【森山城】
森山城(もりやまじょう)は、
下総国香取郡(現在の千葉県香取市岡飯田)
にあった日本の城です。
利根川東遷工事などで
現在は内陸部に位置する形になっていますが、
元々は香取海かそれにつながる
河沼沿いの台地上にあった城であると
考えられています。
【別名】
飯田城
【城郭構造】
平山城
【築城主】
東胤頼
【築城年】
12世紀末~13世紀初頭か?
【主な改修者】
千葉氏
【主な城主】
東胤頼、千葉胤富、粟飯原胤次、原親幹
【廃城年】
天正18年(1590年)ごろ?
【遺構】
曲輪、空堀、土塁
【森山城について】
鎌倉時代初期に
千葉常胤の子である東胤頼が築城し、
代々東氏が居住していたと
されていますが、
中世期の動向は不明な点も多いです。
戦国時代(天文年間)には
千葉昌胤の子で海上氏を継いだ
胤富が森山城に入って居城としました。
けれども弘治3年(1557年)になって
胤富が末弟の親胤を廃して
宗家当主を奪って本佐倉城に移ったため、
粟飯原胤次が任じられて
粟飯原氏が城主を継ぎました。
が、その後は千葉氏の重臣である
原親幹が城主に任じられて
今度は原氏が城主を継ぐ事になりました。
粟飯原・原両氏が城主を務めていましたが、
この間も千葉胤富の主導で
城の整備が進められています。
これは、香取・海上郡の境目にある森山城が
東下総支配及び常陸国との
水運の要地である事を
城主であった胤富が
強く認識していたからと考えられています。
千葉氏が小田原北条氏の傘下に入ると、
事実上の小田原北条氏の支城となり、
里見氏の北上に対応する拠点ともなりました。
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【廃城とその後の下総飯田藩】
天正18年(1590年)の
小田原の役後、森山城は
廃城になったとみられていますが、
徳川家康の家臣である
青山成重が森山に入って、
後に下総飯田藩が成立しています。
そのため、廃城に関しては
不明な部分も残されています。
【地理地形と遺構】
現存の城跡は永禄-天正期に
整備されたものとみられています。
西から東に向かって
3つの郭によって構成された
東西620m・南北430mの
規模と推定され、
更に出城と見られる
須賀山城を森山城の一部とみなすと
東西1500m・南北500m規模になります。
主郭部では空堀・土塁などが
比較的良好な形で残されているということです。
【交通アクセス】
JR成田線「笹川」駅 徒歩45~50分程度。
【所在地】
〒289-0322 千葉県香取市下飯田3039
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