【伝源経基屋敷跡】
伝源経基館跡
(でんみなもとのつねもとやかたあと)は、
埼玉県鴻巣市に築かれていた武家館です。
通称は城山で箕田城、
大間城と呼ばれる事もあるとのことです。
平安時代中期に源経基が武蔵介として
坂東に赴いた時に館としたと伝えられています。
埼玉県指定史跡となっています。
昭和16年(1941年)3月31日指定。
【別名】
城山、箕田城、大間城
【城郭構造】
平城
【天守構造】
なし
【築城主】
源経基?
【築城年】
平安時代?
【主な改修者】
不明
【遺構】
土塁・空堀の一部
【指定文化財】
埼玉県指定文化財
【館跡について】
鴻巣市大間の、
荒川左岸の微高台地に築かれていた山城の跡です。
東西約95m、南北約85m、
高さは東側が高く約22mの城郭跡となっています。
西側を除く三方に土塁と空堀をめぐらし、
西側は荒川の湿地帯として
当時は城郭の際まで水があったと考えられています。
現在は、大半が山林となっておりますが、
土塁や空堀のほか、
物見台跡などの遺構が残っています。
【発掘調査】
昭和62年(1987年)及び、
1995年から1996年(平成7、8年)に
発掘調査が行われ、
平成9年以降も調査はを続行されました。
それらによって掘立柱建物跡の一部が
発見されましたが、
造られた時期を示す出土品は発見されず、
平安時代の源経基館跡とするには
問題が多く確定するには至ってはいません。
【年代の特定】
最終的な城造りとしては、
防衛重視に造られており
室町時代から戦国期にかけての、
もっと規模の大きな城の一部であるとの
説も出ていますが、
周辺からはそのような事を示す
遺跡は現在の処、
発見されてはいないとのことです。
平成6年8月に土地の所有者から
史跡公園として保存することを条件に
9割近くが市に寄贈されました。
保存状態は良く、
今後の史跡整備事業と
発掘調査が望まれています。
【歴史】
この城跡(館跡)がいつ頃から
伝源経基館跡と呼ばれるようになったのかは
現在のところは不明ですが、
江戸時代に作られた「新編武蔵風土記稿」
(巻150足立郡之十六・大間村)
による所が大きいと云われています。
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【狹服山の所在地は?】
「将門記」では、
足立郡司判官代の武蔵武芝と争った時に
「源経基が妻子を連れ比企郡狹服山
(ひきぐんさふくやま・さやきやま)に登っている」
との記述があり、
これを元にここが源経基館跡であると
考えられたとのことです。
狹服山の所在地は古くから議論されてきました。
比企郡は誤りで入間郡狭山であるとか、
比企郡松山あたりだとか、
あるいは大里郡三尻村少間山(さやまやま)
などといくつか推測されましたが、
現在に至るまで確定はされてはいません。
【所在地】
〒365-0054 埼玉県鴻巣市大間942
埼玉県立鴻巣高校グランド南側に隣接しています。
鴻巣市街地から続く台地の西端に位置しています。
【交通アクセス】
JR高崎線「鴻巣」駅から西に
900mほどの所、徒歩15分程度です。
【駐車スペース】
下の写真付近に車1台分の停車スペースがあります。
【源経基】
源 経基(みなもと の つねもと、源 經基)は、
平安時代中期の皇族及び武将でした。
経基流清和源氏の初代となります。
「保元物語」によりますと、
父は清和天皇の第6皇子の貞純親王で、
母は右大臣・源能有の娘でした。
皇族に籍していたとき
「六孫王」と名乗ったとされていますが、
当時の文献には見られないとのことです。
居館は六宮とも八条御所とも云われています。
【時代】
平安時代中期
【生誕】
未詳
【死没】
応和元年11月10日
(961年12月25日)?
