【東漸寺】
東漸寺(とうぜんじ)は、
千葉県旭市にある真言宗智山派の寺院です。
殿玉山西徳院と号し、本尊は愛染明王です。
【由緒】
永禄2年(1593年)、
下総国網戸1万石の領主である
木曾義昌の開基、悦堂の開山により
創建された寺です。
境内には木曽義昌公と
真理姫の供養塔があります。
木曽義昌公の命日である3月17日に、
毎年供養を行っているとのことです。
【桜並木】
桜が好きであった木曽義昌公のために
寺の境内には桜が植えられ、
桜の名所として知られています。
木曽義昌公や真理姫の供養塔の前や
周りには桜並木の参道ができていて、
4月には、多くの参拝者や
花見客で賑わうとのことです。
【真理姫について】
天文19年(1550年)、
武田信玄三女として生まれた真理姫
(まりひめ;万里姫とも)は、
弘治元年(1555年)10月、
木曽家の嫡男義昌に嫁ぎます。
これにて木曽家は武田一門の
親族衆となり遇されることとなりました。
真理姫は数え年で6才、
木曽義昌16才のことでした。
真理姫が12歳を迎えた時、
木曽義昌と共に信仰深い御嶽山に登り、
その時に着用した白地に刺繍入りの浄衣は、
黒沢の御嶽神社に奉納されたとのことです。
従者を連れていたとは言え、
今でいう新婚旅行とも言えます。
天正10年(1582年)、
木曽家第19代を継いでいた
木曽義昌は意を決して織田信長に通じ、
武田信玄の後継である武田勝頼から離反します。
鳥居峠で武田勝頼の軍を敗退させ、
やがて武田家は滅亡することとなりました。
この時、武田勝頼は人質である
木曽義昌の妹、そして母、
長子を処刑していますが、
木曽義昌は真理姫の身を案じて、
三岳村黒沢の家臣上村家に預け匿ったということです。
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天正18年(1590年)、
豊臣秀吉の配下にあった木曽義昌は、
徳川家康とともに関東移封となり、
木曽谷からは遙か東方の
網戸城(あじとじょう)一万石の城主に任ぜられました。
真理姫らは木曽からの第二陣として
木曽義昌の弟義豊らと共に網戸に移ってきました。
木曽義昌は木曽家代々の菩提寺として
東漸寺を建立し、
後年、木曽義昌、真理姫が信奉した
十一面観音を安置した観音堂が建立されました。
以前は毎月のご縁日に観音講員が集い、
2月と8月には安産祈願の
護摩修行が行われ御札が授与されていました。
同じ道に沿ってある淡島神社は当時、
小さな祠であったのですが、
真理姫の宿願で再建されたということです。
近年でも針供養が地域住民により営まれていました。
また、寺より西の上宿山中には、
真理姫の櫛塚が残され
今でも近隣住民により守られているとのことです。
文禄4年(1595年)、木曽義昌は病により
56才の生涯を閉じました。
後を継いだ長子義利は仔細ありて
徳川家康から改易の処分が下され、
慶長5年(1600年)、410年続いた
木曽家は没落することになりました。
真理姫は末子義一と共に木曽へ戻り、
黒沢(木曽町三岳)の上村家に隠棲しました。
まだ幼い義一が旧家臣に当てた
書状が残されており、
そこには真理姫が木曽家再興の夢を
託していたことが覗えるとのことです。
正保4年(1647年)7月10日、
真理姫は現代でも稀な長寿、
98歳を以てその生涯を閉じました。
上村家敷地一角には五輪塔からなるお墓があります。
また木曽福島の大通寺にも供養塔があります。
【所在地】
〒289-2511 千葉県旭市イ2337
【駐車場】
参拝者用の駐車場があります。
【木曽義昌公 水葬跡石塔】
<所在施設: 木曽義昌公 史跡公園>
文禄4(1595年)3月17日に、
病のためその地で生涯を終えた
木曽義昌のご遺体は
城の北西方の椿湖(椿海)に
水葬されたといわれています。
その後水葬された椿湖(椿海)は、
元禄年間に干拓されました。
墓のある一帯は、現在では
木曽義昌公史跡公園となりました。
木曽義昌公史跡公園横には、
木曽義昌公遺跡水葬跡石塔と
銅像が建立されています。
石塔には
「木曽左典厩兼伊予守源義昌朝臣墓」
と刻まれています。
明治44年(1911年)に改修されました。
【水葬になった理由】
現在の東漸寺のご住職の話によりますと、
武田信玄公が諏訪湖に水葬された事と
関係があるのではないかとのことだそうです。
武田信玄公の水葬は伝説の部分もありますが
木曽義昌公の水葬は史実となります。
【所在地】
〒289-2511 千葉県旭市イ2808
脇道に入った所に有ります。
※駐車場は有りません。
木曾義昌(木曽義昌)~妻は信玄の娘、武田勝頼を裏切った代償、やがて木曽から下総国阿知戸へ行きます。
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