【神指城跡】
神指城(こうざしじょう)は、
福島県会津若松市にあった日本の城です。
【構造形態】
輪郭式平城
【天守構造】
未竣工
【築城主】
上杉景勝
【築城年】
慶長5年(1600年)
【廃城年】
慶長6年(1601年)
【遺構】
本丸遺構
【神指城について】
慶長3年(1598年)正月、
会津へ移封の命を受けた上杉景勝は、
会津盆地の東南隅に位置する
若松城が狭隘であることを患い、
慶長5年(1600年)2月10日より
盆地中央で阿賀川畔の神指ヶ原に
新たな城の建設をはじめたのでした。
惣奉行は直江兼続、
小奉行は小国但馬、甘糟備後、
山田喜右衛門があたっていました。
慶長5年2月10日
(1600年5月1日)から築城を開始しました。
越後、仙道、米沢、会津四郡の人夫
12万人を動員し、
本丸は3月18日より
6月1日まで石塁を築き、
二の丸は5月10日(6月20日)に始まり、
6月1日(7月11日)に
塁や堀の形が備わりましたが、
この城は6月の酷暑のために休工しました。
さらに徳川家康の会津征伐により
6月10日(7月20日)竣工には
至らず、「幻の城」となったのでした。
関ヶ原の戦いの後、
慶長6年(1601年)8月に
上杉景勝は米沢へ移封となり、
完成を待たずして
神指城は破却され、
慶長年間に、
石垣は若松城へ運ばれた模様との事です。
【城の構造】
縄張りを見る限りでは、
この城は軍事目的のみで
築かれたものとは思えないとのことです。
この城は明らかに
阿賀野川の河川交通を意識したもので、
上杉景勝はそこに新たな
経済効果を狙った城下町を
築くつもりであったのではないか
と推測されます。
事実、屋敷城を拡大したような
輪郭式の構造になっていました。
少なくとも徳川家康らを
相手にするような軍事優先的な
構造にはなっておらず、
むしろ上杉景勝は、
新たな領国を運営するにあたり、
若松城に代わる新たな
政治経済の中心地としての
城と城下町を建設しようとしていた
可能性があるとの事です。
本丸と二の丸からなる
「回」字形の輪郭式平城で、
本丸の大きさは、
東西310m、南北340m、
ニノ丸の大きさが、堀跡を含めると、
東西710m、南北780m、
面積55ヘクタールでした。
城の鬼門に位置する
「高瀬のケヤキ」
(現存、国の天然記念物)と
北極星を基点に縄張りしたと伝えられています。
【所在地】
〒965-0086 福島県会津若松市神指町本丸
<神指町のお酒>
創業300年の花春酒造(株)の日本酒です。
長尾城跡(大船)・鎌倉氏系長尾氏発祥の地、南北朝から戦国時代おいて長尾氏は上杉氏の家宰職でした。
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