史跡・城跡

岸信周・岸信房父子~中濃衆~妻も勇猛で往年の女武将の如く・堂洞城を枕に壮絶に散る

岸信周・岸信房



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岸信周

岸 信周(きしのぶちか)は戦国時代の武将。
通称は孫四郎、勘解由。
美濃堂洞城城主で、父は佐藤信連。
兄弟に信貞、子に信房、信清、信友等がいました。

【生涯】
岸氏ははじめ佐藤姓で、藤原秀郷から分かれた一族と伝わっています。
従って、加治田城の佐藤忠能氏と祖は同じであり、
もしかしたら「美濃佐藤氏」の一族であったかもしれません。

斎藤義龍⇒齋藤龍興に仕える】
斎藤氏に仕え、天文11年(1542年)、
斎藤道三が主君土岐頼芸を大桑城から追放した戦に従軍。
天文16年(1547年)(または天文13年)の加納口の戦いで
織田信秀の甥・織田新十郎を討ち取った功により、
斎藤道三から感状を受けています。
同年、再度の土岐頼芸攻めにも加わり、
弘治2年(1556年)の長良川の戦い
斎藤道三の嫡子斎藤義龍側に参戦し、
斎藤義龍が死去した後は子の斎藤龍興にも仕えました。

【佐藤忠能の裏切りと八重緑の運命】
永禄8年(1565年)、
関城主である長井道利と親族である
佐藤忠能共に堂洞城にて集まり、
中濃三城盟約を結びます。
この時佐藤忠能の娘である
八重緑(やえりょく)を養女(人質)とし、
ゆくゆくは息子である
信房の嫁にと考えていたようでしたが、
加治田衆が寝返った為、
八重緑を堂洞合戦前夜に刺殺し、
加治田城から良く見える場所である
堂洞城長尾丸にて磔にしました。
(遺骸は深夜に佐藤忠能古参の西村治郎兵衛が忍び、
闇討ちにより奪取り、龍福寺に葬ったとされています)。

【加治田城と堂洞城はご近所】
実は加治田城と堂洞城とは、
目と鼻の先にあり、
加治田城を見張り、
攻撃の付城として
臨時に築城された城であったそうです。

岸氏はそこの城主として
通常も居住していたそうなので、
常に臨戦態勢だったのでしょうか??
実際、岸親子は大変豪勇であったと伝わっていましたし、
岸信周の正室も、堂洞合戦の時には、
長刀を振るい、応戦したとも伝わってます。
また、堂洞城は
信長公記」によれば、
城というよりは砦の様なものだったそうです。

【壮絶な攻防戦の果てに】
このように堂洞合戦において、
織田信長に寝返った加治田城主佐藤忠能と戦います。
関軍・長井道利の援軍は
織田信長本軍に阻まれてしまい
撃退されてしまいました。
岐阜城からの斎藤龍興援軍も
一日遅く間に合いませんでした。
これにより堂洞城は
完全に包囲され攻城戦が行われました。
岸信周の一族は大激闘の攻城戦により、
織田・加治田連合軍に少数ながらも
大損害を与えましたが、
敗れ一族もろとも城を枕に
自刃して果てたそうです。

富加町の公式サイトによりますと、
堂洞城周辺で、
ごく最近まで炭化したお米が
たくさん見つかっていたとのことです。
この炭化米はおそらくは兵糧米だったとされています。




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【佐藤⇒岸へ】
佐藤から岸への改姓の理由は、
昭和8年(1933年)に、
堂洞城の調査に来た
県史跡調査委員伊藤信氏の報告書によりますと、
「天文十六年九月二二日勘解由加納口の戦に加はり、
岐阜城を発する時、
鳶天に飛び一羽落ちて信周の鎧袖に留まる、
取り上げ見るに、羽に岸の文字あり。
是れ実に摩利支天の奇端なりとて大いに喜び、
則ち家名を改めて岸と称す。」とあるそうです。
この戦いで織田新十郎を討った功に対する
斎藤道三よりの感状が残っており、
関市在住の子孫に伝えられている、とのことです。

