城跡

高津戸城~高津戸渓谷、断崖絶壁の城~悲話や不思議な云い伝えあり

高津戸城跡 



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高津戸城

高津戸城(たかつどじょう)は、
群馬県みどり市高津戸地区にあった日本の城(山城)です。
高津戸渓谷東岸の崖上に築かれた城です。
本丸は要害山の山頂にあり、
今では本丸跡に要害神社があります。

【城郭構造】
山城
【築城主】
山田筑後守則之
【築城年】
承徳・康和年間
【主な城主】
山田氏など
【標高(比高)】
270m(100m)
【遺構】
堀切、竪堀、井戸、土塁
【指定文化財】
みどり市指定史跡

【築城や城主】
平安時代の承徳・康和年間(1097年⇒1104年)、
山田氏によって築かれたと伝わっているそうです。
けれども南北朝時代の観応2年・ 正平6年(1351年)、
十代目山田筑後守則之(範行とも記す)の代、
桐生国綱の家臣である谷(やつ)四郎直綱に
攻め滅ぼされてしまいました。
そしてこの後に入ったのが里見氏となります。

【仁田山里見氏時代】
里見氏の七代目である里見義連の三男、
仁田山氏連が桐生国綱の娘を正室に迎えます。
その縁で建徳2年・ 応安4年(1371年)、
仁田山八郷を桐生国綱からまかされたのでした。
なお仁田山城は山田氏の旧居城でした。
仁田山里見氏が支配していた高津戸城でしたが、
仁田山氏連より四代後の仁田山宗連が
越後の上杉謙信に攻められ自刃して果てています。
天正2年(1574年)9月のことでした。
なお、仁田山宗連の子である里見宗義と里見義宗は
碓氷郡里見郷に逃れて榛名里見氏となったとのことです。

【里見実堯(勝広)】
房州の安房里見一族である里見実堯(勝広)は、
内紛から逃れて桐生助綱の許可を得て
仁田山に住む一族の
仁田山宗連の許に身を寄せていました。
そして赤萩城を任されたそうです。
1570年に桐生助綱が死去し、
家督を継いだのが桐生親綱でした。
けれども、この桐生親綱は
大変な暴君との言い伝えがあり、
里見実堯(勝広)は疎んじられていきました。
桐生親綱に何かと注意をする里見実堯(勝広)は
やがて切腹させられます。
切腹させられた理由としては別の説があります。
里見実堯(勝広)息子たちの
里見勝政と里見勝安を上杉謙信に託したのでした。
これが桐生親綱に内通と誤解され、
元亀元年(1570年)3月20日に
詰め腹を切らされたというものです。

桐生親綱の居城は柄杓山城(えしゃくやまじょう)で、
別名桐生城ともいいます。
この柄杓山城は1573年に由良成繁が攻撃し、
桐生氏は佐野城に逃亡して滅んでいます。
そして高津戸城は由良氏の家来である
石原石見守に任されたのでした。

越後の上杉謙信の元にいた兄弟は、
親の仇を打ちたいと
天正4年(1576年)10月に高津戸城に隠れ、
その翌年の5月2日用明の砦を襲いましたが、
城主である石原石見守を取り逃がしてしまいます。
石原石見守は由良国繁に属していたため、
兄弟は由良国繁の怒りを受けて
攻められ天正6年(1578年)9月18日、
弟の勝安は深手を受けて討死、
兄の勝政は城兵の助命を条件に
切腹して果てたと伝わっています。
時に兄の随見勝政28歳、
弟の勝安25歳であったとのことです。

要害山のふもとの阿弥陀堂には
里見兄弟の墓が伝来しているそうです。




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【里見兄弟は創作?】
けれども「大間々町誌」によりますと、
里見兄弟の伝説はそれを裏付ける同時代史料がなく、
また里見氏の系譜に勝広らの名もなく、
更に由来に登場する桐生氏も
後世の軍記物にしかみえない状態であり、
一連の伝説は後世に創作された
物語である可能性が高いとの指摘があるそうです。

【その後の高津戸城】
そのあとの高津戸城は、
由良氏の属城となっていましたが、
天正12年(1584年)、
由良国繁と北条氏直が敵対し、
北条氏直は神梅(深沢)城主である
阿久沢氏に高津戸城を任させたとの事です。
そして高津戸城は1590年の豊臣秀吉に夜
小田原城攻めまで、北条方の城として使われてた模様です。

