【穴山信君】
穴山 信君(あなやま のぶただ)/
武田 信君(たけだ のぶただ)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
甲斐武田氏の家臣で御一門衆の一人。
穴山氏7代当主でした。
穴山氏初代は
南北朝時代の甲斐守護である
武田信武の子である
義武(修理大夫)となります。
【穴山梅雪の名】
壮年期(天正8年頃)に剃髪して
梅雪斎不白と号したので、
穴山梅雪(あなやま ばいせつ)の名で
よく知られています。
後代には武田二十四将の一人に含まれており、
南松院所蔵本では
武田信玄の傍らに配置されています。
武田信玄末期より仕え武田勝頼期にも
重臣として仕えましたが、
織田信長の甲州征伐が始まると
武田氏を離反しました。
【生誕】
天文10年(1541年)
【死没】
天正10年6月2日
(1582年6月21日)
【改名】
勝千代(幼名)⇒信君⇒
梅雪斎不白(号)
【別名】
信良、梅雪、武田左衛門
通称:彦六郎、左衛門大夫
【墓所】
飯岡墓地(京都府京田辺市飯岡)
大乗寺 (静岡県静岡市清水区)
霊泉寺(静岡県静岡市清水区興津井上町)[注釈 1]
【官位】
陸奥守、伊豆守、玄蕃頭(玄蕃允)
【幕府】
室町幕府
【主君】
武田信玄⇒勝頼⇒織田信長
【氏族】
穴山氏(武田氏)
【父】
穴山信友
【母】
武田信虎娘・南松院(武田信玄姉)
【兄弟】
信君、信嘉(信邦)、彦九郎
【妻】
正室:武田信玄次女・見性院
【子】
勝千代、武田信親室
【養女】
下山殿(秋山越前守娘、徳川家康側室)
【特記事項】
武田二十四将の一人
【武田義信事件と穴山家】
「甲陽軍鑑」によりますと、
永禄4年(1561年)の
第四次川中島の戦いにおいては
武田信玄本陣を守ったということです。
戦後、武田家中では武田信玄の嫡男である
武田義信による謀反が発生します。
「甲陽軍鑑」では事件を
永禄7年(1564年)7月の
出来事としていますが、
永禄8年(1565年)6月に
武田義信とその側近である
長坂・曽根氏が
二宮・美和神社へ
太刀を奉納していることから、
実際には永禄8年7月の
出来事であったと考えられています。
武田義信事件は三国同盟維持派の
武田義信と今川氏との同盟を破棄する
武田信玄派の間の対立構図が
考えられていますが、
「甲斐国志」では、
身延過去帳を根拠に
永禄9年(1566年)に
穴山信君(穴山梅雪)の弟である
穴山信嘉(信邦、彦八郎)
が自害したことを記しており、
武田義信事件と関係があるとも
考えられています。
当主である穴山信君(穴山梅雪)の立場は
不明ですが、
穴山家中においても
内訌が存在していたとも
見られています。
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【信玄の駿河国・遠江国への侵攻と穴山梅雪の活動】
武田氏は武田信玄後期に
駿河国・遠江国への侵攻を行い
織田・徳川勢力と対峙します。
この駿河・遠江侵攻において
穴山信君(穴山梅雪)の活動が見られます。
武田氏は永禄11年(1568年)に
駿河侵攻を開始しますが、
穴山信君(穴山梅雪)は
侵攻に際して内通を試みた
今川家臣や徳川氏との取次を
務めています。
翌年の永禄12年(1569年)には、
富士氏が籠城する
大宮城を葛山氏元と共に攻めています。
その後駿府を占領した武田氏に対し
相模国の小田原北条氏・
三河国の徳川氏が
今川救援のために出兵すると、
同年4月に武田方は一時甲斐へ撤兵。
この際に穴山信君(穴山梅雪)は
興津横山城において籠城し、
万沢氏や臣従した望月氏に対して
知行を与え在地支配を試みています。
駿河は第二次侵攻を経て
武田領国化されますが、
穴山信君(穴山梅雪)は
山県昌景の後任として江尻城代となり、
支城領としての「江尻領」を
形成したということです。
【長篠の戦い】
天正3年(1575年)5月21日におきた、
織田・徳川連合軍との長篠の戦いでは
武田信豊・小幡信貞と共に中央に布陣しました。
長篠の戦いでは多くの武田重臣が
奮戦して戦死していますが、
穴山信君(梅雪)・穴山衆に関しては
諸記録に戦闘の様子を
記したものが見られず、
穴山衆の多くも戦後に
無事帰還しています。
「甲陽軍鑑」「甲陽軍鑑末書」では、
穴山信君(梅雪)は長篠合戦において
積極的攻勢に出なかったと記しており、
穴山信君(穴山梅雪)は
決戦に反対したとする記録も
見られるとのことです。
【春日虎綱の五箇条の献策】
長篠合戦に敗退した武田勝頼は
信濃国へ逃れると戦後処理を行い、
同年6月2日に甲府へ帰還しました。
「甲陽軍鑑」において、
信濃北部の海津城に在城していた
武田家臣である
春日虎綱(高坂昌信)は
敗戦の報を知ると信濃国駒場において
武田勝頼を迎え、
五箇条の献策を行ったということです。
春日虎綱は五箇条の献策において
相模の小田原条氏との婚姻による
甲相同盟の強化や、
戦死した重臣子弟の
奥近習衆取り立てなどを進言し、
第五に武田信豊と
穴山信君の切腹を進言したということです。
「甲陽軍鑑」には春日虎綱が
信君・信豊に切腹を求めた
詳細は記されてはいませんが
武田勝頼は北条との同盟を除いて、
虎綱の献策を退けたということです。
