鎌倉殿の13人

藤原国衡~藤原秀衡の長庶子で藤原泰衡の異母兄、蝦夷の血を引く彼は武勇に優れており家中の期待も高かった。

毛越寺境内



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【藤原 国衡】

藤原 国衡(ふじわら の くにひら)は、
平安時代末期から鎌倉時代初期の
奥州藤原氏の武将です。
奥州藤原氏第3代当主である
藤原秀衡の長男です。
母は側室で信夫佐藤氏の娘とも
元々この地に住んでいた
蝦夷の娘であったとも言われています。
父の正室(義母)を娶り、
藤原泰衡とは義理の父子関係となります。
けれども庶子という身分からか、
一族内での発言権には乏しかったようで、
藤原高衡を除いた四人の弟を
はじめとする一族の相克を
傍観するしかなかったとされています。
奥州合戦では阿津賀志山の戦いに
総大将として参戦しましたが、戦死しました。

【生誕】
未詳

【死没】
文治5年8月10日(1189年9月21日)

【別名】
信寿丸、信寿太郎、信寿太郎殿、
西木戸殿、西木戸太郎、
西城(木)戸太郎、国平、錦戸太郎?

【氏族】
奥州藤原氏

【父】
藤原秀衡

【母】
蝦夷の娘?もしくは信夫佐藤氏の娘?

【兄弟】
国衡、泰衡、忠衡、高衡、
通衡、頼衡、娘?

【妻】
藤原基成の娘・徳尼公
(義母で秀衡の正妻にして後妻)

【子】
実子:不詳
義子:泰衡(実際は異母弟)

【生涯】
【庶子として】
藤原秀衡の長男でしたが、
庶子であったために
後継者からは除外されていました。
正室の子である異母弟の藤原泰衡が
「母太郎」「当腹の太郎」と呼ばれたのに対し、
兄である藤原国衡は「父太郎」
「他腹の嫡男」と呼ばれていたそうです。
「愚管抄」には「武者柄ゆゆしくて、
戦の日も抜け出て天晴れ者やと見えけるに」
とあり、庶子とはいえその存在感は大きく、
一族の間では京下りの公家の娘から
生まれた藤原泰衡よりも、
身近な一族の娘から生まれた長男で
武勇優れた藤原国衡への期待が高かったとも
考えられています。
父方、母方双方から
東北の血を受け継いでいた藤原国衡は
父方の東北の血と
母方の京の血が織り交ざった
貴公子とも呼ぶべき存在であった
異母弟の藤原泰衡とは対照的な人物であったのでした。

【父の死と遺言、義母との結婚】
藤原秀衡は家督相続に当たって
兄弟間の融和を図るため、
自分の正室を国衡に嫁がせました。
藤原国衡にとっては義母ではありますが、
後家は強い立場を持ち、
兄弟の後見役である藤原基成が岳父となり、
後継者から外された藤原国衡の立場を
強化するものであったのでした。
これは兄弟間なら対立・抗争が勃発しますが、
親子は原則として
それはありえない、ということで、
対立する藤原国衡と藤原泰衡を
義理の父子関係にし、
後家として強い立場を持つ事になる
藤原基成の娘を嫁がせる事で
藤原国衡の立場を強化し、
兄弟間の衝突を回避したものと考えられています。




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【一族分裂の調略の危険性】
しかしながらこの異母兄弟の関係性に付け込んで
鎌倉の源頼朝が庶子である藤原国衡と接触して
味方に引き込み、一族を分裂させるという
危険性もあったのでした。
この奥州藤原氏に限らず、
後継者になれなかった者に
敵対者が接触して分裂を煽り、
一族の弱体化を図るというのは
よくある謀略でした。
また、初代の藤原清衡
2代の藤原基衡も兄弟と争った経緯がありました。
藤原秀衡がこの異腹兄弟同士の関係に
苦慮していたことが窺えます。
このような処置を施さざるを得ないまでに
兄弟間の関係は険悪であったのでした。
藤原秀衡は自分亡き後、
源義経を主君として推戴し、
兄弟異心無きよう藤原泰衡・藤原国衡・
源義経に起請文を書かせ、
三人一味となって
源頼朝の攻撃に備えるよう遺言し、
文治3年(1187年)10月29日に没しました。

【弟達の相克と兄・国衡】
しかしその後、
文治4年(1188年)2月と10月に
源頼朝は朝廷に宣旨を出させて
藤原泰衡と藤原基成に義経追討を要請します。
「尊卑分脈」の記述によりますと、
藤原泰衡がこの年の12月に
自分の祖母(藤原秀衡の母)を殺害したとも
取れる部分があるとのことです。
真偽は不明ですが、親族間の激しい相克が
あったと考えられています。
翌年の文治5年(1189年)2月15日、
藤原泰衡は末弟(六弟)の
藤原頼衡を殺害しています。
(「尊卑分脈」)。
そして、閏4月30日に
源頼朝の圧力に屈して源義経を襲撃し
自害に追い込み、更に源義経派であった
異母弟(三弟)である藤原忠衡も殺害したのでした。
(「尊卑分脈」では五弟で藤原忠衡の
同母弟とされる藤原通衡も
共に討ったとの記述があるとの事です)。
藤原忠衡は父の遺言を破った
藤原泰衡に対して反乱を起こした、
或いは反乱を計画したため、
討たれたと考えられています。

