【常陸・長山城】
築城年代は定かではありませんが、
長山氏(あるいは永山氏)によって築かれました。
長山氏は大掾氏の庶流行方氏の一族で、
行方幹平の次男である
知幹与一次郎が行方郡長山村に住んで
長山氏を称した事に始まります。
【別名】
永山城
【遺構】
土塁、郭、堀
【城主】
長山氏(永山氏)
【歴史】
大永2年(1522年)、
同族の島崎城主である島崎忠幹に攻められ落城、
城主である長山幹綱は自刃して果てました。
長山幹綱の子である長山勘解由政幹は
落城寸前に城を脱して
太田城主である佐竹義篤を頼って落ちていきました。
長山城は、常陸平氏大掾嫡流行方氏の
小高幹平の次子知幹の築城に始まります。
それは、鎌倉時代中期の事で、
長山氏の祖となったのでした。
以来200年以上続きました。
その間、七代宗幹の時、
歴史上有名となる
上杉禅秀の乱(応永23年(1416年))では、
本宗家大掾満幹に従って
戦功をたて、しだいに勢力を増していきました。
大永2年(1522年)十代幹綱の時、
同族の島崎忠幹に攻められ落城しましたが、
その子政幹は佐竹義篤のもとに逃れ、
その保護を受けました。
この時、島崎氏が
長山領との境の川を夜渡り、
長山城を攻めたことから、
この川を「夜越川」と
呼ぶようになったとのことです。
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【長山城の構造】
城郭の縄張は、
主各部を先端に置く
連格式の平山城で、
当時三方は湿地帯に囲まれ
天然の要害地となっていたとのことです。
現在も本丸跡、二の丸跡、土塁跡、濠跡、
升形跡等の遺構が見事に残されています。
三の丸跡は、現在の緑地公園
(かすみの郷公園)となっています。
城の周辺には、城山、城山入、城山前、
後堀城山入、根古屋、上根古屋、
下根古屋、下根古屋沖、門前、
寺台、坊田、坊田台、笠坊、
染屋、染屋台、大門、口渡、
弓内、浜弓場等の関係地名を残しています。
【所在地】
〒311-2437
茨城県潮来市永山
【かすみの郷公園・所在地】
〒311-2437 茨城県潮来市永山1716外
【交通アクセス】
東関東自動車道潮来ICより約20分
【トイレ】
かすみの郷公園内にあります。
長山城跡案内碑のそばになります。
【駐車場】
長山城跡専用の駐車場はありません。
かすみの郷公園の駐車場はあります。
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