城跡

下野・川崎城~藤姓塩谷氏の塩谷朝業が鎌倉時代初期に本拠地として築城、塩谷(しおのや)氏とは?

下野・川崎城址



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【下野・川崎城】 

川崎城(かわさきじょう)は、
栃木県矢板市大字川崎反町小字中島
(かつての下野国塩谷郡)にあった
日本の城(山城)です。
塩谷氏の居城で、
正治建仁年間
(1199年~1203年)の頃築城。
文禄4年(1595年)2月8日廃城となりました。
塩谷城、塩谷故城、
蝸牛城などとも呼ばれています。
矢板市指定史跡。
下野・川崎城址 説明板

【別名】
塩谷城、塩谷故城、蝸牛城

【城郭構造】
山城

【築城主】
塩谷朝業

【築城年】
正治・建仁年間(1199年~1203年)

【主な城主】
塩谷氏

【廃城年】
文禄4年(1595年)

【遺構】
曲輪

【指定文化財】
矢板市指定史跡

藤姓塩谷氏時代】
川崎城は、正治建仁年間
(1199年~1203年)に
塩谷朝業により築城され、
以後塩谷氏の居城となります。
藤姓塩谷氏とは、
朝業から隆綱までの
塩谷氏のことですが、
この時代の川崎城に関する
事績は少ないです。
おそらく、侵攻されることもなく
塩谷氏の城として安泰であったため
と思われます。

川崎塩谷伯耆守実録には、
文安3年(1446年)8月3日
(大沢家記では8月13日)に
宇都宮持綱が川崎城を攻めた
記録がありますが、
これは、塩谷教綱が
川崎城下の幸岡ヶ原で
宇都宮持綱を殺害した事件を
正当化するために残された
記録であると考える説があります。
喜連川判鑑など他の資料と
照らし合わせてみても
事実ではない、とされています。
当地には、宇都宮持綱の墓とされる
上卵塔がありますが、
矢板市が設置した史跡案内板も、
この記録については採用しない
記述をしているとのことです。

【重興塩谷氏時代】
重興塩谷氏とは、
塩谷孝綱から義綱までの
塩谷氏のことです。
この時代、那須氏との対立が
激化していたこともあって、
川崎城が戦場となることが
度々ありました。
川崎城跡公園案内図
(矢板市)
川崎城は、度々戦場と
なっていましたが、
同族による内紛のときを除いて、
外敵からの侵略により
落城することは
一度もありませんでした。
永禄7年(1564年)10月7日の時は、
城の門番であった木村和泉が
孝信に内通していたため、
あっさりと城への侵入を許して
落城となりましたが、
永禄9年(1566年)に、
義綱がこれを取り返すべく
川崎城を包囲。
那須、佐竹、宇都宮からの援軍が
あったにもかかわらず、
攻め落とすのに百日あまりを要しました。
最もこの百日は、正確な数字ではなく、
それだけ長い期間を要したことを示す
比喩的表現ですが、
それほど川崎城が
難攻の城であったことがわかります。




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【廃城へ】
義綱の時の文禄4年
(1595年)2月8日、
豊臣秀吉に改易を言い渡され
川崎城は廃城となりました。

【川崎城の規模について】
城の東の天然の要害を成す
宮川の右手手前の山が新城部です。
奥の中央向かってやや左寄りの
山頂付近に主郭が存在していました。
川崎城は、南北約1km、
東西約200mの南北に長い城です。
主郭周辺は蝸牛城と
呼ばれる構造になっています。
主郭はその南端にあり、
時代を経て北へと城郭が拡大し、
主郭の北側に水の手曲輪、
さらに北に新城と呼ばれる
独立した城郭構造があり、
一城別郭を成していました。
その新城の北側の尾根続きの山は
的場山と呼ばれ、
射的場になっていたと
考えられており、
ここも川崎城の城域であったと
考えられています。

【地理地形】
川崎城は内川の支流宮川の西岸にあり、
川に沿って南北に伸びた丘陵に築かれています。
西側には東北自動車道が
城山を削って通っていますが、
遺構は比較的良好に残っています。

【構造】
川崎城は南端の山頂に本丸、
そこから北にむかって二の丸・三の丸、
水の手曲輪と続いています。

本丸は半円状で宮川に面した
東側は急峻、西側に土塁を設け、
その下に横堀を巡らしています。
本丸の南下には南曲輪、
東下には東出丸があります。
北西にあるのが二の丸で、
その北側に南北に分断する空堀があり、
北に三の丸があります。

