【相良城】
相良城(さがらじょう)は、
遠江国榛原郡(現在:静岡県牧之原市)にあった日本の城です。
江戸時代の一時期には相良藩の藩庁が置かれていました。
【城郭構造】
平城
【天守構造】
なし
【築城主】
相良氏
【築城年】
平安時代末(1112年頃)?
【主な改修者】
武田勝頼、田沼意次他
【主な城主】
相良氏、田沼意次他
【廃城年】
天明8年(1788年)
【遺構】
埋没
【相良城の歴史】
【相良館(相良氏館)】
平安時代末期から鎌倉時代初頭にかけて、
相良庄の武士・地頭である
相良氏(肥後人吉城主の祖とされる)
の館であった相良氏館が築かれていたとのことです。
【所在地】
静岡県牧之原市大沢字川向(推測地)
【遺構】
なし
【築城者】
相良周頼
相良館は、江戸時代に相良城が築かれていた
牧之原市役所相良支所と萩間川を挟んで対岸にあったと
推測されています。
現在はグランドとなっており、
その片隅に居館の標柱がポツンとあるそうです。
居館の遺構などは何も残っていないとのことです。
【相良古城】
戦国時代に入ると、
高天神城を攻略して
遠江国の支配を図った武田勝頼は、
相良に築城をおこなっています。
これを相良古城と呼ぶこともあるそうです。
【相良御殿】
その後、遠江は天正年間に
徳川家康の治めるところとなりました。
天正14年(1586年)、
相良城は相良御殿とされ、
徳川家康の鷹狩りに用いられました。
【相良陣屋】
江戸時代に入ると相良陣屋として
相良藩の藩庁が置かれ、
本多氏3代、板倉氏1代、
本多氏1代の城郭となっていました。
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【近世相良城】
【田沼意次と近世相良城】
近世の相良城は、
明和4年(1767年)に
田沼意次が築いた城です。
田沼意次は御側御用取次であった
宝暦8年(1758年)に
江戸の呉服橋御門内に屋敷を与えられ、
更には相良1万石の領主となったのでした。
この時の相良には城はなく陣屋のみでした。
田沼意次はその後、
10代将軍徳川家治の信任を受けて
老中として手腕をふるい、
所領も加増を重ねていきました。
明和4年(1767年)には、
10代将軍の徳川家治の命によって
神田橋御門内に屋敷を与えられました。
其の後「神田橋様」と呼ばれることとなったそうです。
そして築城を許可されて城主格となったのでした。
翌年から相良城の築城に取り掛かり、
11年間の月日を要したとのことです。
天守閣を築くことを許されて、
三重櫓の天守閣を築いたのでした。
田沼意次はその後もたびたび加増を受け、
安永元年(1772年)には
5万7千石を領しました。
【相良城の構造】
相良城は萩間川、天の川を外堀として
本丸、二の丸、三の丸から成り、
その規模は東西500メートル、
南北450メートルで約7万坪に及びます。
三重櫓を中心に櫓は6基あり、
三重の堀を廻らし、総石垣で、
安永9年(1780年)に完成しました。
【田沼意次の失脚】
天明6年(1786年)、徳川家治が没し、
松平定信が老中になると
田沼意次は失脚し、蟄居・減封を命じられます。
天明7年(1787年)、
退隠した田沼意次から家督を継いだ
田沼意明(田沼意次の嫡孫)は、
陸奥下村藩1万石に転出となります。
相良城も廃城とされ、
天明8年(1788年)に徹底的に破壊されたのでした。
【田沼氏の復帰と相良陣屋】
田沼意明の移封後、相良は天領となりました。
文政6年(1823年)、
陸奥下村藩主・若年寄田沼意正(田沼意次の四男)が、
相良に1万石の領主として復帰し、
相良城跡に相良陣屋を構えました。
明治元年(1868年)に田沼意尊(田沼意正の孫)が
上総小久保藩に移されるまで、
相良陣屋は相良藩の藩庁として機能しました。
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【相良城跡の現在】
城跡は牧之原市役所相良支所が相良城跡となります。、
本丸跡は牧之原市史料館、
二の丸跡は牧之原市立相良小学校、
三の丸跡は静岡県立相良高等学校になります。
1782年、御殿と書院を
藤枝宿の中心地に位置した
円妙山大慶寺(現在の藤枝市藤枝4-2-7)庫裡に移築しています。
【相良氏(遠江相良氏)】
相良氏(さがらうじ、さがらし)は、
肥後南部を支配した戦国大名の氏族です。
江戸時代に入ると肥後人吉藩主家となり、
明治維新まで存続しました。
ルーツは藤原南家の流れをくむ工藤氏の庶流といわれ、
