【安藤守就】
安藤 守就(あんどう もりなり)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
美濃国北方城主で西美濃三人衆の一人。
姓は安東とも表記されるとのことです。
【生い立ち】
【土岐氏から斎藤氏家臣時代】
文亀3年(1503年)、
安藤守利(定重)の子として誕生しました。
(生年は永正5年(1508年)ともされています)
美濃安藤氏は元々伊賀姓を称しており、
安藤守就も伊賀伊賀守など
時に伊賀姓も名乗っていたと伝わります。
はじめは土岐頼芸に仕えていましたが、
美濃国が斎藤道三によって奪取されると、
斎藤道三の家臣として仕えました。
稲葉良通や氏家直元らと並んで
西美濃三人衆と称されていました。
斎藤道三の家臣として、
織田信長の援軍として派遣され、
那古野城に在城したこともあったと伝わります。
【斎藤義龍に協力】
弘治2年(1556年)の斎藤道三と
その子とされている
斎藤義龍の抗争(長良川の戦い)では
斎藤義龍に協力しています。
【稲葉山城の乗っ取り計画】
斎藤義龍の死後は斎藤龍興に仕えていました。
けれども、斎藤龍興が一部の重臣だけを寵愛して
安藤守就を初めとする西美濃三人衆らを遠ざけたため、
諫言したが聞き入れられなかったとのことです。
更に、龍興が家督を継ぐと、
次第に、織田信長の勢力に押されていきます。
そこで安藤守就や竹中重治ら家臣たちは、
織田信長への備えをするように、
斎藤龍興に何度もいさめましたが、聞き入れてもらえず、
このため永禄7年(1564年)、
謀反を起こして娘婿の竹中重治(竹中半兵衛)が
稲葉山城(のちの岐阜城)に乗り込むと
安藤守就は兵2000で稲葉山城下を制圧し、
一帯を占領しました。
しかし、半年も経過した後、
稲葉山城を斎藤龍興に返還しました。
そして安藤守就は出家したとの事です。
こうして安藤守就は、史料から一時、
記述がみられなくなります。
なお、この稲葉山城乗っ取り計画は、
後世、竹中重治の美談として語られることが多いですが、
実際は他の斎藤氏の家臣から思ったより
支持を集められず進退に窮したともいわれているそうです。
【織田氏家臣へ】
永禄10年(1567年)、
織田信長の美濃侵攻軍に対して
他の西美濃三人衆らと共に内通し、
そのまま信長の家臣として仕えました。
その後は永禄11年(1568年)の上洛戦、
元亀元年(1570年)の姉川の戦いなどにも参加して、
数々の功績を挙げて、
柴田勝家などの重臣に匹敵する地位を確立していきます。
元亀2年(1571年)の伊勢長島攻めでは
西美濃三人衆の氏家直元が
殿(しんがり)を務めて戦死してしまいました。
また安藤守就もこの戦闘に参加しており負傷しています。
以後も、天正元年(1573年)の槇島城攻め、
同年8月の越前朝倉攻め、
天正2年(1574年)7月の伊勢長島一向一揆の殲滅戦、
同年4月の石山本願寺攻めなどの諸戦に
信長直属の部隊として参加しています。
天正3年(1575年)に
織田信長が嫡男である織田信忠に家督を譲り、
美濃衆のほとんどが織田信忠の下に付けられた後も、
安藤守就は、織田信長直属の立場にありました。
天正5年(1577年)8月には、
柴田勝家の援軍として加賀に出陣しています。
天正6年(1578年)5月には、
羽柴秀吉の中国攻めの援軍として
播磨国神吉城攻めへ出陣、
同年11月には織田信長に謀反した
荒木村重の有岡城包囲戦にも参加と、
各地を転戦し続けていました。
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【織田家追放と最期】
天正8年(1580)8月、
突如、織田信長に野心ありとの嫌疑をかけられ、
重臣であった佐久間親子を追放すると、
林秀貞、丹羽氏勝と共に粛正の対象となり、
安藤守就及びその子の安藤定治(尚就)も追放されてしまいます。
追放の理由については「当代記」によりますれば、
安藤守就と武田氏が天正元年の頃に
内通していたからだとされているそうです。
10年も経過したのちに追放とは
理解できない部分もありますが、
この要因は美濃・尾張を拠点とする織田信長にとって、
かつての仇敵であり、美濃に勢力を張ってきた
安藤守就の存在が
穏やかでなかったからであるとも推測されているです。
なお、「信長公記」には、林、丹羽を含めた三名の追放の理由として
「先年信長公御迷惑の折節、野心を含み申すの故なり