【堀江山城の存在】
主郭より南方の尾根続きには
尾根上に堀切が存在し、
さらに南、主郭より
南方約500mのところには
堀江山城が存在していますが、
これを川崎城の一部として、
城の規模を
南北1.5kmとする見方もあります。
ただし、堀江山城と川崎城では
その成り立ちの歴史が違う上に、
堀江山城の城代が別に
任命されていた史実を
考慮すると、別の城として、
分けて捉えるのが自然となります。




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【滝原台】
また、堀江山城よりさらに
南東500mから
1kmほどのところに
滝原台というところがあり、
ここにも城郭遺構(境林城)
が残っていますが、
ここも川崎城の一部
であったとみられています。

【木幡神社と古墳?出丸?】
さらに、川崎城より東約1kmのところに
塩谷氏の氏神として信仰された
木幡神社がりますが、
この背後の丘上には
前方後円墳上の遺構があります。
これを古墳とする見方もありますが、
出丸として利用された可能性があり、
ここも川崎城の一部であるとする
専門家の見解があります。

【幸岡城
また、川崎城の北には、
尾根続きの場所に幸岡城があり、
これも川崎城の一部として
機能していたものとする見解もあります。

以上のように、川崎城の規模については
様々な見解が存在しています。

歴史が長い城ですから、
増築と改築を繰り返し行っていたのでしょうね。
常にバージョンアップしていたことでしょう。

【廃城の時期について】
川崎城の廃城については、
天正18年(1590年)の
豊臣秀吉による小田原征伐の際に、
時の城主である塩谷義綱が
これに直接参陣しなかったため、
あるいは、参陣した家臣の岡本正親が
主君義綱の謀反を訴えたため、
塩谷氏が改易となり廃城となった、
とする説明が多く見られます。
これは、那須記などにある記述を
そのまま採用した見解となります。
義綱は天正17年(1589年)6月29日に
上洛して、豊臣氏に対して
恭順の意を表しており、
小田原征伐に当人が参陣しなかったのは
史実ですが、正親を名代として
兵は派遣していました。

したがって、廃城の時期は、
塩谷氏の系図の上で
塩谷氏が改易となった
「文禄4年(1595年)2月8日」
であると考えられています。




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【所在場所】
川崎小学校の北側の県道242号線を
西へ進んで東北自動車道と交わる
手前にあるのが城山。
駐車場は山の東西両側にあります。
川崎城跡公園案内図

西側の高速道側にある
案内板の所にパンフレットが
置いてあるとのことでしたが、
訪れたときは一切見当たりませんでした。
なお東側の駐車場にはお蕎麦屋さんがあります。
「自然観察ふれあい広場」内とのことで
付近には城の湯温泉もあります。
塩谷地域初の農村レストランとのことです。

<ともなりそば処 信生庵>
<所在地>
〒329-2144 栃木県矢板市川崎反町59-160 

<営業時間>
午前11時~午後2時30分(L.O.) 

<定休日>
定休日 元日~1月3日

<駐車場>
30台

【交通アクセス】
矢板ICからは、車で約10分。
(約3.5km)
矢板北SICからは、車で約13分。
(約5.3km)
駐車場は29台分とのこと。

【所在地】
〒329-2144 栃木県矢板市館ノ川

【川崎城跡公園・所在地】
〒329-2144 栃木県矢板市川崎反町720

【塩谷氏】

塩谷氏(しおやし、しおのやし、
しおたにし、えんやし)は、日本の氏族です。

氏姓における塩谷の読み方については、
一般的には「しおや」ですが、
下野国塩谷郡を発祥とする塩谷氏が
「しおのや」と名乗っているほか、
「しおたに」「えんや」と呼称する
塩谷氏もいるとのことです。
宇多源氏の塩冶氏(えんやし)とは
別となります。

【塩谷氏(しおのやし)】
源義親の子の堀江頼純が
下野国塩谷郡に下り創始したのが
塩谷(しおのや)氏です。
これは、塩谷郡が大化の改新の古くから
「しおのや」と呼ばれていた事に
由来しています。
平安時代中期に編纂された
「和名抄」では
「志保之夜(シホノヤ)」と
注釈されており、
これを示すいくつかの和歌も
残されています。

