史跡・城跡

相模国大友郷~和田義盛の和田屋敷跡があり、戦国大名の大友氏の発祥の地です。

相模国大友郷



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【和田屋敷】

和田義盛の屋敷と伝えられています。
和田屋敷は長善寺の北側の辺りにあったと
云われています。
弁財天が祀られている
場所の北側に廃材置き場があり、
この辺りが「ワダヤシキ」と
呼ばれる地だということです。
なお、大友郷の中であり、
近くには大友能直が建立した長善寺があるので
大友氏の館跡とも見られております。

和田屋敷 推定地

この地域に昔からお住まいのお宅にある
は宝篋印塔や五輪塔があり、
その碑文には
「主三人」とあるそうです。
この「主三人」とは
大友能直・和田義盛
松平十郎左衛門とされているとのことです。

和田屋敷 推定地

【所在地】
〒250-0213 神奈川県小田原市上曽我 東大友44

【大友郷】

この辺りに「東大友」、「西大友」
という地名がありますが、
大友郷に由来するもので、
豊後の大名大友氏の名字の地です。

大友氏のルーツは、豊後国ではなく相模国です。
大友家の初代である大友能直は、
鎌倉時代の御家人で、
相模国大友郷(現在の神奈川県小田原市内)
を領していたところ、1196年に
豊後国守護に任じられました。

大友氏の発祥の地である相模国大友郷は、
現在も小田原市の北東部に
「東大友」「西大友」という地名で残っています。
なお、読み方は「おおとも」ではなく
「おおども」と濁ります。

和田屋敷周辺

初代の大友能直の生まれた屋敷跡や
大友能直が建立したとされる
長善寺などの史跡があります。

【大友氏】
大友氏(おおともし)は、
鎌倉時代から戦国時代にかけて、
九州の豊後国(現・大分県)を本拠とした一族です。
豊後・筑後など北九州を支配した
守護職・守護大名で、
戦国時代には戦国大名に成長し、
最盛期には豊後・筑後に加え
豊前・肥前・肥後・筑前の6ヶ国と
日向・伊予の各半国を領有していましたが、
豊臣政権期に除封されました。
江戸時代には江戸幕府の旗本(高家)や
大名家の家臣となって存続しました。




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【出自】
【藤原氏】
初代当主の大友能直は、
相模国愛甲郡古庄の郷司の
近藤能成(古庄能成とも)の
息子として生まれたとあります。
父の近藤能成は、
藤原秀郷の子の藤原千常の
6代後の近藤景頼の子とする
系図がありますが、
藤原利仁の9代後の
近藤貞成の子であるという説も
あるとのことです。

【中原氏(頼朝公落胤伝説)】
藤原真楯……道長⇒長家⇒忠家⇒俊忠
⇒(?)⇒光能⇒(?)⇒中原親能

大友能直は、幼児の頃は古庄能直と名のり、
次いで父の苗字から近藤能直と名のり、
その後、伯母婿で
源頼朝の側近だった
中原親能の猶子となり
中原能直と名のったとする説が有力です。
また、家紋も中原一族を象徴する
杏葉紋であることから
大友能直自身は、
中原氏を自認していたと見られています。
なお、中原一族には摂津氏など
幕府の要職に就く者が多かったとのことです。

【大友氏を名乗る】
苗字については転々とさせていましたが、
母親である利根局方の生家である
波多野経家が相模国足柄上郡大友荘
(現在の神奈川県小田原市西大友・東大友の辺り)
を支配していたことから大友能直と称しました。

大友能直の母方の波多野氏
源氏の家人として
有力な相模の豪族です。
源頼朝の父である源義朝は
波多野氏の娘との間に
源朝長(源頼朝の兄)をもうけています。

【大友能直が寵臣となった理由として】
郷司の近藤氏という無名に近い
一族の子孫が大友能直以降において
興隆したのは母方の波多野氏と
源氏の深い関係にあると見られています。
また初代大友能直が
源頼朝の寵臣であったこともありますが、
それは母が源頼朝の妾でもあったこと、
(そのため大友能直は
源頼朝の落胤であったとする説があります)、
また何よりも源頼朝の信任が非常に厚かった
中原親能の猶子となった
ことに拠るところが非常に大きいとされています。
家紋である杏葉紋は
中原一族であることを示しています。

【通字】
主たる通字は「親」(ちか)で、
嫡流の守護家のみならず、
大友家支流の家柄でも
多用されているとのことです。
嫡流家では、
室町時代になると
代々足利将軍家から
偏諱の授与を受けるようになりましたが、
戦国時代の歴代当主
17代義右(初め材親)、
19代義長(初め義親)から
22代義統が将軍家の通字である
「義」(よし)を賜るようになってからは
それが実質的に通字化し、
江戸時代(23代義乗)以降も
引き続き「義」を通字として
用いるようになっていきます。

