進士貞連(進士作左衛門)は、戦国時代の武将で、明智光秀の譜代衆として名が見受けられます。
進士晴舎(進士美作守晴舎)の次男が、進士貞連ともされます。
譜代衆と言うのは、古くから代々仕えた家臣と言う事で、新参者ではありません。
細川家記によると、山崎の戦いで明智光秀が敗れたあと、明智珠の嫁ぎ先である細川忠興の次男・細川興秋に仕えたとあります。
そもそも、進士氏(しんじ-し)と言うのは、室町時代には幕府の奉公衆として名前がよく出てきます。
奉公衆と言うのは室町幕府の将軍直属の武士と言う事です。
ただし、主に将軍家の料理を担当する武士だったようで「進士流」と言う流儀も発生しています。
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なお、明智光秀は進士氏が出自で、最初は進士藤延(しんじ-ふじのぶ)と言う名前だったとする説もあるようです。
進士信周の次男として生まれたのが、進士藤延(明智光秀)ともあります。
進士信周は、美濃国石津郡の多羅城(大垣市上石津町多良)が本拠地でした。
奉公衆・進士晴舎(しんじ-はるいえ)は、ルイス・フロイスも「内膳頭」として料理長のように記録しています。
この進士晴舎の子が進士藤延ともあり、進士晴舎の娘・小侍従は足利義輝の側妾でした。
1565年、松永久秀と三好三人衆によって京都二条御所が襲撃される永禄の変にて、進士晴舎らの主従も討死しました。
このとき、小侍従(こじじゅう)は、足利義輝の子を宿しており、その女児が成長すると、妻木煕子、御ツマキになったともされていますが、実は男子で、明智光慶(明智光秀の長男)ともあり、賛否両論あって信憑性はなんとも言えません。
ルイスフロイスの「日本史」でも、進士晴舎と進士藤延は討死したとあります。
なお、明智光秀が明智城主となって家督を継いだ際に、後見したとする叔父・明智光安の妻は、武田信豊の娘ですが、一説では進士光信の娘とあり、側室または継室として、進士光信の娘が明智光秀の叔父の妻になっていた可能性も否定できません。
「明智氏一族宮城家相伝系図書」では、明智光綱に子がいなかったため、進士信周(進士勘解由左右衛門尉信周)の次男を養子としてもらい、明智光秀と改名させて家督を継がせた記録されています。
また、進士信周の妻は明智光綱の娘で、同じ奉公衆として血縁関係があったともあります。
なお、進士信周は、別名を山岸信周とも言います。
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このように、進士氏は、将軍の料理番といったところで、三好長慶らを将軍が饗応する際に、料理を出していました。
となると、織田信長が徳川家康を安土城に招いた際に、明智光秀に饗応役を命じたのも、この進士氏としての役割を期待した適材適所だったのかも知れません。
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