【三河・今川城】
今川氏発跡地です。
三河・今川城(いまがわ-じょう)は
愛知県西尾市にあった城館です。
現在は埋め立ても進み、
大半が内陸地の西尾市街ですが、
当時は矢矧川の川幅も
広くなっており海岸線も
入り込んでたとのことです。
今川城はそうした海を望む
碧海台地にある今川荘に築かれた城館です。
【足利義氏・三河守護】
足利義康の孫である
足利義氏(あしかがよしうじ)は
三男ですが、正室が
鎌倉幕府執権の北条泰時の娘を
迎えていたため、
足利家の家督を継いで
和田合戦や承久の乱などで
戦功を挙げ、
三河国守護を得る事となりました。
【家督は足利泰氏】
足利義氏には足利長氏(ながうじ)、
足利泰氏(やすうじ)、
足利義継(よしつぐ)
の息子がいましたが、
家督を継いだのは
鎌倉幕府の執権である
北条泰時の娘から産まれた
次男の足利泰氏でした。
【三河で吉良長氏】
長兄である足利長氏の生母は
家女房(足利家に仕える女性)だったため、
足利長氏は鎌倉幕府将軍の随兵となり
流鏑馬の射手や
相模国一宮への使いなどの
役目を行った後、
鎌倉を離れて地頭職を務める
三河国吉良荘
(愛知県西尾市吉良町)へと移り住み、
吉良長氏と名乗ります。
【源氏の宝剣・龍丸】
そうした吉良長氏に対し、
父である足利義氏は
髭切丸と並ぶ
源氏の宝剣である
龍丸を与えたと伝わっています。
吉良荘を得た足利長氏は
西条に城館を築き本拠地として
三弟を東条に配して
吉良義継(きら-よしつぐ)
を名乗らせました。
吉良長氏の長子である
吉良満氏(みつうじ)は
吉良家を継ぎますが
建治元年(1275年)頃に
行われた日本海沿岸諸国の
大規模な守護更迭により
越後守護に任ぜられます。
鎌倉時代に足利家庶流で
守護職を得たのは吉良満氏だけですが、
弘安8年(1285年)に
起こった霜月騒動で
平頼綱(たいらよりつな)
の軍勢に敗れて自害しました。
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【今川氏の祖・今川国氏】
吉良長氏の次男である
今川国氏(いまがわくにうじ)は
父の吉良長氏が隠居所としていた
三河国今川荘
(愛知県西尾市今川町)
を譲られ今川氏を称し、
宝剣の龍丸も譲り受ける事となりました。
後に今川家の嫡子は
幼名を龍王丸と名付けられていきますが、
この宝剣の名前から来ており
「御所(足利家)が絶えれば
吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」
と言われるようになった背景には
この宝剣も一役買っていると見られています。
【関口氏・一色氏】
今川国氏には多数の子供がいました。
家督を継いだのは長兄の
今川基氏(もとうじ)で、
次男の関口常氏(せきぐちつねうじ)
は後に徳川家康の正室となった
築山殿の先祖です。
他の弟達も入野氏や
木田氏を名乗るなど
今川家の支流として
今川宗家を支えた他、
娘の一人は足利泰氏の七男で
三河国一色郷(愛知県西尾市一色町)
を所領として後に
一色氏の祖となる
一色公深(いっしき-きみふか/こうしん)
に嫁いだ他、
多くの娘達は公家に嫁いでおり
幕府と朝廷に深い繋がりを
持っていったのでした。
が、所領は今川荘の3ヶ村に
過ぎない小領主でした。
【末子の今河範国】
二代目の今川基氏には4人(5人とも)
の息子がいました。
長男の今川頼国(よりくに)は
建武2年(1335年)に
起こった中先代の乱で
敵将である名越邦時(なごえくにとき)を
討ち取る手柄を立てますが、
その後に起こった
相模川の戦いで戦死します。
弟の今河範光(いまがわのりみつ)も
武蔵小手指原の戦いで
討死していたため、
家督を継いだのは
末子の今河範国(いまがわのりくに)でした。
【同族の足利尊氏に従う】
今河範国は執権の北条高時に従い、
その後に元弘の乱に出兵します。
鎌倉幕府の滅亡後は
同族の誼で足利尊氏に従って
各地で軍事活動を行い、
建武3年(1336年)に
遠江守護、次いで駿河守護を与えられ、
祖父の代から住む今川荘を後にして
遠江国に曳馬(引馬とも)城を築き、
駿河、遠江、三河国を領有する
戦国大名へと成長していく事になるのです。
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【今川城の場所】
今川城跡は名古屋鉄道「西尾」駅から
南東に約1.6km(徒歩約20~25分)、
西尾市立西尾中学校の
南側にある路地を挟んだ場所にあります。
道路沿いには今川氏發跡地と
記された碑がある他、
後に九州探題などを務めた
今川範国の次男である
今川貞世(さだよ)の墓が
江戸時代に西尾藩主である
土井利信(どいとしのぶ)
の手によって建てられています。
【所在地】
〒445-0063 愛知県西尾市今川町土井堀17
※専用の駐車場はありません。
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