
藤原忠綱は源実朝暗殺後に
九条基家を次期将軍にしようと
画策して後鳥羽院に
解官・所領没収されており、
その赦免を願っていたのが
卿二位兼子(藤原兼子)
だったと記されています。
そのことから、卿二位の推す
頼仁親王の将軍就任が
後鳥羽院によって拒絶され、
卿二位の政敵である
西園寺公経の外孫三寅が
有力な将軍候補となったため、
卿二位が何らかの妨害を企み
発覚したのが
源頼茂謀反の真相であろうとするものです。、
後鳥羽院は在京武士の訴えで
源頼茂捕縛を試みましたが、
召喚に応じず討伐に至ったとして、
承久の乱に至る
公武対立の図式ではなく
後鳥羽院政下における
権力闘争の一つとして
位置付ける説もあるともされています。
このように追討の原因には
様々な説が綴られていますが、
確たる証拠はなく、
おそらくは後鳥羽院の
鎌倉幕府に対する示威あるいは
挑発ではないかとの見方が真相に
最も近いとされています。
この合戦による火災で
仁寿殿・宜陽殿・校書殿などが焼失し、
仁寿殿の観音像や内侍所の神鏡など
複数の宝物が焼失してしまいました・・・。
【馬場信春は子孫説】
甲斐の武田信玄の四名臣の一人とされる
馬場信春を出した馬場氏も
出自に諸説がありますが、
一説には源頼政の子孫であるということです。
2022年NHK大河ドラマ
「鎌倉殿の13人」では
井上ミンジュさんが演じられます。
後鳥羽院(後鳥羽上皇)、承久の乱を起こし文武両道多芸多能で怨霊伝説もあるスゴイ人物。
藤原兼子~後鳥羽天皇の乳母で院政で権勢をふるい朝幕関係に手腕を発揮するも承久の乱後に権力を失う。
慈円~歴史書「愚管抄」の著者で九条兼実は同母兄、天台座主を務め小倉百人一首にも選出されています。
藤原秀康~承久の乱での朝廷側の大将軍ですが、後鳥羽上皇に見捨てられ京で斬られます。
源実朝~3代将軍にて天才歌人~繊細で思慮深く秘めた志あり、やがて雪の中に散っていく。
北条義時~鎌倉幕府2代執権~冷酷無情・現実を客観視して行動できる理想家なのか?
北条政子~いちずに恋した乙女は幾多の悲しみと困難を乗り越え尼将軍となった。
北条泰時~道理の人~北条執権政治の中興の祖で御成敗式目を制定した。
北条時房~初代連署で六波羅探題南方、北条義時の弟で甥の北条泰時とは最高の相棒であり好敵手でした。
三浦義村~鎌倉幕府の創設期から執権政治の確立まで仕え権謀術数に優れた策略家
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