【大桑城】
大桑城(おおがじょう)は、
鎌倉時代から戦国時代にかけて
現在の岐阜県山県市にあった日本の山城です。
山県市大桑・青波・富永地区の境にある
古城山(別名・金鶏山)(標高408m)
の山頂付近に存在していました。
美濃守護土岐氏の守護所が置かれた城。
古城山の山頂付近が本丸です。
その南に二の丸・三の丸が続き、
400mにわたって
曲輪が連なっていたと推定されています。
現在も曲輪、土塁等の遺構が残っています。
南麓(現在の市場、椿野、市洞)には城下町があって、
栄えたといいます。
城下町は越前国の朝倉氏の一乗谷城の城下町を
参考にしたものであり、江戸時代まで残っていたそうです。
【所在地】
〒501-2256 岐阜県山県市大桑
【形態】
山城
【築城主】
大桑又三郎
【築城年】
鎌倉時代
【主な改修者】
土岐定頼
【主な城主】
大桑氏、土岐氏
【廃城年】
天文16年(1547)
【遺構】
主郭跡、曲輪、石積、
土塁、堀切、竪堀、井戸
【復元建物】
ミニチュア模擬天守
【交通アクセス】
【電車】
JR東海道本線「岐阜」駅⇒
岐阜バス岐阜高富線「山県市役所」バス停下車、
ハーバス大桑線に乗り換えて「椿野」バス停下車、徒歩約17分
【車】
東海環状自動車道・関広見ICから30分
【駐車場】【トイレ】
トイレは写真の看板の左方向にありました。
花火大会などで臨時に設置されるような
簡易トイレが一つありました・・・。
出来れば事前にトイレを
済ませた方がよさそうです。
途中まで車で行ける舗装路の登山道もあります。
「はじかみ林道」コースです。
道の終点に駐車スペースがあります。
写真の左矢印は上記の写真の旧登山口です。
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<地図>
青印は大桑城の2つの登山口です。
【登城される際のご注意】
標高は高くなくとも、
急傾斜があり、登山用の靴をお履き下さい。
また、シカやイノシシなどの罠も
多く仕掛けてあるのでくれぐれもご注意ください。
クマよけの音の鳴る物、虫よけ、ハチ除けを
必ずお持ちください。
飲料水や携帯用の食品もあると便利です。
<熊出没!!>
くれぐれもご注意ください。
【四国堀跡】
大桑城の麓には、谷をふさぐように伸びる
「四国堀」という土塁と堀が残っています。
由来について、越前など
四つの国の支援で築造したことから
「四国堀」という地名がついたと、
地元で伝えらえてきたそうです。
また、現存はしていませんが、
「越前堀」という堀も
江戸時代の絵図に描かれています。
大桑城の城下町は、
越前の朝倉氏の一乗谷を参考にしたと
伝わっています。
かつては、「越前」に関係のある建築物や
造設物が存在していたかもしれません。
【所在地】
岐阜県山県市大桑3452
<場所>
目印はオレンジ色の屋根が印象的な
社会福祉法人「あしたの会」の傍です。
すぐ近くに案内板があります。
専用駐車場はありません。
<場所>
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【歴史】
「美濃国諸旧記」によりますと、
逸見義重が承久の乱の功績によって
大桑郷を領地とし、その子である
大桑又三郎が大桑城を築いたとされています。
1250年頃のことだと伝わっているそうです。
【土岐定頼が改築】
その後、美濃守護である
土岐成頼の3男の土岐定頼が
明応5年(1496年)に改築し、
大桑兵部大輔と名乗って一代限りで
住んだともされています。
なお、後に土岐定頼は大畑と改姓しています。
ちなみに土岐定頼は、
越前大野城や高山城(飛騨)を築城した
金森長近の祖父に当たります。
【土岐頼武と土岐頼芸】
その後は土岐頼武と頼芸の兄弟が居城としていました。
永正6年(1509年)には
守護代の斎藤氏が台頭してきた事もあり、
土岐氏は拠点を川手城(現済美高等学校付近)から
福光館(現岐阜市福光)に移し、
天文元年(1532年)に、
枝広館(現岐阜県立長良高等学校付近)に移しました。
天文4年7月1日(1535年)、
長良川の洪水で枝広館は流失しました。
当主の土岐頼芸は拠点を稲葉山山麓に拠点を移しました。
また、土岐頼武と跡を継いだ子供の土岐頼純は
越前国の朝倉氏の協力で大桑城を拠点とし、
城下町を開きます。
「美濃国諸旧記」によれば、
天文11年(1542年)に、
斎藤道三に攻められ
土岐頼芸は城を出ましたが、
尾張国の織田信秀の仲介で和睦し
帰城したとあります。
けれども1547年に斎藤道三が再び侵攻すると、
落城してその後土岐頼純は急死してしまいます。
土岐頼芸も本巣郡河内(現・本巣市)に逃れ、
大桑城は斎藤道三によって焼かれてしまいました。
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【現在】
1988年(昭和63年)、
古城山山頂近くの大桑城本丸跡地近くに
ミニチュアの大桑城
(模擬天守閣)が造られました。
ミニ大桑城と呼ばれています。
古城山山頂からは岐阜の街を展望できるため、
現在では古城山は
登山・ハイキングコースとして
親しまれています。
大桑城、および大桑城城下町の跡は、
山県市教育委員会の手で
発掘調査が進められています。
【落城に関する言い伝え】
~「大桑の落城」美濃と飛騨のむかし話より~
斉藤道三の配下の者が、
大桑城への抜け道が無いかを、
山のふもとに薪を拾いに来ていた
青波村の餅屋の老婆に尋ねました。
老婆は抜け道は無いと答えました。
けれども老婆はふと考え、
「ふもとから城の下へ向かって草木を刈り取り、
枯れた枝で火道を作ればよい」
と提案したとのことです。
この提案により火道が作られ、
老婆が刈った枝や草の乾き具合を確認し、
乾いた頃合を見て
火をつける合図をしたとのことです。
すると火はふもとから城の建物の西へ、
あっという間に燃え移り、
大桑城は落城したということです。
その後、落城の要因として、
青波村の老婆が関与したことを知った
大桑村の住民は、
青波村との嫁入り、
婿取りを行わなくなったということです。
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