城跡

三春城(続100名城)~仙道地域の拠点として戦国時代に田村氏が築城し、江戸時代は三春藩となりました。

三春城址(舞鶴城址)



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【三春城】

三春城(みはるじょう)は、
陸奥国田村郡、
現在の福島県田村郡三春町にあった日本の城です。
三春町指定史跡です。
別名は舞鶴城と称します。
三春藩の藩庁でした。

<三春城跡 ごあんない>
三春城跡 ごあんない

【別名】
舞鶴城

【城郭構造】
山城、平山城

【天守構造】
なし

【主な改修者】
松下長綱

【主な城主】
田村氏、松下氏、加藤氏、秋田氏

【廃城年】
明治4年(1871年)

【遺構】
曲輪

【指定文化財】
町指定史跡

【三春城について】
三春城跡は、三春町の中心部、
標高407mの丘陵地にあります。
戦国時代は田村氏、
江戸時代は松下氏、加藤氏、秋田氏の居城でした。
現在は公園として整備され、
桜の名所としても知られています。
城跡近くには、町役場など
公共機関が集まっており、
現在も三春町の中枢部である地域となっています。

三春城本丸跡からの眺め

【三春城の歴史】
【室町時代・安土桃山時代】
【田村氏時代1】
三春城がいつ頃築城されたのか定かではありません。
史料上においてはっきりしていることは、
永正元年(1504年)に
田村義顕が守山城(現在の福島県郡山市)より
三春城に本拠を移したということです。
田村氏は田村郡全域を支配していた豪族です。
系図上は坂上田村麻呂
子孫となっていますが
その点は疑問となっています。
田村氏は田村義顕の後、
田村隆顕、田村清顕と続きました。
田村隆顕と田村清顕の時代、
田村郡のある仙道地域(現在の福島県中通り)は、
会津黒川城の蘆名氏、
小高城の相馬氏、岩城郡の岩城氏、
出羽米沢城の伊達氏、常陸の佐竹氏などの
周辺各地の有力豪族が
その勢力拡大のため進出してきていた時代でした。
それらの豪族より力の劣る田村氏は、
各有力豪族と血縁関係を結び、
各豪族の利害関係を利用して、
領地を保つ状況であったのでした。

三春城 愛姫の碑から本丸への道

例えば、永禄元年(1568年)の
蘆名盛氏の仙道侵攻に対しては、
田村隆顕は自分の正室(伊達稙宗の娘)
の実家である伊達氏を
後盾にこれに対抗しました。
また、天正元年(1573年)の
佐竹氏の仙道進出には、
一転して蘆名氏と連合を組んで
これを撃退しています。
けれども、翌年に蘆名氏と佐竹氏の
同盟が成立してしまいます。
さらに同じ仙道地域の小豪族である
二本松城の二本松義継や
小浜城の大内定綱らもそれに呼応して
反田村氏となったため、
田村氏は四方を敵に
囲まれることになっていまいました。




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このような危機的状況の中、
田村氏は田村隆顕から
田村清顕に代替わりしました。
田村清顕の正室は相馬顕胤の娘であったので、
相馬氏とは友好関係が保たれてはいましたが、
さらに田村清顕の一人娘である愛姫
伊達輝宗の嫡男である伊達政宗に嫁がせて、
伊達氏とも同盟関係を結ぶことにしたのでした。

<愛姫生誕の地の碑>
愛姫生誕の地の碑

しかしこのころ、相馬氏と伊達氏は
伊具郡(宮城県丸森町)を巡って
対立を深めており、
相馬氏は佐竹氏や蘆名氏等と
手を組むこととなるのです。

【田村氏時代2・伊達政宗との関わり】
天正12年(1584年)に
伊達政宗が伊達氏家督を相続すると、
伊達政宗は積極的に仙道進出を繰り返します。
このため、田村氏を除く
仙道地域の諸豪族は
佐竹・蘆名・岩城・相馬などと連合を組み、
伊達氏に対抗します。
けれども伊達政宗は、
父である伊達輝宗が二本松城主の
二本松義継に
謀殺されるなどの試練を乗り越え、
天正13年(1585年)冬、
人取橋の戦いにおいて伊達・田村軍は
数的に圧倒的不利な状況で
佐竹氏・蘆名氏等の連合軍の
仙道制覇を阻むことに成功しました。
その後、形勢は逆転し、
伊達政宗の南奥羽制覇につながっていくのですが、
その過程において、
天正14年(1586年)に
田村清顕が死去し、
田村清顕に男子がいなかったため
田村氏家督が不在となる状況が生じました。
そのため、田村清顕夫人(相馬顕胤の娘)が
三春城主となったのですが、
このとき、田村家中60数名が
一致団結を約した誓書(血判状)を
したためているます。
しかし、血判状とは裏腹に
田村家中は清顕夫人の縁に頼って
相馬氏と同盟を組むべしと
主張する一派(相馬派)と
これまでどおり伊達氏との同盟を継続すべしと
主張する一派(伊達派)に分裂したのでした。

