【歩き巫女】
歩き巫女(あるきみこ)は、
かつて日本に多く存在した
巫女の一形態となります。
【概要】
特定の神社に所属せず、
全国各地を遍歴し
祈祷・託宣・勧進などを
行うことによって生計を立てていました。
旅芸人や遊女を兼ねていた
歩き巫女も存在していました。
そのため、遊女の別名である
白湯文字、旅女郎という呼称でも
表現されています。
鳴弦によって託宣を行う梓巫女、
熊野信仰を各地に広めた
熊野比丘尼などが知られています。
ワカ
(若宮と呼ばれる神社に仕えていた巫女)
アガタ シラヤマミコ モリコ(山伏の妻)などもおり、
総じて神を携帯し
各地を渡り歩
き竈拂ひ(かまどはらひ)や
口寄せを行ったらしいとのことです。
【信濃巫】
現在の長野県東御市から出て、
日本各地を歩いた歩き巫女です。
戦国時代には望月千代女が
甲斐武田氏のためにこの巫女を訓練し、
情報収集に使ったと言われています。
これが、くの一として
呼称されることがあります。
【発祥】
柳田國男によりますと、
もともとノノウ
(のうのう、と言う呼び声あるいは聖句から)
と呼ばれる諏訪神社の巫女で、
諏訪信仰の伝道師として
各地を歩いていたとのことです。
【巫娼への零落】
神にせせられるパッションが
薄くなると同時に、
祢津村の辺りに
巫女コミュニティを
構えることになり、
柳田國男によりますと、
後に「死人の口をきく」
口寄せを行う巫女として
各地に再びさすらうことと
なったということです。
各地でマンチあるいは
マンニチ(万日供養から)、
ノノウ、旅女郎(新潟)、
飯縄あるいは飯綱(京都府下)、
コンガラサマ
(舞う様がミズスマシに似るため、岡山県)、
をしへ、刀自話(島根県)、なをし(広島県)、
トリデ(熊本県)、キツネツケ(佐賀県)、
ヤカミシュ(伊豆新島)
と呼ばれた彼女たちは、
17~18歳から
三十代までのの美女で、
関東から近畿にいたる各地に現れ、
「巫女の口ききなさらんか」
と言って回ったということです。
外法箱と呼ばれる小さな箱を
舟形に縫った紺色の風呂敷で
包んで背負い、
白い脚胖に下げた下襦袢、
尻をからげて白い腰巻をする、
という姿で、2~3人連れ立って口寄せ、
祈祷を行い、春もひさいだので、
山梨、和歌山県辺りでは
「白湯文字」と呼ばれていました。
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儀式は、外法箱と呼ばれる箱に
枯葉で水をかけ、うつ伏して行ったとのこと。
中の神は確かではありませんが、
「五寸ほどのククノチ神(弓を持った案山子)像、
捒物のキボコ(男女が合体している木像)、
一寸五分の仏と猫頭の干物、
白犬の頭蓋骨、雛人形、藁人形」
が入っていたという記録があるとのことです。
旧暦の正月から四月にかけて、
祢津村の旧西町にあるノノウ小路から出発し、
各地へ回って仕事をし、
遅くとも大晦日までには帰る、
というサイクルで活動していました。
帰ると寒垢離(かんごり)を
行ったとのことです。
巫女村各戸の親方である抱主
(かかへぬしあるいはぼっぽく)が巡礼の折、
各地(関東から紀州にかけて、
主に美濃、飛騨から)で8~9歳から
15~16歳のきれいな少女を、
年を定めるあるいは養女としてスカウトし、
信州に連れ帰って
先輩のノノウに付け、
3年から5年ほど修行して
一人前となったとのことです。
また、身の回りのものを
あらかた持って各地を訪れると、
地元民から歓迎され、
「信濃巫は槍一本(千石取り)程の物持ちで、
荷物は専門の者が持ち、
各地を手形なしで歩ける」
という伝説までついたということです。
勿論、俗世に浴しているため
気前よく「金をばらまく」ことが
多かったためであろうとのことですが、
旅先での借金は必ず返し、
聖職者であるため肉食は
禁じられていたとのことです。
明治初期辺りまで
関東(檜原村)や
関西(河内長野市・葛城村近辺)に
やってきていたとのことです。
【甲斐武田氏の忍者集団】