【藤原高衡は生き残る】
なお、理由は不明ではありますが、
四弟である藤原高衡は生き残っています。
藤原国衡は妾腹の生まれという
負い目からなのか、
この弟達の不和反目と
その一部始終を傍観する
しかなかったとされています。

【藤原高衡の最期】
直ぐ後に迫る奥州合戦をも
生き延びた藤原高衡ですが
自身の庇護者の様な存在であった
梶原景時が梶原景時の変で討ち取られると、
建仁の乱の首謀者の1人となり、
幕府転覆を狙うようになります。
乱での敗北が決定的となると
一味からの離脱を図り、
父と親交があった
藤原範季の邸宅に逃げ込みましたが、
同じ乱の首謀者である
城長茂の郎党が唐橋(信濃)小路にある
藤原範季邸に押しかけて
藤原高衡は連れ出されたのでした。
最期は幕府軍に討ち取られ、敗死しました。




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【奥州合戦と最期】
【阿津賀志山の戦い】
文治5年(1189年)8月、
奥州合戦で大将軍となった藤原国衡は、
伊達郡阿津賀志山
(現・厚樫山、現福島県伊達郡国見町辺り)で
防戦します。

【両軍の兵力と編成、対峙】
軍勢は3分割し、源頼朝の大手軍は
鎌倉街道中路から下野国を経て奥州方面へ、
千葉常胤八田知家の東海道軍は
常陸国や下総国の武士団とともに
岩城岩崎方面へ、
比企能員・宇佐美実政の北陸道軍は
越後国から日本海沿いを
出羽国方面へそれぞれ進攻したとのことです。
「吾妻鏡」7月19日条によりますと、
大手軍は騎馬武者では
先陣の畠山重忠はじめ
一千騎を従えたとされ、
歩兵や輸送要員を加え、
さらに道中では各地の豪族を加え、
推定される総勢は
25000以上の兵力だったとのことです。

【阿津賀志山防塁】
一方奥州軍は、
防衛線を伊達郡と
刈田郡(宮城県白石市)の境として、
厚樫山山麓から阿武隈川に至る
長大な堀に阿武隈川の水を引いて、
総延長3kmに及ぶ三重の防塁で
大要塞を築いたとのことです。
総大将は藤原泰衡の異母兄である
藤原国衡で、金剛別当秀綱以下
二万の兵を配備して迎撃態勢を取りました。
藤原泰衡は陸奥国国分原鞭楯
(現仙台市宮城野区・榴岡公園辺りと推定される)
に本陣を置き、名取川、広瀬川などの
川底に縄を巡らせ、要所に兵を配置するほか、
田川行文・秋田致文を出羽国に派遣して
出羽方面の指揮を統括させ、
鎌倉軍の来襲に備えました。

仙台

【奥州軍の敗北】
8月7日の夜に源頼朝は
明朝の攻撃を命じ、
畠山重忠は率いてきた人夫80名に
用意していた鋤鍬で土砂を運ばせて堀を埋めました。
8日の卯の刻(午前6時頃)、
畠山重忠らの先陣は、
金剛別当秀綱の率いる数千騎と戦端を開き、
巳の刻(午前10時頃)に
秀綱は大木戸に退却しました。
又、石那坂の戦い(現在の福島市飯坂)では
伊佐為宗が信夫庄司佐藤基治
(佐藤継信・佐藤忠信の父)を打ち破り、
その首を阿津賀志山の上の経岡に晒しました。
10日、畠山重忠・小山朝政らの本軍は
大木戸に総攻撃を行いました。
奥州軍の抵抗は激しく、
戦いの声は山谷に響き渡り
郷村を動かすようであったということです。
激戦が続く中、紀権守、芳賀次郎大夫ら7名が
鳥取越(現小坂峠)から迂回して
藤原国衡軍の後陣を奇襲します。
奥州軍は混乱に陥り、金剛別当秀綱、
子息の下須房太郎秀方が
戦死(享年13歳)して潰走しました。




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【藤原国衡の最期】
出羽方面に脱出しようとした藤原国衡は、
追撃した和田義盛に矢で射られ、
畠山重忠の家臣である大串次郎に討たれました。
没年齢は正確には不明ですが、
すぐ異母弟である藤原泰衡の享年が
25歳もしくは35歳とされているため、
それ以上の年齢に達していたとはされています。
また、藤原泰衡の首のミイラの状態から、
20歳代-30歳代、23歳から30歳以上もしくは
25歳以上と見積もることもできるとのことです。