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【梅雪斎と号する】
天正8年(1580年)、
出家し梅雪斎(ばいせつさい)
と号しました。
【織田信長への内通開始】
天正9年(1581年)12月、
武田勝頼の寵臣・長坂長閑、跡部勝資らを憎み、
織田信長に内通し始め、
翌年2月、武田勝頼が娘を
穴山梅雪の嫡男に娶らせる約束を
反故にして武田信豊の子に
娶らせるとしたことに激怒し、
徳川家康に降ったという話が、
飯田忠彦氏の「野史」
に見られるとのことです。
【徳川家康の与力】
天正10年(1582年)、
織田信忠の甲斐侵攻に際しては、
2月25日に甲府にいた人質を逃亡させ、
甲斐一国の穴山梅雪への拝領と
武田氏の名跡継承を条件に、
2月末に徳川家康の誘いに乗り、
織田信長に内応したとのことです。
(「家忠日記」、「信長公記」、
「記録御用所本子文書」)。
その結果、穴山梅雪は織田政権より
甲斐河内領と駿河江尻領を
安堵された織田氏の従属国衆となり、
徳川家康の与力として位置づけられました。
【横死】
同年5月には織田信長への
御礼言上のため徳川家康に随行して上洛し、
近江国安土(滋賀県近江八幡市安土町)
において織田信長に謁見します。
堺(大阪府堺市)を
遊覧した翌日の6月2日に
京都へ向かう途上で
明智光秀の謀反と
織田信長の死(本能寺の変)を知り、
徳川家康と共に畿内を脱しようとしますが、
宇治田原で郷民一揆の襲撃を
受けて亡くなりました。
「家忠日記」では自害、
「信長公記」では一揆により
生害されたと伝えられ、
殺害と自害の両方の意味があります。
【死去時の別の解釈】
一方、「フロイス日本史」では、
穴山梅雪は徳川家康一行から
遅れて移動していたところを
落ち武者狩りの執拗な襲撃に遭い
殺害されたとしています。
「東照宮御実紀」では、
穴山梅雪が徳川家康を疑い
別行動を取ったところを、
明智光秀から徳川家康追討の命を受けた
一揆勢によって徳川家康と誤認されて、
家臣の帯金美作守らと共に
宇治田原で殺害されたとしています。
このように、自害ではなく
落ち武者狩りや一揆によって
殺害されたとする資料も見受けられます。
一方、別行動を取ったとされる
徳川家康はかろうじて
三河国に帰国しました。
いわゆる伊賀越えです。
「甲陽随筆」では墓所は
草池(内)村木津川ノ西南段ノ岡」
と記されているとのことです。
法諱は霊泉寺殿古道集公大居士。
【天正壬午の乱】
穴山梅雪の没後、
嫡男である穴山勝千代(武田信治)が
武田氏当主となります。
天正10年(1582年)6月に
発生した信濃・甲斐を巡る
天正壬午の乱では穴山衆は
徳川家康に臣従しました。
穴山梅雪は武田親族衆の
秋山氏の娘である
於都摩の方(下山殿)を
自らの養女として徳川家康に
輿入れさせていたとのことです。
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【勝千代(武田信治)の死去】
天正15年(1587年)、
勝千代が死去しました。
徳川家康と側室於都摩の方の子で、
徳川家康五男・万千代(武田信吉)が
甲斐武田氏の名跡を継承しました。
なお、武田信吉は
天正18年(1590年)に
甲斐河内領から
下総国小金城3万石分封となっています。
【江戸時代】
慶長7年(1602年)、
武田信吉は常陸国水戸25万石に封ぜられ、
穴山衆を中心とする
武田遺臣を付けられて
武田氏を一時再興しましたが、
翌年の慶長8年(16033年)に
武田信吉は死去しました。
【何故武田家を離反したか】
穴山梅雪は武田滅亡に際して
武田家再興を名目に主家から
離反しており、
同じく武田信玄の娘婿でありながら
織田家に寝返った木曾義昌や
郡内領主の小山田信茂らと共に
主家から離反した行動に関して、
これを謀反とする見方があるとのことです。
また、戦国領主としての穴山氏や
小山田氏の位置づけに関して
様々な見解が示されており、
穴山・小山田氏と武田氏の関係を
連合政権であったとする見方もあります。
その見解では
穴山梅雪や小山田信茂の離反は
主家滅亡に際して
個別領主の立場から
離反に至ったとのことです。
また穴山氏歴代当主の
武田親族意識の観点から
穴山梅雪の親族意識は
特に強いものであり、
穴山梅雪の離反は
武田家再興ではなく
穴山氏自体の発展を
意図したものであるという
見方もできます。
・・・簡単にいうと
武田勝頼に見切りをつけて
独自で行く!とのことですかね?
しかし、身内になりながら
「裏切った」ことへの代償は大きく、
何がなんでも彼の子孫は残さないとする
とある意思が強く働き、
その子供世代は亡くなっていきました・・・。
本人が権力に刃を向けて亡くなっても
その子孫が繫栄している場合もあれば、
裏切りなどで生き続け、
それなりの地位を得たとしても
その子孫が短命だったり、
理由をつけて失脚させられたりします。
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本人の真実の沙汰は
子孫によって行われるのですね。
2023年NHK大河ドラマ
「どうする家康」では
田辺誠一(たなべせいいち)さんが
演じられます。
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