【本證寺】
本證寺(ほんしょうじ)は、
愛知県安城市野寺町にある
真宗大谷派の寺院です。
山号は雲龍山。野寺御本坊とも
呼ばれています。
【三河触頭三ヶ寺】
安城市南東部に位置し、
周囲には善證寺・宗玄寺・金襲寺などの
寺院があります。
上宮寺(じょうぐうじ)
(愛知県岡崎市上佐々木町)、
勝鬘寺(しょうまんじ)
(愛知県岡崎市針崎町)
と並んで三河触頭三ヶ寺として
知られています。
【三河一向一揆の拠点】
戦国時代には
三河一向一揆の拠点となりました。
こうした経緯から、
鼓楼や土塁を備え、
水濠に囲まれた城郭寺院(城郭伽藍)
となっています。
また、書院は親鸞が泊まった際に、
天井裏まで雨漏りがしていたのに、
部屋までは漏らなかったという
伝承が残されており、
「雨もり御殿」と
言われているとのことです。
【名称】
城郭関係書籍などでは、
本證寺城として
言及されることもあるとのことです。
「本証寺」「本証寺城」と
表記されることもあるとのことですが、
寺号の表記は本證寺が
正式であるとのことです。
寺域は約33,000m2あります。
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【創建】
鎌倉期の創建で戦国期には
三河一向一揆の拠点になった
本證寺は、現在でも鼓楼や
一部の水濠が残り、
城郭伽藍としての面影を
見ることができます。
また、国指定重要文化財の
聖徳太子絵伝をはじめとし
数々の寺宝があります。
【歴史】
建永元年(1206年)頃、
親鸞門侶の慶円により開創されました。
三河国の一向宗の3か寺として、
「三州一向宗乱記」には
「当国碧海郡野寺村の本證寺と申すは、
一向宗の小本寺にて、
守護不入の道場、
当国三箇寺の其の一箇寺なり」
と記載されているとのことです。
天文18年(1549年)の
門徒連判状に
武士門徒115名が
署名しているなど、
その当時における
本證寺門徒団の
三河地方での一大勢力ぶりが
窺えます。
三河一向一揆では、
上宮寺、勝鬘寺と並んで
一揆の拠点となりました。
「三河物語」にも
「野寺之寺内、土呂・鍼崎・野寺・
佐々き(三河四ヶ寺・一向一揆の主力)」
などとして登場しています。
三河一向一揆は松平(徳川)家康配下の侍が
寺内の不入権を侵したことが
発端となり起こりました。
本願寺門徒であった
松平(徳川)家康家臣侍の一部が
離反し寺院に立て籠もりましたが、
鎮圧され、坊主衆と門徒侍は
領国から追放されました。
一向一揆は永禄7年(1564年)の
小川の戦いで敗れ、
当主の空誓上人は逃走したため、
一時は廃寺となりましたが、
寛文3年(1663年)までには
再興したとされています。
江戸時代になりますと、
第4代将軍の徳川家綱の
将軍就任にあわせて拝謁。
以降、江戸幕府と
尾張徳川家の代替わりごとに
拝謁を行っていたことから、
他の三か寺と同様に
両家と密接な関係を
持っていたことが分かります。
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【境内】
境内は二重の堀と土塁に囲まれるなど
城郭的防備に主眼を置いた
伽藍配置になっています。
「城郭伽藍」・「城郭寺院」とも呼ばれます。
現在土塁は、一部が庫裏の北側に
残存しています。
二重の堀のうち、内堀はすべて現存し、
外堀は大部分が地中に埋もれていますが、
近年の発掘調査によって
詳細が明らかになりつつあります。
境内には県指定文化財の本堂
(寛文3年(1663年))をはじめ、
市指定文化財の鐘楼
(元禄16年(1703年))・
鼓楼(宝暦10年(1760年))・
経蔵(文政6年(1823年))・
裏門(1700年前後)
といった江戸時代前期から
中期の建物が残っています。
その他、聖徳太子絵伝(重文)など
数多くの文化財を所蔵しています。
2015年3月10日、
「本證寺境内」が
国史跡の指定を受けました。
安城市においては87年ぶり、
3件目の指定とのことです。
2017年4月29日、
地域住民らの主催により
第1回「本證寺フェスティバル」
が開催されました。
ひつぎに入った参加者に
住職が読経する「納棺体験」、
雅楽、太鼓演舞、歴史講演会、
鉄道模型コーナーなど
様々な催しが
本堂、境内、庫裏、西座敷の
4つの会場で行われたとのことです。
なお2022年は前夜祭として5月3日、
「本證寺フェスティバル」として
5月4日に開催されました。
※駐車場が別の場所で
シャトルバスが出たとのことです。
【営業時間】
午前9時~午後4時
【駐車場】
無料(普通車約30台)
【交通アクセス】
(電車・タクシー)
●名鉄西尾線「南桜井」駅から徒歩約15分程度。
●JR東海道線「安城」駅からタクシー約20分程度。
(車)
国道23号(岡崎バイパス)「藤井IC」から約5分
【所在地】
〒444-1165 愛知県安城市野寺町野寺26
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