史跡・城跡

土屋惣蔵昌恒~出自は金丸氏で武田家最後の家臣にて忠臣、子供は大名になります。

土屋惣蔵昌恒の墓 入り口



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【土屋惣蔵昌恒】 

土屋惣蔵は武田家の重臣である
金丸氏の4代目となる
金丸筑前守虎義の5男に生まれました。

武勇に優れ、永禄11年の今川家との
宇津房合戦に13歳で初陣し、
敵方の岡部貞綱家臣の首を討ち取りました。
永禄11年(1568年)の駿河侵攻後に
武田信玄に降り、
武田家の海賊衆となった岡部貞綱は、
自分の家臣を討ち取った昌恒を
養子にしたいと嘆願したということです。
岡部貞綱は後に武田信玄より土屋姓を与えられ、
永禄13年(1570年)には
土屋豊前守貞綱を名乗っています。

これにより惣蔵は土屋貞綱の養子となり、
圡屋昌恒と名を改めたのでした。

武田勝頼の側近として】
元亀3年(1572年)、
武田氏が徳川と戦った、
三方ヶ原の戦いで戦功をあげた
土屋惣蔵昌恒は、武田信玄亡き後、
家督を継いだ武田勝頼の側近となりました。
武田勝頼時代、土屋昌恒は主に
東海道方面・関東方面の戦いの多くに参加しました。

武田勝頼は美濃、遠江、三河へと
破竹の勢いで進出していきましたが、
天正3年(1575年)の長篠の戦い
織田・徳川連合軍に破れ、
これが武田家の衰運を
決定づけることになったのでした。
土屋惣蔵昌恒はこの戦いで
武田24将にも数えられた
兄の土屋右衛門尉昌続と、
養父貞綱を失い、
急遽、甲府に帰還して
家禄を相続しています。

兄と父の討ち死、土屋氏継承
土屋昌恒は武田信玄と
武田勝頼期の武田家に仕えました。
天正3年(1575年)5月21日の
長篠の戦いでは兄の昌続・養父の貞綱がともに戦死し、
昌続と定綱の双方に男子がいなかったため、
昌恒は両土屋家を継承し、
昌続と貞綱双方の遺臣を率いたのでした。




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敷島町島上条大庭にあったと
伝えられる土屋右衛門尉昌続の
居館も受け継ぎ、
以後そこを自身の館として
武田勝頼に仕えたとのことです。
武田勝頼は新府城を築城して
武田陣容の立て直しに努めましたが、
時勢にのった織田・徳川軍は
甲斐国に侵攻し、
武田家の家臣たちを
次々に離反、投降させていったのでした。

武田家最後の家臣
天正10年(1582年)3月、
織田・徳川連合軍の甲州征伐では、
最後まで武田勝頼に従いました。
「新編会津風土記」によりますと、
同年3月1日に最後となる
龍朱印状を奉じています。
「甲乱記」にでは、
武田勝頼一行が小山田信茂を頼り
郡内へ逃れる最中に小山田信茂の離反を知り、
動揺する武田勝頼側近の跡部勝資に対して
これを非難したということです。

織田信長の武田攻めで、
家臣の離反が相次ぐ中、
土屋昌恒は最後まで勝頼に従い続けて
忠義を全うしたのでした。
武田勝頼たちは最終的に天目山へ向かいましたが、
武田勝頼に付き従った者は、
田野村に着く頃には
土屋昌恒を含めてわずか数十人だったとのことです。

【片手千人斬り】
信長公記」・「甲乱記」・「甲陽軍鑑」では、
天目山の戦いにて武田勝頼が自害を覚悟したとき、
土屋昌恒は武田勝頼が自害するまでの時間を稼ぐため、
織田勢を相手に奮戦したとあります。
その際、狭い崖道で織田勢を迎え撃つため、
片手で藤蔓をつかんで崖下へ転落しないようにし、
片手で戦い続けたことから、
後に「片手千人斬り」の異名をとったとのことです。

【三日血川】
土屋昌恒のために日川に突き落とされた
千人もの兵が流した血は、川の水を赤く染めて、
それは3日間も色をt
失わなかったとの言い伝えがあります。
人々はのちにこの川を
「三日血川(みっかちがわ)」と呼ぶようになり、
後世まで片手千人斬りの伝説を
語り伝えたのでした。

土屋昌恒のこの働きにより、
武田勝頼は織田方に
討ち取られることなく自刃しました。
理慶尼記」では、
武田勝頼の命で自害した夫人に
介錯をしたともいわれています。