「求麻外史」によりますと、
工藤維兼(くどう これかね)を
相良氏の祖としているとのことです。
一方「寛政重脩諸家譜」では、
その孫にあたる工藤周頼(くどう かねより)が
遠江相良荘に住んだことから
相良を苗字としたのを始まりとしているそうです。
相良氏館を建築したのも工藤周頼(相良周頼)とされています。
けれども相良周頼には子がなく、
親類である伊東祐時の孫(伊東祐光の子)である
伊東光頼を養子として家督を継がせたとのことです。
このために日向伊東氏とも近縁となります。
【鎌倉時代】
治承4年(1180年)、
源頼朝が平氏追討の兵を挙げました。
ですがこの時の相良荘司頼景は
文治元年(1185年)に平氏が滅亡するまで、
平氏方の武士として行動していました。
その結果、領地没収となったのですが、
謝罪につとめて許され、
鎌倉幕府に仕えるようになりました。
【肥後国との関り】
そして、建久4年(1193年)、
肥後国球磨郡多良木荘を賜り、
相良氏は肥後国と
関係をもつようになったとされています。
一方、相良頼景は建久4年に領地没収のうえ
九州肥後国球磨郡多良木荘に追放、
との説も存在します。
建久8年、相良頼景は鎌倉に行き
将軍である源頼朝に謁見します。
其の後に源頼朝の善光寺参詣の随兵として参加し、
御家人の列に加えられたのでした。
そして、所領として
多良木荘を授けられたのでした。
【肥後国と遠江】
こうして、多良木を得た相良頼景は
家督を嫡男である相良長頼に譲ると隠居しました。
相良長頼は遠江国相良荘に生まれ、
相良頼景が多良木荘に下向したときは
遠江相良荘に残ったとされています。
その後、源頼朝の命を受けて人吉荘に下向し、
矢瀬氏を滅ぼして人吉城に入ったのでした。
【畠山重忠の討伐】
元久2年(1205年)7月、
相良長頼は征夷大将軍源実朝の命により、
北条義時に従って武蔵国二俣川での
二俣川の戦いで畠山重忠を攻めました。
その抜群の功によって平家没官領である
球磨郡人吉庄の地頭職に補任されました。
【上相良氏・下相良氏・遠江相良氏】
相良氏が肥後国に下向したとき、
弟の相良宗頼・相良頼平ら一族、
譜代の家臣らが従ったのですが、
相良長頼の別の弟である
相良頼忠・相良頼綱・相良長綱らは
遠江相良荘に残りました。
このように相良氏は地域によって
多良木荘(上球磨)の相良氏は上相良氏、
人吉荘(下球磨)の相良氏は下相良氏と呼ばれ、
遠江相良荘に残った相良氏は
遠江相良氏と呼ばれることとなったのです。
其の後、遠江相良氏がどうなったのかが
まだわかりません。
平安時代後期に同じく台頭した隣接した地域の
武士団である「勝間田」氏と「横地」氏は
後年の今川氏との攻防でその名が出てくるのですが、
遠江に残った遠江相良氏の名はまだ
見つかっていません。
【横地氏とのつながり】
最も、「横地」氏の始祖である
横地太郎家永の母親は、
相良太郎光頼(伊東光頼)
(伊東光頼は日向伊東氏の始祖である伊東祐時の孫)の
娘とされているので、
「相良」氏は「横地」氏の母方のルーツであり
横地氏も日向伊東氏とも
親戚であったわけですね。
【その後の相良氏】
【肥後国の相良氏の統一】
室町時代の文安5年(1448年)、
下相良氏の相良長続が
上相良氏を滅ぼし球磨を統一しました。
肥後国守護菊池氏により
八代と葦北の占有・保持を許され、
球磨・八代・葦北三郡の統一に成功しました。
【戦国大名へ】
やがて戦国時代に入ると、
長らく続いていた内紛を収束させ、
みずからの直臣を国内の諸城に配置。
そして一族、国人らを制圧し、
かれらを家臣団として把握し、
戦国大名相良氏の基礎を築きあげていきました。
【激化する戦国時代の九州の中で】
肥後守護菊池氏は大友氏の政治介入や
家臣団の下剋上によって
当主がめまぐるしく代わっていきます。
一方、薩摩の島津氏は
九州統一への戦に乗り出すほどの
勢力をつけて、相良氏と衝突していきます。
相良氏は島津氏の指揮下になりながらも、
戦国時代を強かに乗りこなしていきます。
関ヶ原の戦いでは、当初は西軍についたものの、
東軍に転じ、本領を安堵されて江戸時代を迎えます。
【江戸時代から明治時代】
江戸時代から明治維新まで
人吉藩として存続しました。
相馬氏、島津氏と並び、
明治維新まで800以上
領地替えされることもなく続いた
大名家の一つであるのです。
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