そのため、下野国塩谷郡を拠点とした
塩谷氏は「しおのや」と名乗りました。
藤姓塩谷氏の初代である塩谷朝業も
「承久記」巻一において
「しほのや兵衛朝業」と記されています。
さらに江戸時代末期に編纂された
「下野国誌」にも「塩ノ谷」とあり、
江戸時代に至っても
下野国塩谷郡の塩谷氏は代々
「しおのや」と呼称されていたとのことです。
その直系の子孫も「しおのや」と名乗り、
地名としての呼称が「しおや」に
変わってからも、
氏姓の呼称は「しおのや」
のまま現在に至っているとのことです。

源姓塩谷氏
堀江氏
谷荘を支配したと伝わる
清和源氏の一族となります。
塩谷氏の系譜や
伝承・軍記物にみられ、
かつては伝説の存在と
されていました。
けれども現在では存在していた
可能性が高いと推定されています。
ただし存在を裏付ける確実な
同時代史料は
存在していないとのことです。




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<源姓塩谷氏(堀江氏)歴代>
初代:塩谷頼純(堀江頼純)
2代:塩谷惟純(堀江惟純)または頼賢
3代:塩谷惟頼(堀江惟頼)
4代:塩谷正義(堀江正義)
5代:塩谷朝義(堀江朝義)

「矢板市史」によりますと、
源義親の子である堀江頼純が、
父のために流罪となり、
大治5年(1130年)頃に
下野国塩谷郡に下り
塩谷荘司として塩谷氏を
名乗ったのが始まりと伝わっています。
ただし、その頃には堀江頼純は
没している可能性が高く、
「矢板市史」のこの見解については、
年代の整合性を検討する必要が
あるとのことです。
なお系図の所伝では、
「喜連川塩谷系図」は
義親の討伐後に頼純が
下野へ流罪となり孫の惟頼が
塩谷少将を名乗ったという
所伝が記載されているとのことです。
一方「秋田塩谷系譜」は、
堀江頼純が塩谷荘司として
塩谷姓創始したと
記されているとのことです。

【堀江氏の居城について】
塩谷荘33郷3万8千町を支配していました。
居城は「堀江山城」と
「御前原城」の両説があります。

【御前原城】
御前原城の築城年代には
二説あるとのことです。
一説は、築城者とされる
塩谷頼純がすでに存命していない
治承寿永年間(1177年~1183年。
間に養和の年号あり)の築城とする
説であり矛盾が生じます。
もう一説である正安4年(1315年)説が
有力とされております。
この場合、堀江氏の時代には
御前原城は存在していないことになります。
しかも、仮に治承寿永年間の
御前原築城の年代が
正しかったとしても、
塩谷氏は、その半世紀も前から
塩谷郡を支配しており、
当然、御前原築城以前の
居城があったはずとなります。
少なくとも御前原城は、
塩谷氏の最初の居城とは
なりえないことになります。
さらに平成の発掘調査によって、
御前原城の築城年代は
1400年初め頃と推測されたため、
より年代の近い正和4年築城説が
有力となりました。

【堀江山城説】
一方で堀江山城説では、
のちに御前原城となる
旧塩谷郡衙に塩谷頼純が
滞在した後、堀江山城を築いて移り、
5代の間、堀江山にあったとしており、
堀江山の名前からも
堀江氏の堀江山城居城説が
有力となっています。

菩提寺は、奉り墓として寺山観音寺、
埋め墓として六房寺の両墓制であったと
言われていますが定かではないとのことです。

5代目朝義に子が無かったため、
宇都宮業綱の次男竹千代(朝業)を
養子に迎え家督を相続させ、
源姓塩谷氏の時代は終焉となりました。

【喜連川源姓塩谷氏】
本家では源姓塩谷氏は断絶となりましたが、
2代目の塩谷惟純の次男である
惟広の子孫によって
血脈は維持されました。
大蔵ケ崎城 喜連川

<源姓塩谷氏(喜連川源姓塩谷氏)歴代>
初代:塩谷惟広(塩谷五郎)
2代:塩谷惟守(塩谷三郎)
3代:塩谷惟義(塩谷弥次郎)
4代:塩谷惟縄

同じ塩谷郡の喜連川の
大蔵ヶ崎城を中心に
三千町の領地を支配し、
惟広は治承・寿永の乱(源平合戦)
参戦して戦功を挙げ、
鎌倉幕府に源姓塩谷氏の地位を
確立していきます。
けれどもその子惟守が和田合戦において
和田義盛に同調して討死すると、
喜連川塩谷氏は
鎌倉において地位を失い
勢力は大きく衰退します。
和田塚
惟守の甥である4代惟縄の時、
惟縄に嗣子がなかったことから、
藤姓塩谷氏から塩谷忠朝を
婿養子に迎えて家督を
継がせることになり、
源姓塩谷氏は完全に途絶えたのでした。




