【三河・岡山城】
詳細は不明です。
比高15mの丘陵端に
築かれた館城とされています。
14世紀後期、西条吉良家4代満義の
五男である満康が岡山氏の祖となり、
その後、岡山氏代々の
居城として存続したと云うことです。
16世紀中期、城主に
富永半五郎勝光・富永半三郎勝光の名があり、
室城主富永伴五郎忠元が
管理したとあります。
永禄4年(1561年)、
松平元康(徳川家康)の
「東条城攻め」で富永伴五郎忠元が討死、
敗れた東条(吉良)義昭は岡崎に
捕われたましたが、
1562年に許されて
東条に戻ったとのことです。
1563年「三河一向一揆」が起こると、
東条(吉良)義昭は再び徳川家康に背いて
東条城へ入ります。
が、一揆方の久留善四郎正勝は
徳川家康方へ寝返り、
岡山城に籠って
一番槍の功名を立てたと云うことです。
なお、お城の南東方向、
及び東条城の南西方向に
富永伴五郎一族討死の地があります。
東条城からのほうが近いです。
<所在地>
〒444-0533 愛知県西尾市吉良町寺嶋五反田57−1
永禄4年9月に起きた松平元康(後の徳川家康)と
吉良義昭の間で発生した
藤波畷の戦いにおいて、
吉良方の将「富永伴五郎」が
松平方の武将である
本田広孝に打ち取られた場所になります。
この伴五郎の死をもって、
吉良義昭は吉良城の開城を
決意したといわれています。
現在では1717年に
地元の方たちによって
富永伴五郎を弔うために
地蔵尊が祀られています。
【江戸期】
江戸期に入ると、
吉良上野介義弥の
次男である弥清が住し、
岡山八兵衛を称しました。
現在は山林に変わり、
曲輪が残っているとのことです。
県道318号線岡山信号を
南へ進んだ最初の辻を
右へ曲がった正面に見える山が
岡山城跡です。
南西の尾根端に墓地が在る場所です。
なお県道318号線を東へ進むと、
東条城跡が在ります。
【三河・岡山城所在地】
愛知県西尾市吉良町岡山字砦山21
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