【土屋昌恒、死す】
この片手千人斬りの伝説を
打ち立てた土屋惣蔵昌恒も、
武田勝頼の後を追って
悲運の最期を遂げたのでした。
享年は27歳でした。

土屋惣蔵昌恒 墓所

【織田信長も賞賛】
土屋昌恒の働きは戦後、
織田信長からも賞賛され、
「よき武者数多を射倒したのちに
追腹を切って果て、比類なき働きを残した」
と「信長公記」に記されています。
「三河物語」では、徳川家臣の大久保忠教
土屋昌恒の活躍を賞賛しています。




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【没後】
武田家の滅亡後、
同年10月9日に土屋民部少輔が
高野山成慶院において土屋昌恒の供養を行いました。
法名は「忠叟道節大禅門院」。
なお「寛永諸家系図伝」では法名を「道節」、
「甲斐国志」によりますと
甲州市大和町田野の
景徳院の位牌では
「忠庵存孝居士」としているとのことです。

【武田家最後の忠臣として】
多くの家臣が叛いていく中、
最後まで武田勝頼に付き従い、
主君を守り抜いた姿は、
武田家最後の忠臣として
後世に話り継がれています。
なお、土屋惣蔵昌恒の生家の金丸家は、
2代伊賀守光信が
現在長盛院がある
崖上の地に館を築き、
代々徳永を中心とした
地域を治めたとのことです。

【土屋昌恒の子供】
土屋惣蔵には子供がいました。
天正17年(1589年)、
徳川家康は鷹狩りの途上、
静岡県清見寺を訪れました。
そこで一人の子供と出会います。
その子がお茶を出す姿に、
徳川家康は「尋常の者ならず、何者の子ぞ」
と住職に問うたとのことです。
住職が土屋昌恒の子と伝えると
あの忠臣昌恒の子かといたく納得し、
徳川家康が身柄を引き取ります。
そして、徳川家康の側室であり、
徳川家康に最も愛されたという
文武両道の阿茶の局の養子となったのでした。
後に徳川秀忠に仕えて忠直と名乗ります。
そして慶長7年(1602年)には
千葉県久留里藩を与えられ、
初代土屋藩主となったのでした。 

その後3代直樹の代で改易され、
その子逵直(土屋主税として知られる)
以降は旗本家として存続しました。
一方、土屋忠直の次男である
土屋数直が常陸土浦藩主に
取り立てられて始まった分家である
土浦藩土屋家は嫡流の改易後も
大名家として続きました。

【土屋昌恒の子孫】
元禄14年(1701年)に起きた
赤穂事件(忠臣蔵)に、
土屋忠直の子孫たちは深く関わっています。
一人は土浦藩主で事件当時老中職にあった
土屋政直(まさなお)で赤穂浪士を裁く立場。
もう一人は敵役吉良邸の隣に住んだ
土屋主税(ちから)で、
討ち入りを見逃すだけでなく
高提灯を掲げ赤穂浪士を助けたといわれています。

【土屋惣蔵昌恒の墓】 
墓所 長盛院(山梨県南アルプス市)

土屋惣蔵昌恒の墓

【所在地】
〒400-0203 山梨県南アルプス市徳永1685−1

【交通アクセス】
金丸氏館跡にある長盛院手前左側にあります。
お墓がある場所も長盛院の境内、とのことです。

【駐車場】
お墓付近には駐車場はありません。
一時停車できるスペースもありません。

【金丸氏館】

築城年代は定かではありませんが
金丸氏によって築かれました。
金丸氏は甲斐武田氏14代
武田信重の子光重を祖とします。
現在の長盛院の地に館を築いた金丸氏は
代々武田家に仕える家柄でありました。
金丸光重には子がなかったことから
一色藤直の子藤次を養子に迎え
金丸伊賀守となります。
その後、金丸若狭守虎嗣、
金丸筑前守虎義と続きます。
金丸義虎の五男である昌忠が
武田勝頼の逃亡に殉じた土屋昌忠で、
その子は徳川家康に仕えて土屋忠直と称し、
江戸時代には
上総国久留里藩二万石の大名となっています。
更にこの分家の家系が
常陸国土浦藩土屋家で明治まで続きました。

金丸虎義の次男である土屋昌続は、
武田信玄病没後は家督を継いだ
武田勝頼を支え
武田二十四将に数えられていました。




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金丸氏館は現在の長盛寺境内一帯でした。
境内の北から西に掛けて土塁があり、
西は若干外側に堀跡らしき窪地がありますが、
今はあまり明瞭ではないとのことです。