三春城 三ノ門への道

このような家中の状況の中、
天正16年(1588年)に相馬派は
家中掌握のため相馬義胤を
三春城に入城させようとします。
相馬義胤は三春まで進出しましたが、
伊達派の田村月斎等の反撃にあい、
撤退を余儀なくされたのでした。
その後、その年の8月に伊達政宗は三春城に入城し、
1ヶ月半程滞在して田村領の仕置を行い、
家中から相馬派は一掃され、
田村清顕の甥の田村宗顕を三春城主としたのでした。
この時をもって、田村氏は実質的に
伊達氏に従属したことになったのでした。
なお、田村氏は伊達政宗の指示によって
小田原征伐に参陣しなかったために
豊臣秀吉の奥州仕置によって改易となったのでした。




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田村家中はその後、伊達氏に仕えた者、
新領主である蒲生氏に仕えた者、
帰農した者など、
それぞれの道を歩むことになったのでした。
田村宗顕は流浪した後、
伊達政宗の死後に
愛姫のとりなしによって
白石城主である片倉重長に仕えました。

【蒲生氏時代】
奥州仕置によって、
三春城は一旦は伊達政宗に預けられて
片倉景綱が置かれましたが、
間もなく田村郡は蒲生領となり、
田丸具直が城主となりました。
けれども、理由は不明ですが
遅くても文禄4年(1595年)までに
田丸氏は守山城に移されて
同年に豊臣秀吉の命によって
三春城は廃城とされています。
その後の田村郡は上杉領、
再び蒲生領となっていますが、
慶長14年(1609年)までに
守山城主であった蒲生郷成が
再び三春城に移されたのでした。

【江戸時代】
【松下氏時代まで】
その後は加藤領となりましたが、
三春城主には一族や重臣が配され、
石高も5万石前後と
一般大名なみの所領を与えられていました。
寛永5年(1628年)、
松下長綱が三春3万石に封じられ、入城します。
この松下氏時代に三春城は改修され、
それまでの戦国城館的なものから
近世城郭として生まれ変わったのでした。

【秋田氏時代】
現在の三春城の構造は、
この松下氏時代の城郭を
基本としているとされています。
ただし、この時点ではまだ山城であり、
近世的な平山城になるには
次の秋田氏時代を
待たなければなりませんでした。
松下長綱は
寛永21年(1644年)に改易となり、
翌年、常陸国宍戸から
秋田俊季が5万5千石の領主として
三春城へ封じられました。
なお秋田氏は中世に十三湊
一大隆盛を誇った安東氏の末裔です。

その後、秋田氏は幕末まで
三春藩主として君臨しました。

<秋田家祖先尊霊碑>
秋田家祖先尊霊碑

なお、幕末の戊辰戦争の際、
官軍(薩摩藩・長州藩・土佐藩迅衝隊など)が
隣藩の棚倉城を落とすと、
断金隊隊長の美正貫一郎の尽力や
河野広中らの働きによって
秘かに板垣退助らと会談して
三春藩は奥羽越列藩同盟を脱退、
官軍に無血降伏したのでした。
そのため、三春城は周辺諸藩と違い、
逆賊のそしりを受けず、落城を免れたのでした。
(見方を変えれば・・・・・。うーん)

【近現代】
三春城は明治4年(1871年)の
廃藩置県によって廃城となり、
その後、兵部省の管轄となりました。
それに伴い、建物や石垣等が取り壊され、
民間に払い下げられました。
その際、ほとんどの建造物は失われましたが、
藩校明徳堂の表門が
三春小学校の校門として移築され、現存しています。

その後大正11年(1922年)に
山頂部分(本丸)は城山公園として整備され、
道路が開削されるなどして
地形は大きく変わりました。
二の丸付近には駐車場が整備されて
アジサイなどの花が多数植えられ、
愛姫生誕の地の碑が立っています。
また、山麓の秋田氏時代の居舘跡や
武家屋敷があった地域は、
役場や合同庁舎、公民館、小学校などとなり、
この一帯が現在も
三春町の中枢地域の役割を担っています。

2017年(平成29年)4月6日、
続日本100名城(110番)に選定されました。

【スタンプ設置場所】
<1>
三春城跡本丸
【所在地】
所在地: 〒963-7759 福島県田村郡三春町大町

【交通アクセス】
(電車)
JR磐越東線「三春」駅から徒歩30分
(車)
磐越自動車道「船引三春」ICから15分
【駐車場】
三春町役場駐車場(無料)
三春城跡・愛姫生誕の地の碑にも駐車場あり