【勇猛果敢な妻】
織田信長は豪勇で知られる岸親子に対して、
高禄を与えて重用すると伝えたそうですが、
岸信周は主家と共にこの身は終わるという
一徹の姿勢をくずさなかったとのことです。
堂洞合戦において18度のかけ合いをし、
一足も退かずに戦いぬいたそうです。
そして岸信周の妻も、長刀を振りまわし、
夫と同様に勇戦で坂額(板額御前の事)
を思わせる働きをした、とあります。
最期の時に岸信周が、
「信房はどうしているか」と傍らの妻に聞くと
「北の方は打ち破られて信房は討死と思われます」と答え、
岸信周が思わず涙を流すと
妻は声をかけてはげまし
「武士が戦場で命をおとすは常の習い。
さあ私たちも討死を急ぎましょう」といって辞世の歌を
「先立つも暫し残るも同じ道、此の世の隙をあけぼのの空」と詠み、
岸信周は
「待て暫し敵の波風きり払い倶にいたらん極楽の岸」と詠んで、
夫婦で刺し違えた、と今に伝えられています。

板額御前

板額御前(はんがくごぜん)は、
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての女性武将。
名は「吾妻鏡」では「坂額」とされていましたが、
(2003年時点で現存する、
当該人物が登場するおそらく唯一の一次資料とされる)
のちに古浄瑠璃などの文学作品で「板額」と表記され、
現代では辞書も含めほぼすべてで「板額」と準じているそうです。
ほかに飯角とも。城資国の娘。
兄弟に城資永、城長茂らがいます。
日本史における数少ない女武将の一人で、
古くから巴御前とともに女傑の代名詞として
「巴板額」(ともえ はんがく)と知られてきたそうです。

【生涯】
城氏は越後国の有力な平家方の豪族でしたが、
治承・寿永の乱を経て没落、一族は潜伏を余儀なくされました。
「吾妻鏡」の建仁元年(1201年)には、
越後国において板額の甥に当たる
城資盛(資永の子)の挙兵があったそうです(建仁の乱)。
これは板額の兄の長茂(資茂とも)の
鎌倉幕府打倒計画に呼応したものであり、
城長茂自身は程なく京において討ち取られましたが、
城資盛は、要害の鳥坂城に拠って
佐々木盛綱らの討伐軍を散々にてこずらせた、
と伝わっているそうです。
そして板額自身は、反乱軍の一方の将として奮戦した、とあります。

「吾妻鏡」によりますと、
「女性の身たりと雖も、百発百中の芸殆ど父兄に越ゆるなり。
人挙て奇特を謂う。この合戦の日殊に兵略を施す。
童形の如く上髪せしめ腹巻を着し矢倉の上に居て、襲い到るの輩を射る。
中たるの者死なずと云うこと莫し」と書かれているとのことです。




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しかし最終的には矢が両脚に当たり捕虜となり、
それとともに反乱軍は崩壊し、板額は鎌倉に送られます。
そして2代将軍・源頼家の面前に引き据えられましたが、
その際全く臆した様子がなく、幕府の宿将達を驚愕せしめたそうです。
この態度に深く感銘を受けた甲斐源氏の一族で
山梨県中央市浅利を本拠とした浅利義遠(義成)は、
将軍・頼家に申請して彼女を妻として
貰い受けることを許諾されます。
板額は浅利義遠の妻として甲斐国に移り住み、
一男一女をもうけたとされ、
生涯を過ごしたと伝えられています。
浅利義遠が本拠とした
山梨県中央市浅利に近い笛吹市境川町小黒坂には
板額御前の墓所と伝わる板額塚があるそうです。
また、生誕地とされる熊野若宮神社
(新潟県胎内市飯角)には、
鳥坂城奮戦800年を記念した石碑が
建てられているとのことです。