・・・けれどももしかしたら、実は
ほぼ同年齢だったかもしれませんね。
本当のところはわかりません。

【藤原泰衡の退却】
根無藤の城郭でも
両軍の激しい攻防が繰り広げられましたが、
大将軍の金十郎が戦死すると勝敗が決しました。
自軍の大敗を知った藤原泰衡は
多賀城から平泉方面へ退却したのでした。

平泉の陥落】
この戦いにより奥州藤原氏は大打撃を受けて、
奥州合戦の大勢は決しました。
以後、奥州藤原氏に
大規模な会戦を行う余力はなくなり、
散発的抵抗は続きましたが、
多賀城、多加波々城を防衛できず、
22日には本拠地の平泉が
陥落して滅亡することになるのでした。

【奥州藤原氏の滅亡】
そして藤原泰衡は9月3日に
数代の郎党である河田次郎の裏切りで殺害され、
ここに奥州藤原氏は滅亡しました。

【大河兼任の乱】
12月には藤原泰衡の家臣であった
大河兼任が主君の仇と称して
挙兵し鎌倉軍を悩ませました。
けれどもこの反乱は翌年の3月には鎮圧され、
約10年にわたる争乱が終息し、
源頼朝による武家政権確立に向けた
準備がほぼ整うことになるのでした。

【高楯黒】
『吾妻鏡』の記述によりますと、
藤原国衡の乗っていた馬は
奥州第一の駿馬で高楯黒と号され、
大肥満とされていた藤原国衡が毎日必ず
三度平泉の高山に駆け上っても、
汗もかかない馬であったということです。

・・・単に長身で骨太だったかもしれないし。

【伝承】
出羽国置賜郡米沢の錦戸薬師堂の由来に
六弟(末弟)の藤原頼衡が輿に奉安し、
鳥越を越えて守本尊の薬師像を
当地に運んだ伝承が残っています。
なお、藤原国衡が阿津賀志山の戦いで
鳥取越を奪われて源頼朝の軍に敗れ、
僧に守本尊の薬師像を託して
僧が当地に庵を結んだという話もあります。
これらの伝承から、藤原国衡と藤原頼衡は
同一人物で藤原頼衡の伝は
藤原国衡のものから
派生したとも考えられているそうです。

【白九頭龍古墳】
藤原国衡が討たれた際、首は
源頼朝の処に送られましたが、
胴の部分は
そのまま捨て置かれました。
けれども藤原氏を慕う
近隣の領民たちによって
現在の宮城県刈田郡蔵王町松川河畔の
小丘に祠が造られ、
祠は「白崩叢祠(しろくずれぞうし)」
と呼ばれていましたが、
江戸中期に「白九頭龍大明神社」
と改められたそうです。
その後も「白九頭龍古墳」として
同町の指定文化財として現存しているとのことです。

【所在地】
〒989-0851 宮城県刈田郡蔵王町曲竹明神河原3−1
<駐車場>
あり(隣接する児童公園の敷地をご利用下さい。)




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【藤原国衡が当主であったならば】
タラレバの話になりますが、
もし藤原国衡が当主であったならば、
奥州藤原氏の行く末は
いかがだったでしょうか?
武勇に優れ、体格も良く、
奥州藤原氏家中の期待も
異母弟の藤原泰衡よりも
高かったとされています。
母は土着の蝦夷の一族であったのですから、
地元の民の支えもあったことでしょう。
けれども藤原秀衡は、中央の血を重んじ、
京からきた正室の子である
藤原泰衡を次期当主に選んでしまいます。
当主の地位はかなり権威があったとされています。
けれども藤原秀衡は
藤原泰衡の器を見切っていたのでしょう。
藤原泰衡の力量では、今後の
家中における藤原国衡の地位を
強固なものにしようとしていました。

【分断は滅亡につながる】
しかしながら、兄弟仲は良くなかったとされ、
そこを源頼朝につけこまれてしまいます。
兄弟を分断することにより、
一族の力を弱体化させ、
滅亡への加速化を図ります。
藤原泰衡は残念ながら、
分断が一族の滅亡につながることに
全くわかっていませんでした。

【奥州にとっての源氏
源義経をどうするかによって
割れてしまった藤原兄弟。
源義経と結束し共に戦い抜いたのなら、
歴史がちがったものになったかもしれません。
けれども奥州にとって源氏はやはり侵略者。
高祖父の代に源氏がこの地でやってきたことを
鑑みると、源氏は決して
招いてはならない存在だったのですね。

2022年NHK大河ドラマ
鎌倉殿の13人」では
平山 祐介(ひらやま ゆうすけ)さんが演じられます。

藤原秀衡~奥州藤原三代当主にて最も平泉を繁栄させ、源義経を二度庇護した人物です。

藤原 泰衡~奥州藤原氏最後の当主、源義経や身内の命を犠牲にしても彼が守りたかったものとは何か?

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