【鎌倉時代】
初代当主・大友能直の時代に
大友家は豊後及び筑後守護職と
鎮西奉行職に輔任されました。
けれども、大友能直と第2代当主である
大友親秀の時代には
豊後に下向したという記録は
残されてはいません。
ただし、
大分県豊後大野市大野町藤北に
大友能直のものと伝えられる墓があります。
九州に下ったのは大友能直の宰臣の
古庄重吉(古庄重能)とされており、
また、大友能直や大友親秀の庶子家も
この頃に豊後に入り土着しています。
大友氏が豊後守護に補任されたのは、
少弐氏や島津氏の場合と同じく、
かつては平家の基盤であり、
平家の家人だった
武家の多い九州に対する
源頼朝の東国御家人による
抑えの役割があったからでした。




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【大友氏興隆の基礎を築く】
第3代当主である
大友頼泰の代に豊後に下向しました。
文永の役を前にした
異国警固のためとされていますが、
また大友氏の興隆は初代の大友能直の
源頼n朝との個人的な関係に基礎を置くため、
源家滅亡後の北条氏の執権体制の東国では
微妙な位置に置かれたことにもよると見られています。
大友頼泰(大友頼康)は元寇における戦いで
武功を挙げて活躍し、
大友氏興隆の基礎を築き上げたとのことです。
以後、大友氏は分家とともに豊後に定着し、
一族庶子を在地豪族の養子として
所領を収奪し、勢力を拡大していくのでした。

【大友一族】
大友頼泰の子である大友親時の庶子から
入田氏・野津氏がおき、
更に大友親時の子或いは弟とされている
大友貞親から松野氏が、
大友貞親の弟の大友貞宗から
立花氏がおきています。

【大友能直】

大友 能直(おおとも よしなお)は、
鎌倉時代初期の武将・御家人です。
近藤氏の出で、
大友氏の初代当主となります。
父は近藤能成(近藤太能成)、
母は波多野経家の三女である利根局。
養父は中原親能。

【出自】
相模国愛甲郡古庄郷司であった
近藤(古庄)能成の子として生まれました。
当初は古庄能直と名のり、
次いで父と同じく近藤能直と名乗りました。
その後、母の生家の
波多野経家(大友四郎経家)の
領地である相模国足柄上郡大友郷を
継承してからは大友能直と名乗りました。
また、父親の近藤能成が早世したためか、
中原親能の猶子となり
中原能直とも名乗ったとのことです。

波多野城址・秦野市

父親である近藤能成の弟(叔父)が
武藤頼平とされ、武藤頼平の猶子が
少弐氏の祖となった
武藤資頼であるとのことです。
また源頼朝旗揚げ以来の
御家人であった近藤国平は
又従兄弟とされています。

【大友能直の生涯】
文治4年(1188年)に17歳で元服しました。
この年の10月14日に源頼朝の内々の
推挙によって左近将監に任じられました。
病のため相模の大友郷にあり、
12月17日になって大倉御所に初めて出仕し、
源頼朝の御前に召されて任官の礼を述べています。
「吾妻鏡」では大友能直を、
源頼朝の
「無双の寵仁(並ぶ者のないお気に入り)」
と記しています。
翌年の文治5年(1189年)の
奥州合戦に従軍しています。

曽我兄弟の仇討】
源頼朝の近習を務め、
建久4年(1193年)の
曾我兄弟の仇討ちでは、
曾我時致の襲撃を受けた
源頼朝が太刀を抜こうとしたところを、
大友能直が押し止めて身辺を守ったとのことです。




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【豊前・豊後両国守護兼鎮西奉行】
建久7年(1196年)正月11日、
豊前・豊後両国守護兼鎮西奉行となり、
現地へ下向して6月11日に
豊後国速見郡浜脇浦より入国しました。
承元元年(1207年)頃、筑後国守護。
任地への在国は一時的だったと見られ、
京と鎌倉を頻繁に往来していました。

和田合戦
建暦3年(1213年)の和田合戦では
京六波羅に滞在していました。
九州には守護代を配していたと
見られています。

【最期】
貞応2年(1223年)11月27日、
所領・所職を妻である風早禅尼深妙や
子に譲り、京都で死去しました。
享年は53歳でした。

【源頼朝落胤説】
母である利根局はかつて
源頼朝の妾でした。
また養父の中原親能が
源頼朝の側近だったことから、
源頼朝の寵愛を受け、
後の大友氏の興隆の因となったと
見られています。
母との関係から大伴能直を
源頼朝の落胤とする説があり、
大友氏の系図では大友能直を
源頼朝の庶子としています。

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