岸信房

岸 信房(きし のぶふさ、
天文3年(15344年)⇒ 永禄8年8月28日(1565年9月22日))
は、戦国時代の武将。通称は孫四郎、信氏。
父・岸信周、母・桂院月丘浄香大姉。
兄弟に岸信清、佐藤秀清室がいます。
子に岸信近、岸信宗、栄(佐藤義秀室)がいました。

【生い立ち】
美濃斎藤家に於いて、
父の岸信周と共に、多くの合戦で活躍しました。
岸信周(勘解由)・岸信房父子は
豪勇で鳴る武将と言われていたそうです。

【織田信長の東美濃攻略に備える】
織田信長の中濃攻略戦(東美濃攻略)により、
父岸信周と共に堂洞城を守備します。
はじめ岸信周は、長井道利を堂洞城評定にて
「佐藤紀伊守の内心疑わしく覚え候、彼を召され気色をも御試し候へ。」
とし、佐藤忠能を堂洞城へ呼び、中濃三城盟約により、
堂洞城に三城主が集まり会談を開いたとされます。
関城主長井道利の勧めで結束を固める為、
加治田城主佐藤忠能の娘である八重緑(やえりょく)を
岸信周の養女(人質)として、
ゆくゆくは将来、岸信房の妻としました。

【織田軍に対して決死の覚悟】
織田信長の織田軍が堂洞城を包囲します。
その時、金森長近が鵜沼城から投降を進める使者として
堂洞城へ赴き説得を試みますが、岸信周は拒否します。
金森長近は、岸信房にも意志を尋ねたところ、
自身の嫡男を呼び寄せ、
金森長近の目の前で首を切って決意を示した、とあります。
金森長近は、
そのような壮絶な光景を目の当たりにして
「明日の先陣でお目にかかろう。」の言葉を残して
引き下がるほかはありませんでした。

そして、合戦の準備中、
佐藤忠能が中濃三城盟約を破り、
内通を知ることになります。
岸信周・岸信房は、八重緑(やえりょく)を
夜呼び寄せ、刺殺し、
竹の串に貫いて堂洞城長尾丸にて磔にしたとあります。
その光景は、八重緑の実家である
加治田城からよく見えたそうです。

【加治田勢と激突】
翌日岸信房は、堂洞城北方方面守備につき、
北から攻め上がって来た加治田軍(加治田衆)と戦います。
岸信房は諸将を指示して決死の勢いが凄く、
何度も撃退したそうです。
戦が長引くにつれ、軍勢も多く傷つき、
小勢となっていきます。




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【岸信房の最期】
最後は、岸信房も三ヵ所に傷を負い、
自分も含めて残り六騎となり、
雑兵によって死ぬより、
心静かにして自害したいと松原に入り、
腹十文字に搔き切り、
東枕に伏したそうです。
残り五騎も思う程戦い、
忠死を遂げていったそうです。
岸信房の首は、湯浅新六が討取ったとあります。
享年は32歳であったそうです。

【戦いにおける人物像】
父と同様に武勇に長けていました。
堂洞合戦においても岸信房は自ら真っ先に進み、
抜連れて切ってかかり、
加治田軍を深田へなだれ落ちさせたり、
丸山にとり上り、
細道を登る加治田軍を差し詰め引き詰め散々に射り、
更に岸信房は五十余騎を東の方からかからせ、
西に加治田軍を追い詰め、
右往左往に落ちた活躍を見せていたそうです。
岸信房も数度の合戦により
兵が戦い疲れていたとありますが、
討ち残った三十余人を前後に立て、
加治田軍六百余ともみ合い、
二時も戦ったとあります。

【子孫・密やかにつなぐ】
【次男の行方】
乳母が次男の岸信宗(3歳とも伝わります)をつれて
秘かに城を落ち延び、岐阜芋島に潜んだと伝わります。
その子孫が、岐南町平島の岸氏、とのことです。

【一人娘】
一人娘の栄姫(9歳)も乳母がつれて逃げ、
叔母方の佐藤清秀(佐藤秀清ではない?)に匿われたそうです。
成人後はその嫡子である
佐藤義秀の正室となった、と言われています。

