城跡

東金城~上総酒井氏の祖とされる酒井定隆が築城し三男の酒井隆敏が継ぎました。

東金城址 八鶴湖畔より



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【東金城】 

東金城(とうがねじょう)は、
千葉県東金市東金の八鶴湖畔の
本漸寺後方の台地上にあった
日本の城です。
大栄元年(1521年)に
戦国武将である酒井定隆
酒井隆敏が土気城から
田間城を経て東金へ移り、
築いたとされています。
別名:鴇ケ根城(ときがねじょう)とも。
東金市指定史跡です。

東金城と八鶴湖畔

【東金城の概要】
東金城は上総酒井氏の居城として、
酒井定隆によって大栄元年(1521年)に
築かれたとする説と、
室町時代に千葉氏が築いた
鴇ケ峯城を起源とする説があります。
現在は酒井氏による築城が有力となっています。
天正18年(1590年)の
豊臣秀吉小田原攻めの際に、
酒井氏は小田原北条氏についたため、
浅野長政によって接収されました。

その後、徳川家康の関東入封後の
慶長18年(1613年)、
東金は徳川家康の御鷹場(鷹狩の場)となり
宿泊施設として東金御殿が建てられました。
寛永7年(1630年)の徳川秀忠を最後に
鷹狩はおこなわれなくなり、
寛文11年(1671年)には
東金御殿も取り壊されました。
現在、東金御殿跡には
千葉県立東金高等学校があり、
同校と本漸寺との間に登城口があります。
東金城の主郭は最高部(標高74m)に位置し、
東の3郭、西の2郭との比高は6m、
面積約1000平方メートルです。

【東金城の歴史】
<大永元年(1521年)>
酒井定隆によって築城。

<天正18年(1590年)>
豊臣秀吉の関東征伐の際に廃城。

<慶長18年(1613年)>
徳川家康の鷹狩の宿泊場所として、東金御殿を築く。

<寛文1年(1671年)>
東金御殿の取り壊し。

1995年6月7日、東金市の史跡に指定。




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【交通アクセス】
JR東金線「東金」駅より徒歩10分程度。
圏央道、千葉東金道路「東金」ICより
国道126号線経由5km

【所在地】
〒283-0802 千葉県東金市市東金1410−1

【酒井定隆】

酒井 定隆(さかい さだたか、
永享7年(1435年)⇒
大永2年4月24日(1522年5月19日))は、
室町時代後期から
戦国時代初期にかけての武将で
上総酒井氏の祖とされる人物です。

酒井定治、酒井隆敏の父親です。
法号は玄通院殿日伝大居士。

【出自】
酒井定隆の出自については
奉公衆東常縁が馬加康胤を討伐するために
下総国に下った際の副将であった
美濃国土岐氏一門の浜春利の子とする説、
三河国の在地領主である
三河酒井氏の一門とする説、
藤原秀郷流波多野氏一族の氏族である
松田氏の出身とする説、
境常秀の子孫とする説、
丹波国多紀郡の酒井氏の支族とする説など
多数ありますが定かではありません。

【上総酒井氏の祖について】
また、古文書によりますと、
上総酒井氏の祖は
酒井清伝と称される人物で、
この人物については、
16世紀の東金城主酒井胤敏
(敏房と同一人物と推定される)
および土気城主酒井胤治が揃って
酒井氏の祖として清伝の名前を
挙げているとのことです。
このため、酒井清伝を
酒井隆の別名とする説と
実在が確認できる酒井清伝こそが
上総酒井氏の祖で
酒井定隆の実在を否定する説があります。

馬加康胤の滅亡後、
古河公方足利成氏の介入によって
千葉孝胤が千葉氏の当主となり、
東常縁が推す千葉実胤、自胤兄弟は
太日河以東に戻れず、幕府主導による討伐は
事実上の失敗に終わったのでした。

美濃国土岐氏一門の浜氏出身説によりますと、
この状況を見た酒井定隆は
幕府の将来に見切りを付けて、
東常縁の帰国には同行せずに
足利成氏の客将となったとされています。

【士気城・東金城】
後の長享2年(1488年)、
上総土気城に入り、
ここを根拠に勢力を拡大し、
続いて東金城を占領して勢力を築きました。

また、熱心な法華宗(顕本法華宗)の信者であり、
上総北部の平定後数年で
領内のほとんどの寺院を「七里法華」と称し、
法華宗へと改宗させたとする伝説が
近世中期以降の書物から確認されています。




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【長男と三男】
子孫は土気を拠点とする
長男の酒井定治の流と
東金を拠点とする
三男の酒井隆敏の流とに分かれました。

【その後の上総酒井氏】
第一次国府台合戦後、
小田原北条氏の影響力が
太日河東岸にまで進捗しますと、
土気、東金の両酒井氏は
それぞれ小田原北条氏と
里見氏との間で板ばさみと
なっていましたが、
第二次国府台合戦において
土気の酒井胤治は里見氏方に寝返り、
敗走する里見軍を援護し、
小田原北条軍の追撃を阻止しました。

以降、たびたび小田原北条氏からの
攻撃を受け続け、天正4年(1576年)、
両酒井氏は小田原北条氏に降伏し、
小田原北条氏による
東上総の支配が確定的となり、
両酒井氏は里見氏に対する備えを担ったのでした。

小田原征伐で小田原北条氏が敗北すると
所領を失ってしまいましたが、
子孫は徳川氏に旗本として仕えたということです。

本納城~里見氏の支城から士気酒井氏が統治した中世山城の遺構が多くある貴重な城址。

国府台城~下総国の大激戦の地~国府台合戦、里見氏VS小田原北条氏

古河公方館跡~古河公方とは?関東における戦国時代の幕開けの存在

大椎城~築城主と築城時期は二通りあり、平安中期の千葉氏と室町期の士気酒井氏となります。

大多喜城~築城は真里谷信清、徳川四天王の本多忠勝が城主となり今日の大多喜城となります。

万喜城~築城は上総土岐氏と伝えられており、本多忠勝が一時居城していました。

上総・笹子城~築城は室町時代に真里谷信興によって築かれ、真里谷武田氏の内紛に記されているとのことです。

真里谷城~武田信長が築城し真里谷武田氏の本拠地となった城と云われています。

西願寺 阿弥陀堂(千葉県)~金色に輝いていたことから光堂の別名を持つ重文のお堂です。

平蔵城~築城は室町期に土橋氏による築城とのこと、のちに阿弥陀堂で有名な西願寺も建立しました。

大柳館~代々の上総氏居館との伝承あり、上総広常死去後は千葉氏が拝領しました。

富喜楽城~前方後円墳を取り込んだお城、すぐ近くには大柳館があり、古墳時代から人々の営みがありました。

成東城~築城は応永年間で千葉氏家臣の印東氏、比較的遺構が残っているとのことです。

坂田城~千葉氏によって築城され、周辺には支城が複数あり当時は要害の地でした。

桜井城~千葉常胤の六男・東胤頼の最初の居城と伝わる城跡で廃城は江戸時代初期でした。

大友城~千葉氏の祖である平良文の居城と伝わり、平常持、常将、常長、常兼が居城したとのことです。

森山城~鎌倉時代初期に千葉常胤の子である東胤頼が築城し東氏が居城、常陸国との水運の要地でした。

小見川城~千葉氏の一族である粟飯原氏の居城、現在は小見川城山公園となっています。

勝見城~上総広常の弟の金田頼次が築城と伝えられており、戦国期は庁南武田氏の所領となりました。

一宮城(上総国)~築城は南北朝との伝承で戦国期には正木氏の支配下でした。

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