<三春城跡駐車場>
三春城跡 駐車場

<三春城跡駐車場への道>
三春城跡駐車場への道

<愛姫生誕の地の碑 駐車場>
愛姫生誕の地の碑 駐車場

<2>
三春町歴史民俗資料館(御城印も購入できます)
【所在地】
〒963-7758 福島県田村郡三春町桜谷5番地
<電話番号>
0247-62-5263  
<ファックス> 
0247-62-6953
<最寄の駅>
JR磐越東線「三春」駅
<最寄のバス停>
三春町役場(町営バスさくら号、福島交通)
<最寄の施設>
三春町役場
<最寄の駐車場>
歴史民俗資料館前駐車場(10台程度)

<営業時間>
午前9時~午後4時30分(入館は午後4時まで)
<定休日>
月曜日
(ただし、その日が国民の祝日にあたる場合は開館します)
国民の祝日の翌日
(ただし、その日が土・日曜日にあたる場合は開館します)
年末年始




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<歴史民俗資料館入館料(自由民権記念館を含む)>
◆一般・大学生:300円(20人以上の団体:250円)
◆小・中・高校生・障がい者手帳をお持ちの方:150円
(20人以上の団体:120円)

【トイレ】
本丸跡から少し下がった場所にあります。
男女別の綺麗な水洗トイレです。

【構造】
戦国時代の三春城は、
山頂部分の本丸に城主居舘を置き、
それを中心に郭を配置した
典型的な山城であったと考えられています。

<三春城跡概略図>
三春城跡概略図

本来の城である本丸を中心とした
「主城」の東南には「東館」と呼ばれる曲輪が、
谷を挟んだ北西には「月斎館」
と通称される曲輪があり、
2つの曲輪は「主城」から
一定の自立性を保っていました。

<揚土門跡>
揚土門跡

けれどもその後、後期蒲生氏時代に
「主城」と「東館」部分に
石垣が設けられた頃には
「月斎館」は放棄されており、
その後「東館」も放棄されていたのでした。

<三ノ門跡>
三ノ門跡 三春城

<三階櫓跡 付近>
三階櫓跡(三春城) 付近

<長屋跡>
長屋跡 三春城

<本丸跡>
本丸跡(三春城)

<本丸跡・奥跡>
本丸跡・奥跡(三春城)

<本丸跡からの眺め>
本丸跡からの眺め(三春城)

なお、本丸跡より少し下がった処にトイレがありますが、
その場所はお風呂場だったそうです。

更に江戸時代初期の松下長綱による改修により、
かつての「主城」の一部である
本丸西の山麓部分(現在児童公園)に
二の丸、東側の山麓に三の丸が設けられていました。

<二の丸(戦国時代)>
戦国時代は本丸のすぐ下が
二の丸だったとのことです。
(長屋・三階櫓があった広場)
江戸時代に入り、
この場所は本丸下段と呼ばれるようになったそうです。
二の丸(戦国時代)(三春城)

<裏門跡から二の丸へ>
裏門跡 二の丸へ(三春城)

<二の丸>
江戸時代はこちらが二の丸だったそうです。
二の丸(三春城)

<二の丸散策路(江戸時代)>
二の丸散策路 入り口

それらの周囲の丘陵の中腹地
(現在お城坂といわれる登り口付近)には
重臣の屋敷が配置されたのでした。




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さらに秋田氏時代になると、
藩主の居舘を山頂の本丸から
山麓に移し(現在の三春小学校一帯)、
名実ともに近世的な平山城へ
生まれ変わったのでした。
天守はありませんでしたが
本丸下段(戦国期の二の丸)に
三層三階の櫓があり
威容を誇っていたとのことです。

<三春城 在りし日の姿>
三春城 在りし日の姿

所要時間:30分~40分程度

【藩講所表門(明徳門)】
18世紀後半に7代藩主秋田倩季により、
藩士子弟の教育を目的として設けられた
藩講所の表門で、
倩季の筆による明徳堂の
扁額を掲げていることから
明徳門とも呼ばれています。
講所は天明元年(1781年)に
現在の三春町福祉会館の場所に建てられました。
しかし、天明5年(1785年)に
城下のほとんどが焼けた火災で
講所も焼失し、その後、
役場新庁舎が建設されている場所に
再建されました。
明治時代になると講所は廃止され、
師範学校や三春小学校分教場、
自由民権運動の学塾である
正道館などとして使用されました。

藩講所表門(明徳門)

昭和時代には、公会堂建設のため
元講所の建物は取り壊されましたが、
表門は銅板葺きとなって残されました。

その後、昭和22(1947年)、
同地に三春警察署が建てられるのに伴い、
追手門があった三春小学校入り口に移され、
小学校の校門として親しまれています。

藩講所表門(明徳門)

藩講所明徳堂表門は、
江戸時代から現代に至るまで
三春町の教育の場の象徴となっているとのことです。

【所在地】
〒963-7759 福島県田村郡三春町大町

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