「歩き巫女」は戦国時代に
武田家に仕えていた
複数ある忍者集団のなかの
ひとつでもありました。
歩き巫女の最たる特徴として、
他に類を見ない
女性の忍者くノ一のみで
構成されていたことです。
全国各地を渡り歩きながら、
巫女として吉凶を占うなど
様々な人と接して情報を集め、
有用な情報を主君の武田信玄らに
伝えていました。
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武田信玄は、戦において情報収集を
重要視していました。
「武田騎馬軍団」を筆頭に
圧倒的な武力の
イメージが強い武田家ですが、
その一方で武田信玄は
戦が始まる前から
相手の戦力や主要人物、
国内情勢など様々な情報を集めて
対策を練っていました。
城を攻略する際の弱点、
あるいは調略(政治的工作)可能な
有力武将の有無など、
様々な手段のなかから
最も効果的な方法を選び
戦に勝利してきました。
そうした情報収集を支えたのが、
武田信玄が自ら組織したとも
されている忍者集団でした。
武田家は、歩き巫女以外にも
透波(すっぱ)や
三ツ者(みつもの)など、
複数の忍者集団を
配下においていました。
それらの忍者を全国に派遣し、
忍者から定期的に報告される
多くの情報を集約し、
武田家と敵対した勢力を
打ち破っていました。
【武田家配下の歩き巫女】
武田家配下の忍者集団のなかでも
特に目立ち、異彩をはなっていたのが、
女性のみで構成された歩き巫女でした。
伊賀や甲賀をはじめ
全国の大名が忍者を
雇うようになった戦国時代ですが、
忍者を重用していたことで
知られる徳川家ですら
女性のみの忍者集団は
存在しませんでした。
【梓巫女・熊野比丘尼】
特色のある有名な巫女としては、
関東・東海地方で多く見られた梓弓
(あずさゆみ:神事で使われる梓の木を使った弓)
を用いる「梓巫女」(あずさみこ)や、
絵を使って地獄や極楽という
死後の世界を庶民に伝えた
熊野比丘尼(くまのびくに)などです。
【歩き巫女という職業】
歩き巫女は各地を回る職業のため、
一般人の往来が大きく制限されていた
戦国時代でも自由な移動が可能で、
全国どこを訪れていても
怪しまれずに周囲に溶け込めまし。
忍者の変装術「七方出」(しちほうで)でも、
商人・放下師(大道芸人)・
出家(一般的な僧侶)・
虚無僧(深編笠を被った禅宗の僧)・
山伏(山中で修行する僧)・
猿楽師(能役者)・常の型(一般人)と、
他国を歩いていても
不審がられない職業を装う技術が
発展しています。
歩き巫女は、忍者が放浪しやすい
職業に変装するのではなく、
放浪しやすい職業の人間を
忍者に仕立て上げると言う、
逆転の発想から生まれた忍者の形態でした。
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【甲斐信濃巫女道】
武田信玄はくノ一である
歩き巫女を多く育成するため、
信濃国の小県郡祢津村
(ちいさがたぐんねづむら:現在の長野県東御市)に
「甲斐信濃巫女道」(かいしなのみこどう)
と名付けた修練道場を設立しています。
戦乱の余波による孤児や捨て子、
迷い子といった
身寄りのない子ども達のなかから
容姿や知性に優れた少女を集め、
巫女として必要とされる技能や、
歩き巫女として活躍するための
諜報の知識や技術、
読み書きなどの基礎的な
教養などを教え込みました。
諜報活動において様々な面で
有利になるとして、
容姿が良く機転の利く少女ほど
重宝されたと言います。
【日本一の巫女村】
道場では明治時代に入るまで
多くの巫女が育てられ、
現在も東御市祢津地区は
「日本一の巫女村」として有名とのこと。
祢津地区内の小学校の前には、
古い墓碑があり「巫女さん眠る地」
と木碑が建てられています。
歩き巫女の少女達を束ねていた
頭領「巫女頭」(みこがしら)が
「望月千代女」です。
【望月千代女】
望月千代女(もちづきちよめ)。
望月千代女は、
望月城(長野県佐久市)城主である
