【出雲・鶴ヶ城】
【形態】
山城(147m/135m)
【遺構】
石垣,土塁,郭,堀
【別名】
田儀城
【施設】
トイレ・駐車場有
【概要】
築城年代は不明ですが、
大永年間に小野玄蕃によって
築かれたと云われているそうです。
【落城の経緯】
元亀3年(1572年)、
小野氏の家臣である広瀬右近之丞が守っていましたが、
毛利輝元によって攻められ落城し、
その後は田儀城と改められて、
毛利氏の家臣の大鳥馬田が城主となったということです。
【築城年としての一説】
鶴ヶ城の始まりは、
康和4年(1102年)、
源義家の嫡子である源義親が、
隠岐へ流される途中、清嶽山に柵を作り
鶴ヶ丸と名付けて
弟の水面の義忠とともに守ったそうです。
また、吉野朝のころ(1336年~1392年)、
地頭古荘二郎左衛門が清嶽山へ
築城したことも伝えられています。
【尼子氏の時代の築城年】
室町時代の大永年間(1521年~1528年)、
小野(古荘)玄蕃守が清嶽山に城を築き、
鶴ヶ城と名付け、
尼子36城の一城として1万5千石を領しました。
当時は尼子氏が山陰山陽11か国を
勢力下に治めていたころの事でした。
【毛利氏との攻防】
元亀3年(1572年)、
小野氏の家老である広瀬右近之丞が
鶴ヶ城をよく守り、防戦していましたが、
銅山師の三島清右衛門の進言を入れた
毛利輝元に攻められて落城しました。
その後は、徳川幕府の武家諸法度により
廃城となりました。
【地形】
山頂(標高147.4メートル)には
500坪(1650平方メートル)
余の平坦地があります。
その下方南側には
200坪(660平方メートル)程の馬場跡、
その西に弓場跡と思われる平坦地が見られます。
大手木戸口は津戸側であったと
伝えられているとのことです。
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