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【藤姓塩谷氏】
源姓塩谷氏の最後の当主である
朝義の養子となった竹千代が元服して
朝業と名乗り、家督を継いだことで
藤姓塩谷氏の歴史が始まります。
(「秋田塩谷系譜」)。
朝業は婿として養子になったとも
伝わっています。
(「喜連川塩谷系譜」)
なお藤姓とは、朝業の実家である
宇都宮氏が藤原氏の出自で
あったためであるからです。

<藤姓塩谷氏歴代>
初代:塩谷朝業
2代:塩谷親朝
3代:塩谷泰朝
4代:塩谷盛朝
5代:塩谷朝定
6代:塩谷朝世
7代:塩谷家綱
8代:塩谷朝綱
9代:塩谷盛綱
10代:塩谷泰綱
11代:塩谷光綱
12代:塩谷秋綱
13代:塩谷教綱
14代:塩谷隆綱
※系譜および生没年は
「秋田塩谷系譜」から。
ただし朝綱・盛綱・泰綱・
光綱・隆綱については
記載の無い系譜があるとのことです。

【川崎城の築城】
朝業は、堀江山城の山続きの
北側500mほどの山頂に
新たに川崎城を築き居城とします。
菩提寺は長興寺です。
川崎城跡公園
藤姓塩谷氏は、14代、
約260年~300年間に渡り
続きますが、
応永30年(1423年)8月9日、
13代の教綱の時、
関東公方足利持氏と結び、
宇都宮氏に謀反を起こします。
時の宇都宮当主、宇都宮持綱を
自領の幸岡原に狩りに招いて殺害。
この35年後の
長禄2年(1458年)5月8日、
今度は教綱が、和睦を口実に
宇都宮城に招かれたところを殺害され、
藤姓塩谷氏は衰退します。
なお5月13日に宇都宮城からの
帰りの氏家で討たれたと記す
文献もあるとのことです。




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【藤姓塩谷氏時代の終焉2説】
教綱殺害により、
藤姓塩谷氏時代が終焉しますが、
その経緯には2説あるとのことです。
教綱の死で藤姓塩谷氏が断絶し、
宇都宮正綱の四男弥五郎が
名跡を継いで宇都宮氏の
影響下に入ったとする説。
(「下野国誌」所収「塩谷系図」)
もう一つの説は
教綱の子に隆綱がおり、
文明10年(1478年)正月18日に
塩谷弥五郎を養子に迎え、
隆綱の死とともに
家督を継がせたという説です。
(「秋田塩谷系譜」)
後者の説では、
この養子関係に拠って
宇都宮氏と塩谷氏は
和睦したということです。

【重興塩谷氏(再興塩谷氏)】
塩谷氏の家督を継いだ孝綱は
宇都宮氏嫡流の出身ですが、
孝綱の父の正綱は
芳賀氏(清原姓)から
宇都宮氏への養子でした。
従ってそれ以前の藤原姓塩谷氏と
区別して重興塩谷氏(再興塩谷氏)
などと呼ばれています。
芳賀氏と宇都宮氏

<重興塩谷氏(再興塩谷氏)歴代>
初代:塩谷孝綱
2代:塩谷義孝
3代:塩谷義綱
4代:塩谷義通
5代:岡本保真 (塩谷惣十郎)
6代:塩谷保正
7代:塩谷吉正
8代:塩谷明正
9代:塩谷奉正
10代:塩谷正義(大四郎)
11代:塩谷正路
12代:塩谷正是

「秋田塩谷系譜」では、
義孝と義綱の間に時綱、
冬綱、通綱という
3人の当主がいたとしています。
ただし後世において、
功績のあった塩谷氏の一族の者に
当主の地位を追贈した
可能性もあるので、
完全に架空の存在であるとは
言い切れないとのことです。
また、義通については、
義綱が家督を継いだのが
天正2年(1574年)11月のことであり、
義孝の死去から10年の空白があるため、
正室の子である義綱が元服するまでの間、
繋ぎ的に塩谷氏の当主であった
可能性も指摘されています。
一説では、時綱が義孝の弟で、
結城晴朝と戦って討死した
乙畑孫四郎こと塩谷義尾
(没年が同じ永禄2年(1559年))、
冬綱が孝信、通綱が義通とも
言われているとのことです。

【衰退】
重興塩谷氏の時代に入り、
永禄7年(1564年)10月7日に、
義孝が弟の孝信に殺害され
川崎城を奪われて以降内紛が続き、
天正18年(1590年)には、
家臣の岡本正親(芳賀氏の庶流岡本氏)に
独立されるなど衰退していきます。