(先年、信長公が苦闘を重ねていた折、それに乗じて野心を含んだためであった)」
とのみあるとのことです。
何だかこじつけのような気もします・・。
天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変が起こり、
織田信長が明智光秀により討たれると、
安藤守就は子・安藤定治と共に
挙兵して北方城を奪い、再起を試みました。
けれども当時の北方城の領主であり、
同じ西美濃三人衆である
稲葉良通(一鉄)に攻められ敗北します。
6月8日に、安藤守就、その子安藤定治、
更に孫である忠四郎共々討ち果たされ、
あるいは自害して美濃安藤氏は滅亡します。
「稲葉家譜」によりますれば
享年は80歳であるとされていますが
正確な生年は不明です。
なお、天正8年(1580年)8月に
末弟である安藤郷氏も又、放逐されて
同10年(1582年)6月8日に
兄の安藤守就共々誅伐されています。
当時幼かった安藤郷氏の子である安藤可氏は後に、
母の弟にあたる山内一豊に近江長浜時代から仕え、
姓を山内に変え、
山内可氏(やまうち よしうじ)となります。
其の後は土佐藩家老となり、
やがて土佐藩家老である伊賀家の祖となり、
明治時代まで続いたとされています。
【美濃安藤氏】
美濃安藤氏(みのあんどうし)は、日本の氏族。
藤原秀郷を遠祖とするそうです。
藤原秀郷の9代末の子孫である伊賀朝光以来、
伊賀氏と称していましたが、
守就の代より安藤氏に改めたとのことです。
【土佐安藤氏】
安藤守就の弟である安藤郷氏は、
山内一豊の姉との間に子供である安藤可氏を儲けています。
安藤可氏は土佐藩の藩主となった一豊に仕えました。
その後、安藤可氏の子孫は安藤⇒山内⇒伊賀と姓を改め、
明治維新後は伊賀氏成(伊賀陽太郎)が男爵を授かっています。
伊賀氏成の養子となった伊賀氏広は
山内容堂の甥であり、日本の飛行機製作の先駆者となったとのことです。
【北方城】
北方城(きたがたじょう)は
岐阜県本巣郡北方町(美濃国席田郡)
にあった戦国時代の平城です。
現在の大井神社の南東一帯といわれ、
北方城跡の石柱がたっています。
明応年間(1492年⇒1501年)、
伊賀太郎衛門光就が築城したと伝わります。
4代目城主の伊賀太郎衛門守就から安藤氏を名乗り、
安藤守就に改名しました。
永禄10年(1567年)、
織田信長の美濃侵攻に対して
他の三人衆らと共に内通し、
そのまま信長の家臣として仕え、
引き続き北方城城主となります。
けれども天正8年(1580年)、
甲斐の武田勝頼と内通したという罪により、
織田信長によって織田氏から追放され、
北方城城主は稲葉良通となりました。
天正10年(1582年)、本能寺の変が起こり、
織田信長が家臣の明智光秀により討たれると、
安藤守就は子の安藤定治(尚就)と共に
挙兵して北方城を奪い、再起を試みます。
けれども、稲葉良通に攻められ敗死し、
北方城は廃城となりました。
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北方城の跡地には、
寛文8年(1668年)に北方陣屋が築かれ、
美濃国加納藩藩主松平光重の三男である戸田光直(戸田光賢)、
旗本5000石の陣屋となり、
明治元年(1868年)まで存続しました。
なお北方城跡は昭和43年(1968年)11月に
県指定の史跡に指定されています。
【所在地】
岐阜県本巣郡北方町北方249
【交通アクセス】
<岐阜バス>
真正大縄場線・北方河渡線「北方一本松」
JR岐阜駅バスターミナル(岐阜駅北)7番のりば
「大野バスセンター」行き
「イオンタウン本巣」行き
「北方バスターミナル」行き
「芝原6丁目」行き
「北方一本松」バス停下車 徒歩5分程度。
または名鉄岐阜のりば(名鉄岐阜駅西)5番のりば
「大野バスセンター」
「イオンタウン本巣」行き「北方一本松」 徒歩5分程度。
或いは「芝原6丁目」「岐阜高専」行きで
「岐阜農林高前」バス停下車 徒歩5分程度。
※※詳細は、岐阜バス窓口にてお聞きになるとよろしいかもしれません。
<鉄道>
樽見鉄道樽見線「北方真桑」駅より徒歩25分程度
<車>
●東海北陸自動車道・岐阜各務原ICから24分
●東海環状自動車道・大垣西ICから30分
●名神高速道路・大垣ICから32分
※現地は駐車場は無し、とのことです。
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