金丸氏館跡1

「甲斐国志」には、
南アルプス市徳永に位置する
曹洞宗寺院長盛院境内が
土屋昌続の実家である
金丸氏の「数代ノ居址ナリ」との記述があります。
実際に長盛院は
御勅使川扇状地扇端部の東側を
釜無川が削りとった崖上に位置していて、
館にふさわしい立地条件を備えています。
さらに現在でも長盛院の西側には
土塁と堀跡が残されています。
その土塁の中央には虎口と推測される
約3mほど土塁が途切れた部分も見られます。
古書等によりますと、
本来土塁は北側、南側にもあったとされています。

金丸氏館跡2

現在の長盛院は延宝5年(1677年)
(甲斐国志では延宝4年)、
長盛院九代序法によって
金丸氏館跡地に移転されたとのことです。

【長盛院・所在地】
〒400-0203 山梨県南アルプス市徳永1678

【交通アクセス】
(電車)
JR中央本線「竜王」駅から車で10分程度。
3.9km

【金丸氏(甲斐武田氏流)】

甲斐守護武田信重
(甲斐武田氏の第14代当主)の子、
武田光重が金丸を称したのが始まりです。
「甲斐国志」によりますと、
かつて存在した鞠部氏系の
金丸氏の名跡を
復興させるかたちで
金丸氏を称したということです。

武田光重は子が無く、
一色藤次(光信)が養子となって継ぎました。
藤次の子・虎嗣、虎嗣の子・虎義と続きました。

武田信虎、武田晴信(信玄)期には
金丸筑前守(「甲斐国志」では「虎義」)が活躍しました。
「甲斐国志」によりますと、
金丸虎義は現在の
南アルプス市徳永の地を領していたと言われ、
光信(藤次)開祖とされている
曹洞宗寺院の長盛院や、
中世の土豪屋敷跡の遺構である
金丸氏屋敷跡があります。

金丸氏館跡3

虎義の長男・平三郎昌直は
武田信玄に仕えましたが
永禄3年(1560年)3月に
横死したため、
四男の定光が金丸氏を継ぎました。
次兄昌続(金丸平八郎)が土屋氏を名乗り、
三兄・昌詮は秋山虎繁(信友)の
養子になっていたためでした。
定光は武田信玄及び武田勝頼と仕えましたが、
天目山の戦いで最後まで武田勝頼に従い、
自害して果てました。
このとき実弟の土屋昌恒と秋山親久も死去しています。

金丸定光の子・定信は生き延び、
甲斐国を徳川家が領すると、
徳川家康から御朱印を賜ったと伝わっています。
定信の長子・吉次の子孫は数代浪人していましたが、
利八のとき巨摩郡今諏訪村(現・南アルプス市)
の里長となり、苗字帯刀を止めたということです。
定信の次子・重次は徳川忠長に従ったといい、
その系統は重良が徳川家綱のとき
漆奉行・小普請などを
歴任するなど旗本となりましたが、
重良から重政・信乗と続いた後、
四郎兵衛定曹のとき
江島生島事件に連座して子息共々重追放となり、
家は断絶したということです。
(「山梨県姓氏歴史人物大辞典」)

武田信玄~風林火山の軍旗のもとに、戦に明け暮れ駆け抜けていった53年の人生でした。

躑躅ヶ崎館(武田氏館跡)~武田信虎が築城し、信玄、勝頼と3代続いた戦国大名武田氏の中心地です。

武田勝頼~甲斐源氏・戦国大名としての甲斐武田氏最後の当主、素質と環境が合わず悲劇が訪れます。

甘利氏館と扇子平山城~甘利氏は甲斐源氏で、戦国時代には武田家臣の譜代家老を務めました。

積翠寺にある武田信玄公産湯の井戸跡と背後の要害山城、続日本100名城です。

湯村山城~躑躅ヶ崎館の西の守りの詰めの城として武田信虎が築城しました。

土屋右衛門昌続とその屋敷跡~武田24将の一人で武田信玄死後3年間遺体を隠した場所とのことです。

大乗院~土屋氏屋敷跡、土屋宗遠を祖とする土屋氏は北条氏・足利氏・武田氏・北条氏政・徳川家に仕えました。

土浦城~伝説上では平将門の砦、文献上では八田知家後裔の若泉氏が築城、戦国期を経て土浦藩となる。

山本勘助晴幸屋敷~隻眼・片足不自由だが摩利支天のようだと称えられた軍師の屋敷跡。

尾附城 ~山中衆の土屋山城守高久が築城、武田の武将小幡氏の重臣である熊井土氏の配下です。

岡部元信~今川家の忠臣で歴戦の武将、後に甲斐武田家に仕え、徳川家康の前に立ちはだかり高天神城で散る。

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