【改易の時期】
文禄4年(1595年)2月8日、
塩谷義綱には豊臣秀吉により
改易が言い渡されます。
系譜に理由の記載はありませんが、
この2年後に本家である
宇都宮氏も改易されており、
豊臣政権内の政争に
巻き込まれた可能性が
あるとのことですが、
定かではないとのことです。
また、塩谷氏については、
小田原征伐の際、
直接参陣しなかったために
改易されたとする見解もありますが、
義綱は、天正17年(1589年)6月29日に
上洛して秀吉に恭順の意を表しており、
小田原征伐では、名代として
家臣の岡本正親を派遣していることから、
この時に改易になったとは考え難いとのことです。




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【改易後】
文禄4年(1595年)に
改易されましたが、
捨扶持として1千石が義綱に安堵されました。
けれども義綱はこれを捨て出奔し、
義綱の庶兄である義通が
岡本正親の甥であり
娘婿である関係からこの1千石を継ぎました。
義通の跡は次男・塩谷惣十郎こと、
岡本 保真(おかもと やすざね)が
家督を継いだとのことです。

【泉騒動】
けれども保真は、
正保元年(1644年)3月10日、
甥の岡本義政の謀略により殺害され、
この騒動の結果、岡本義政とともに
野州塩谷氏は改易となったのでした。

【塩谷氏の命脈を保つ】
その後、保真の三男保正が
桜田御殿(徳川綱重)に仕え、
(江戸幕府第6代将軍・徳川家宣の父、
第3代将軍・徳川家光の三男、
第4代将軍・徳川家綱の弟、
第5代将軍・徳川綱吉の兄です)
のちに30俵扶持の幕臣となり、
義通流の塩谷氏の命脈を
細々ながら保ちました。
江戸城 堀

【日田の名代官】
保正から数えて5代目となる
塩谷正義は幕府内で飛躍的な出世を遂げ、
大坂や九州の15万石の天領を支配する
日田の代官となり、最終的には
西国郡代にまで出世しました。
正義は日田の名代官として称えられ、
地元の人々に塩谷神社を建てて
顕彰されるなど崇敬される存在と
なったとのことです。

【佐竹家臣時代】
さて、塩谷義綱は、
改易となった後、
慶長2年(1597年)正月2日より
常陸国の佐竹義宣に仕えました。
慶長7年(1602年)に
佐竹氏が出羽国に転封となると、
これに従い、
出羽国平鹿郡横手に移り
十二所城代を務め、
子孫は、佐竹氏の家老職などを務めました。
けれども、その最後の当主である
温綱に子が無かったため、
嫡流は明治時代に断絶となりました。

源実朝~3代将軍にて天才歌人~繊細で思慮深く秘めた志あり、やがて雪の中に散っていく。

大蔵ヶ崎城(喜連川城)~平安時代の末期に塩谷氏が築城し400年統治後は足利氏の後裔である喜連川氏の居城。

矢板城~源姓塩谷氏の重臣矢板重郎盛兼が築城との伝承、川崎城の北の守りの支城でした。

和田義盛と和田合戦~三浦一族~鎌倉幕府創始の功臣だが北条義時に嵌められる

笠間城~鎌倉時代に笠間氏が築城し18代治めた後、江戸時代は笠間藩庁が置かれました。

宇都宮城~800年の歴史を誇る関東七名城~宇都宮氏が築城し本多正純が築いた城下町

真岡城~宇都宮氏の家臣であった芳賀氏の居城、江戸時代には陣屋がありました。

飛山城~宇都宮氏の家臣である芳賀氏の居城で築城は鎌倉時代、国指定の史跡です。

玉生城~塩谷朝業の曾孫の玉生忠景(忠昌)が鎌倉時代に築城、慶長2年まで玉生氏の城でした。

大宮城(塩谷町)~千葉常胤の子孫である大宮胤景が築城、その後は城主が変遷したと考えられています。

早乙女坂古戦場~那須氏と宇都宮氏が争い那須氏が勝利した古戦場跡です。

古河公方館跡~古河公方の存在とは?関東における戦国時代の幕開けの存在でした。

結城城~結城朝光が築城、室町時代の結城合戦の舞台、その後廃城になるも水野宗家が入り幕末まで続きました。

烏山城~下那須氏が築城した北関東有数の巨大城郭で国の史跡、蛇姫伝説があります。

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