【鳥居元吉】
鳥居 忠吉(とりい ただよし)は、
戦国時代の武将。
三河松平氏(徳川氏)の家臣です。
三河碧海郡渡城主です。
【生誕】
不詳
【死没】
元亀3年3月25日(1572年5月7日)
【墓所】
不退院(愛知県西尾市)
【官位】
伊賀守
【氏族】
鳥居氏
【父】
鳥居忠明
【子】
忠宗、本翁意伯、元忠、
忠広、娘(三宅政貞室)、
娘(松平重勝室)、
本多重次正室
【生涯】
鳥居忠明の子として誕生しました。
生年は不明ですが、
死去した時に80余歳と
伝えられているため、
文明から明応年間(15世紀末)の生まれと推定されます。
【松平清康に仕える】
三河国の戦国大名である
松平清康に仕えていました。
鳥居忠吉以前の当主が
松平氏に仕えていた事が
確認できないため、
松平清康が岡崎城に進出したのを
機に仕えた「岡崎譜代」と呼ばれる
家臣層であったと推定されています。
【今川氏の管理下になった岡崎城】
松平宗家は、松平清康の死後は
分家の桜井松平家当主である
松平信定に対抗できないほど弱体化し、
駿河国の名門・今川氏の傘下に入って
命脈を保っていました。
ところが、天文18年(1549年)に
松平清康の子で主君の
松平広忠が死去したため、
その後は新たな幼主・竹千代(後の徳川家康)
の身柄が駿府に預けられ、
岡崎城は今川氏の管理下に置かれたのでした。
【鳥居忠吉と阿部定吉らが岡崎を支える】
この間、岡崎の治世は今川氏から
派遣された城代による統治よりも、
鳥居忠吉と阿部定吉らとの
実務によって成り立っていました。
けれども、収穫などの富は
今川氏への分配が多く、
松平党は日々の暮らしにも困窮しました。
そんな僅かになった収穫であっても、
徳川家康が帰参するであろう
将来に備えて倹約・蓄財に
心血を注いだ事で知られています。
【松平家臣団の一層の結束】
阿部定吉が死去すると
鳥居忠吉の下に、
松平家臣団は一段と結束しました。
貧しさに苦しもうとも、
いざ合戦となると、
命を惜しまぬ戦いぶりを見せつけました。
その忠誠心は後世まで
「三河武士」として名声を高めましたが、
当時の彼らの姿勢や意識は、
徳川家康を想う鳥居忠吉によって
植えつけられたといっても過言ではないのでした。
【若き家康に蓄財を見せる】
永禄3年(1560年)、
桶狭間の戦いでは徳川家康に従軍し、
今川義元の戦死後、
大樹寺(岡崎市)より
岡崎城に入った若き主君である徳川家康に、
今まで蓄えていた財を見せ、
「苦しい中、よくこれだけの蓄えを」
と徳川家康に感謝されたということです。
その後は高齢を理由に岡崎城の留守を守りました。
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【鳥居忠吉の忠義が朝廷にも知られる】
鳥居忠吉が忠義の老臣であることは
朝廷にも知られており、
永禄11年(1569年)11月に
開かれた後奈良天皇の十三回忌に際して
朝廷に献金を行った徳川家康に対して
正親町天皇が賞された際に、
山科言継がその事を特に
鳥居伊賀入道(忠吉)へ
書状にて知らせたことが「言継卿記」
に記されています。
【死去と家督相続】
元亀3年(1572年)に死去しました。
長男の鳥居忠宗は天文16年(1547年)の
渡の戦いで戦死し、
次男の本翁意伯は出家していたため、
三男である鳥居元忠が家督を相続しました。
墓所は、次男の本翁意伯が
住職となっていた愛知県西尾市所在の不退院です。
【蓄財方法は?】
徳川家康への忠臣として
描かれる鳥居忠吉ですが、
苦難の時代に異常なほど
財を蓄えていたのは鳥居忠吉が
「ワタリ(渡り)」
(各地へ物品を買い求め売り捌く商工業者)
だったためではないかと推測されています。
「永禄一揆由来」では
「分際宜き買人」とあり、
「三州一向宗乱記」では
「農商を業とする富裕の者」とあり、
鳥居家はかなりの経済力を持っていた模様です。
鳥居家は三河碧海郡を居としており、
ここは矢作川の水運で栄えた
水陸交通の要衝のため、
船や馬などの経済活動で
かなりの富を蓄えていたと
考えられています。
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