加治田栃洞区堂洞東裏手には「姥ヶ洞」の地名があり、
城を落ちた乳母が栄を連れて
一時潜んだ場所であると伝わっています。
栄姫が逃げ出された時、
斎藤道三の感状を入れた巾着の口を締め、
長い紐を体に巻き付けて逃げ延びたと伝わっています。
栄姫が愛用したかんざしも
西神野岸家に今も伝わっているとのことです。

【堂洞城】

堂洞城(どうほらじょう)は
美濃国中濃(岐阜県加茂郡富加町夕田)にあった日本の城(平山城)。
別名、堂洞山城、堂洞掻上城。
濃尾平野の北で、加治田城からかなり近い場所にあります。

【概要】
創築者・築城年は不明です。
蜂屋頼隆が織田信長に内心してから、
天文・永禄の頃には岸信周が城主でした。

【城郭】
一の曲輪・二の曲輪・三の曲輪・北の曲輪
大手曲輪・出丸曲輪・池曲輪・長尾丸があったそうです。
又、平段丘の城周りには池が多くありました。
堂洞掻上城の名の通り、土を掘り、
盛り上げ土の地形を生かした城であったようです。
本丸には、天守構えがあったと軍記物に記述が見えます。
天守に類似した建物の存在を推測必要があるとも
指摘されているそうです。

堂洞城は、北の加治田城に開けており、
加治田城を見張り、攻撃の付城として
臨時に築城された城でもありました。




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【築城の目的】
信長の中濃攻略阻止のために築かれた城で、
加治田城・佐藤忠能、関城・長井道利、堂洞城・岸信周
の中濃三城で盟約を結びましたが、佐藤忠能が信長に内心し、
堂洞城を中心とした堂洞合戦の後、落城しました。
そのまま廃城となり、本能寺の変後、
混乱に乗じて斎藤利堯と森長可による加治田・兼山合戦の際、
堂洞城跡は森長可の加治田攻城戦の本陣として使用されたそうです。

【現在】
岐阜県の史跡に指定されています。
本丸、長尾丸、二の丸跡、土塁、堀が残っています。
本丸には石碑が建っており
「南無阿弥陀佛」と刻まれています。
城の米蔵跡からは黒く焦げた焼米が
つい最近まで出土していました。
本丸にある岩場は岸信周が酒宴を催した岩で、
八畳岩と言われています。
城域は富加町夕田、羽生、美濃加茂市蜂屋辺り。
跡地の大部分がゴルフ場となっています。
かつて、ゴルフ場が出来る前は、盛土と堀が深く、
曲輪の周りを囲んでいたそうです。
本丸より、石段の道も繋がりあっていたそうです。
美濃加茂市富加町中学校組合立双葉中学校が出来る前は、
小高い小山であり、堂洞城出丸があり、
石塁が多くあったと云われていました。
堂洞城南道からの登山道入口(蜂屋方面)には、
「堂洞城入口石碑」があるそうです。
本丸と八畳岩には、
木で作られている「堂洞城由来」の説明版があり、
文字は習字で書かれており、
今では文字が読みにくくなっています。
八畳岩にも看板があり、「八畳岩 岸勘解由」と書かれて置かれています。
富加町郷土資料館に
「堂洞城絵図」と、
「堂洞城戦記絵図」、
「富加町堂洞城・加治田城位置関係地図」があるそうです。

富加町公式サイト
加治田城と堂洞城

富加町郷土資料館
【資料館の所在地】
〒501-3302 富加町岐阜県加茂郡富加町夕田212
【開館日・時間】
【開館時間】
午前9時~午後4時
【休館日】
月曜日
【入館料】
無料

<郷土資料館の位置>

【所在地】
岐阜県加茂郡富加町夕田

【形態】
山城

【遺構】
曲輪・堀・土塁など(現在)

登城の際には郷土資料館にて
「富加町堂洞城・加治田城位置関係地図」
を入手されると良いそうです。

<堂洞城の大まかな位置>

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