「望月盛時」(もちづきもりとき)
の妻とされております。、
望月盛時は武田信玄の家臣でした。
永禄4年(1561年)に起きた
「第四次川中島の戦い」で討死した後に
望月千代女が巫女頭に
任命されたと言われています。
【望月家の家柄】
望月家は、分家が
甲賀忍者の「甲賀五十三家」
(こうかごじゅうさんけ)筆頭になるなど、
代々忍者に関係のある一族でした。
望月千代女自身も
望月家の本家筋にあたる
滋野家(しげのけ)の出身でした。
望月千代女は、
甲賀五十三家筆頭の
本家にあたる家柄の生まれでした。
武田信玄が巫女頭に任命した理由も、
その血筋によるものもあったとのことです。
望月千代女は歩き巫女の育成だけでなく、
育て上げて一人前となった
歩き巫女を全国各地に送る
運用にも携わっていたとされます。
【活動形態】
「神事舞太夫」(しんじまいだゆう)
と呼ばれる男性の統率者を中心に
数人の歩き巫女が一団となり、
各地に散らばって旅立ち
様々な神事をこなしながら、
くノ一としてその地の
諜報活動を行っていたとされています。
またこの神事舞太夫は
統率者としての役割だけでなく、
旅に必要不可欠な荷物を持ったり、
一行が宿泊する宿の手配を
していました。
女性ばかりの一行でしたので、
時にはその用心棒としての
役目も果たしていたとされていました。
現代で言うならば
マネージャーのような
存在であったのでした。
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【諜報活動以外の業務】
諜報活動だけでなく、
散らばった一団同士で
手紙などをやりとりして
お互いの状況を伝え合ったり、
訪れた地方で
歩き巫女になる素養の
ある容姿の少女を見出し、
くノ一として育成するため
勧誘したりと、
旅のなかで多岐にわたる
業務に従事していました。
なかには旅先で出会った男性と
恋仲になってしまい、
駆け落ちして逃げてしまった
巫女もいると言われています。
【単独での隠密行動】
歩き巫女として集団で
活動する巫女がいる一方で、
素性を隠して単独で
活動する巫女もいました。
敵国の屋敷に女中として入り込み、
長期に亘って働きながら
多くの情報を収集するといった、
まさにドラマに登場するような
くノ一としての任務に従事する
巫女も少なからず
存在していたとのことです。
【内側からの攻略】
長期的に潜伏することによって、
相手の信用を得てより核心に迫る
情報を引き出し、
場合によっては敵国内部に
味方をつくり武田家の動きに合わせて
内側から裏切らせて敵を攻略することも
あったそうです。
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【真田家へ】
武田家の滅亡後は
巫女頭である望月千代女の存在もあってか、
「望月家の同族にあたる
真田家が引き継いだ」とも言われています。
歩き巫女達が真田家に仕えたと言う
確たる文書は存在しません。
が、真田家の配下の真田忍軍である
草のものには武田家から
移ってきた忍者が多く
存在していたことは事実でした。
まさしく「真田太平記」に登場する
ヒロインであるお江さんですね。
当時高校生でしたが、
リアルタイムで見て、再放送・再々放送でも
しっかりと見ました。
2023年NHK大河ドラマ
「どうする家康」では
「歩き巫女・千代」の役名で
古川琴音(ふるかわ ことね)さんが演じられます。
役名が「千代」さんなので
もしかしたら「望月千代女」か、
あるいは望月家の一族かもしれませんね。
そして役柄紹介文にある「重要人物」とは
やはり武田信玄なのでしょうか。
きになりますね。
ここで間違っても
「義経」の「うつぼ」や
「麒麟が来る」の「駒」のような
扱いにしないでほしいと切に願います。
それぞれ演じられていた女優さんが
上手なだけによりもったいなく、
残念でしたので・・。
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