明智孫十郎(あけち-まごじゅうろう)は、恩田直實の子として、戦国時代の1541年に生まれました。
最初は、恩田孫十郎(おんだ-まごじゅうろう)と名乗りました。
明智孫十郎の正室は原仙仁の娘です。
妻の父・原仙仁は、公家だったようで、明智光秀の側室にも、原仙仁の娘がいたともあります。
明智光秀の側室は、恩田孫十郎の母・原仙仁の娘の妹とされ、この縁で明智光秀から「明智」の姓を許されたようです。
スポンサーリンク
最初は、美濃守護・土岐頼芸に仕えたとされ、18歳のとき、四国山城攻めで戦功があったと言います。
四国山城は、美濃・大桑城のことかも知れません。
このとき、土岐頼芸から山県郡に2箇所の領地を得たほか、「土岐の鷹」(土岐頼芸が描いた鷹の絵)を拝領したとあります。
土岐の鷹の絵はいくつかありますので、同じではないとは存じますが、織田信長の墓所になっている岐阜・崇福寺を有料拝観すると展示されています。
なお、美濃・恩田家は、美濃・鉈尾山城主である佐藤公輝(佐藤石見守公輝)の子・恩田輝直(恩田右馬允輝直)が祖とします。
主筋の佐藤秀方は、美濃が織田家に制圧されると、織田信長の与力となっていたようです。
明智孫十郎は、明智勢の丹波攻めなどにも参じたようで、明智光秀の与力として亀山で1万2000石にもなっています。
1582年、本能寺の変では本能寺攻撃の先鋒を務め、そして二条城に転戦すると、織田信忠の攻撃に加わりましたが、明智孫十郎は討死しました。享年42。
スポンサーリンク
この恩田直實(恩田与惣左衛門直實)の子である恩田孫十郎(明智孫十郎)の領地のすぐ近くは、諸説ある明智光秀の出生地のひとつになっており、桔梗塚(伝明智光秀公墓)も存在するので、関連性には興味深いです。
桔梗塚(伝明智光秀公墓)がある山の反対側には、美濃・恩田氏の菩提寺があり、明智孫十郎の墓(明智光秀の義弟?)があります。
明智孫十郎の子として明智孫九郎(明智孫十郎直政)、明智次郎八がいますが、委細不明です。
→桔梗塚(伝明智光秀公墓) 明智光秀が生まれて お墓もある場所
→土岐頼芸 美濃を乗っ取られるも鷹の絵がうまい美濃守護
→本能寺の変と織田信長・明智光秀の関係に迫る
→本能寺とは 京都・本能寺の歴史
→岐阜・崇福寺 斉藤利匡の謎 信長父子の墓碑と血天井
→明智光秀の家臣一覧表・明智一族・明智家臣団リスト
→明智光秀の妻子まとめ 妻と子供の一覧リスト
→NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の出演者・キャスト一覧
→明智光秀「ゆかりの地」岐阜・近江・丹波など
この記事へのコメントはありません。