【哀しい逸話】
1574年9月の上杉謙信による高津戸城攻めの際、
高津戸城の姫が味方に裏切られて
無念のまま断崖絶壁から身を投げ
渡良瀬川に落ちて命を絶ったとの話が伝わっています。

<高津戸渓谷>
高津戸渓谷

【要害神社の不思議な云い伝え】
要害神社は元は金毘羅宮であったそうです。
この神社は願い事をかなえてくれるとういうことで
昔から有名な神社であるとの事です。
ですけれども、ある時、
全く逆になるとの事です。
云い伝えによりますと、
夏のある日ある時、
この神社の本殿裏の境内に
神域への道が開かれるとのことです。
けれども、通常はそのような道はありません。
そして神域への道が開かれた時、
神域はとても幻想的な場所ですが、
そこでは一切願い事をしてはならないそうです。

この神社の辺りは、何故か
古い遊具があります。
まさか、このような山ろくの
さびた古い遊具で遊ぶ子供などいない、
と思われがちですが、
遊ぶこどもの姿が時折みられる、とのことです。

【はねたき橋と高津戸城】
はねたき橋と高津戸城跡 

<はねたき橋からみた渡良瀬川>
はねたき橋からみた渡良瀬川

【構造】
多数の平場から成り、
堀切、竪堀、井戸などが残っています。
一方で明瞭な虎口は見当たらず、
土塁もわずかしか見られないとのことです。

なお、高津戸峡沿い側の遊歩道は
整備のため2020年3月19日まで
整備中のため通行止めとなっている模様です。

【所在地】
〒376-0113 群馬県みどり市大間々町高津戸1089

【駐車場】
◆三の丸駐車場(10台程)あり
◆はねたき駐車場(麓)

【交通アクセス】
わたらせ渓谷鐵道「大間々」駅」車徒歩6分
東武桐生線・上毛電鉄「赤城」駅下車徒歩20分

<大間々駅にあるわたらせ鐡道の車両>
大間々駅にあるわたらせ鐡道の車両

【トイレ】
はねたき広場・公衆トイレ
三の丸駐車場にあります。




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【はねたき道了尊】
道了尊は「どうりゅうさん」という呼び名で
江戸時代から信仰を集めていました。
元々はこの地より100mほど上流側に鎮座し、
かつては参道には湯屋や茶屋が立ち並び
賑わいを見せていましたが、
昭和22年のカスリーン台風により
濁流に呑まれその全てが流出してしまいました。
堂が失われた後は僅かな篤信者により
細々と信仰が続けられていましたが、
地元民の強い要望もあって、
平成15年に道了尊を
現在の場所に移転・勧請されたとのことです。

はねたき道了尊 不動明王

【はねたき道了尊の信仰】
道了尊は子育ての仏様です。
ここではちょっと変わった信仰として、
非行、不登校など、
心の捻じれた子供を立て直すために
「ねじれ木」を奉納するそうです。
心の捻じれた子の親は道了尊に参拝し、
ねじり木を一本持ち帰り、
朝夕に「拗ねた心の子供はすなほなれかし」
と唱えるそうです。
そして大願成就のあかつきには、
ねじり木を二本にしてお礼参りするそうです。
また、お手水はセンサーで水が出るようになっているそうです。

<ねじれ木と下駄>
ねじれ木と下駄

【駐車場】
隣にあります。
15台位は駐車できます。

【道了尊について】
道了尊の姿は、烏天狗の姿をし、
疾風より早く駆ける白狐に乗り、
子供に宿る悪鬼を睨み付け、
右手のねじれ木で悪鬼を懲らしめ、
背後の火焔で煩悩を焼きつくします。
火焔を背負い右手に
拄杖左手に綱を持っているとされています。

十一面観世音菩薩の御化身とされています。

応永元年(1394年)、
曹洞宗の僧了庵慧明が最乗寺を開創すると、
慧明の弟子であった道了は
その怪力により寺の創建に助力しました。
師の没後は寺門守護と衆生救済を誓って
天狗となったと伝えられ、
最乗寺の守護神として祀られたとのことです。
庶民の間でも信仰を集めて講が結成されていきました。

<はねたき道了尊>
はねたき道了尊

【所在地】
〒376-0101 群馬県みどり市大間々町大間々1259

<はねたき道了尊から見た高津戸城(要害山)>
はねたき道了尊から見た高津戸城(要害山)

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