【石浜城】
石浜城(いしはまじょう)は、
中世の浅草付近にあった日本の城。
【石浜城について】
石浜は浅草の北側にある
古利根川(現在の隅田川)右岸地域の呼称です。
かつてこの付近に武蔵国と下総国の境目をつなぐ
「隅田の渡し」があったとされています。
築城年次は不明ですが、
中世には江戸氏一族の石浜氏が
本拠を構えていたとされています。
文和元年(1352年)には、
新田義興(新田義貞の次男)の追撃を受けた足利尊氏が
この地で武蔵平一揆に迎えられて追撃を退け、
再起を図った場所であります。
【室町時代中期】
【武蔵千葉氏】
室町時代中期、
享徳の乱に伴って発生した
千葉氏の内紛では、
宗家の生き残りである
千葉実胤(千葉兼胤の孫)が
下総国を追われて
扇谷上杉家の庇護下に入り、
石浜城を拠点としました。
この際、弟の千葉自胤も赤塚城に逃れています。
けれども、下総回復は達成できず、
扇谷上杉家の没落後は小田原北条氏に従って
同氏一族の千葉胤村を当主に迎え、
豊臣政権の小田原征伐によって没落し、
石浜城も廃城となりました。
曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」に登場します。
【所在地】
〒116-0003 東京都荒川区南千住3丁目28−58
(石浜神社)
【石浜城の所在地について】
城の所在地については、
関東大震災以前に
台東区橋場にあった総泉寺が
武蔵千葉氏の菩提寺であり、
石浜城もその側にあったと見られています。
けれども以下の二つの説があります。
<1>
荒川区南千住の石浜神社付近にあったとする説。
<2>
台東区浅草の本龍院(待乳山聖天)付近にあったとする説。
江戸時代以後の古利根川⇒隅田川の
流路の変化や都市化の進展によって
付近の地形も大きく変わっており、
遺構なども全く見つかってはいなません。
「新修荒川区史」は、
石浜神社の神官が千葉氏の一族である
鏑木氏によって世襲されていることから、
<1>の説を主張しています。
一方、「東京市史稿」は、
「石浜城の跡今の金龍山にて、聖天宮なり」
として本龍院説をとり、
「大日本地名辞書」「望海毎伝」も
<2>の説を載せているとのことです。
中世を通じて同一の場所に石浜城があったのか、
また城そのものの規模についても、
全く不明でナゾにつつまれたままとなっています。
スポンサーリンク
【石浜神社】
聖武天皇の神亀元年(724年)9月11日、
勅願によって鎮座され、
以来約1300年の歴史がある神社です。
文治5年(1189年)、
源頼朝の奥州征討に際しての社殿の寄進、
弘安4年(1281年)、
蒙古襲来の折、必勝を祈念しての、
鎌倉将軍家お取り次ぎによる
官幣(かんぺい:天皇から神に捧げる礼物)の
奉納などを経て、
中世初めには大社として発展しました。
千葉氏、宇都宮氏などの関東武将の信仰は篤く、
関八州より、多くの参詣者を集めたとのことです。
<ご祭神>
天照大御神
豊受大御神
【交通アクセス】
<電車>
南千住駅より徒歩15分程度
(JR常磐線・地下鉄日比谷線・つくばエクスプレス)
浅草駅(地下鉄銀座線・都営地下鉄浅草線)よりタクシーで10分
<バス>
荒川区コミュニティバス「汐入さくら」
南千住駅西口⇒南千住三丁目(下車5分)⇒南千住東口
<車>
首都高速6号向島線:「堤通」出口より3分
首都高速1号上野線:「入谷」出口より15分
中曽根城(渕江城)~武蔵千葉氏の本拠地である赤塚城の支城で、築城者は千葉勝胤とされています。
宇都宮城~800年の歴史を誇る関東七名城~宇都宮氏が築城し本多正純が築いた城下町
この記事へのコメントはありません。