【改名】
経基王?(皇族時代)⇒ 源 経基(臣籍降下後)
【別名】
六孫王
【神号】
六孫王大権現
【墓所】
京都府京都市南区 六孫王神社
【官位】
武蔵介、正四位上、
鎮守府将軍、贈正一位
【氏族】
源氏(清和源氏)
【父】
貞純親王
【母】
源柄子(源能有の娘)
【兄弟】
経基、経生
【妻】
橘繁古女もしくは藤原敏有女
【子】
満仲、満政、満季、満実、
満快、満生、満重、満頼
【特記】
経基流清和源氏の初代。
【源経基の生涯】
太政大臣・藤原忠平の治世下の承平8年(938年)、
武蔵介として現地に赴任しました。
同じく赴任した武蔵権守である興世王と共に
赴任早々に検注を実施します。
なお、当時の「検注」とは、
国司がその任地の有力者から
受け取る莫大な貢物・賄賂が目当である事が多く、
源経基らも正任の国司が赴任する前に
自らの赴任直後に行っている事を見ても、
それが目的であったと見られています。
そのような目的であったために
在地の豪族である足立郡司で
判代官の武蔵武芝が
正任国司の赴任以前には
検注が行われない慣例になっていたことから
検注を拒否したために、
源経基らは兵を繰り出して
武蔵武芝の郡家を襲い、
略奪を行ったのでした。
「箸ノ如キノ主ハ、眼ヲ合ハセテ、骨ヲ破リ膏ヲ出スノ計ヲ成ス。」
と興世王と源経基それぞれを
一対の「箸」に例えてその横暴振りを
表現している史料があるとのことです。
(ワルだのう)
この話を聞きつけた下総国の平将門が
私兵を引き連れて武蔵武芝の許を訪れると、
源経基らは妻子を伴い、
武装して比企郡の狭服山へ立て籠もりました。
その後、興世王は山を降りて
武蔵国府にて平将門、武蔵武芝らを引見しましたが、
源経基は不服であるとして
なお山に留まったのでした。
府中では双方の和解が成立して
酒宴が行われていましたが、
その最中に武芝の兵が勝手に
源経基の営所を包囲したのでした。
源経基は平将門らに殺害されるものと思い込み、
あわてて京へ逃げ帰ったのでした。
その様子として
「介経基ハ未ダ兵ノ道ニ練レズ。
驚キ愕イデ分散ス」という記述があります。
後に武門の棟梁となる
清和源氏の初代の源経基は
軍事の経験が浅くまだ武士とは
言えない体たらくだったのでした。
(だが、貢物・賄賂・略奪は当時から・・ですな)
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そして(自分の事は棚に上げて)
平将門・興世王・武藤武芝が
謀反を共謀していると朝廷に誣告したのでした。
けれども平将門らが承平9年(939年)5月2日付で
常陸・下総・下野・武蔵・上野5カ国の
国府の「謀反は事実無根」との証明書を
藤原忠平へ送ると、
平将門らの申し開きが認められ、
逆に源経基は讒言の罪によって
左衛門府に拘禁されたのでした。
(自業自得だね・・)
しかしながら天慶2年(939年)11月、
平将門が常陸国府を占領し、
その後も次々と国府を襲撃や占領するなど、
同年12月に上野国府にて「新皇」を僭称して
勝手に坂東諸国の除目を行うと、
以前の誣告が現実となった事によって
源経基は晴れて放免されるばかりか、
それを功と見なされて
従五位下に叙せられたのでした。
なお天慶3年正月9日に叙せられており、
平将門追討後に
平貞盛・藤原秀郷らと共に
行賞されたのではないとのことです。
その後、征東大将軍・藤原忠文の
副将の一人に任ぜられ、
平将門の反乱の平定に向かいましたが、
既に平将門が追討された事を知り帰京します。
天慶4年(941年)に追捕凶賊使となり、
小野好古とともに
藤原純友の乱の平定に向かいましたが、
ここでも既に小野好古によって
乱は鎮圧されており、
藤原純友の家来である
桑原生行を捕らえるにとどまったのでした。
武蔵・信濃・筑前・但馬・伊予の国司を歴任し、
最終的には鎮守府将軍にまで上り詰めたのでした。
晩年、臣籍降下を命じられたことに
憤慨していたということですが、
同時代の藤原忠平の日記である
「貞信公記」の天慶2年(939年)3月3日付に
「源経基、武蔵の事を告げ言う。」
と記されているのもあり、
源経基が果たして
皇族であった時期があったかどうか
疑問視もされています。
ただしこの記述については、
藤原忠平の子である
藤原実頼が抄録した際に
源姓を書き入れたとする説もあるとのことです。
勅撰歌人であり、
「拾遺和歌集」に2首が採録されています。
嫡子の源満仲が建立したという
六孫王神社(京都府京都市南区)に祀られています。
【清和源氏】
清和源氏(せいわげんじ)は、
第56代清和天皇の皇子である
諸王を祖とする源氏氏族です。
源氏には祖とする天皇別に
21の流派(源氏二十一流)があり、
清和源氏はそのうちの一つで
清和天皇から分かれた氏族です。
清和天皇の皇子のうち4人、
孫の王のうち12人が
臣籍降下して源氏を称しました。
中でも第六皇子である
貞純親王の子の
経基王(源経基)の子孫が
著しく繁栄しました。
【源満仲】
中級貴族であった源経基の子である
源満仲(多田満仲)は、
藤原北家の摂関政治の確立に
協力して中央における
武門としての地位を築き、
摂津国川辺郡多田の地に武士団を形成しました。
【源満仲の子供たち】
そして彼の子である
源頼光、
源頼親、
源頼信らも父である源満仲と同様に
藤原摂関家に仕えて勢力を拡大しました。
【河内源氏】
のちに主流となる頼信流の河内源氏が
東国の武士団を支配下に置いて台頭し、
源頼朝の代に武門の棟梁として
鎌倉幕府を開き、武家政権を確立しました。
その後の子孫は、嫡流が源氏将軍や
足利将軍家として武家政権を主宰したほか、
一門からも守護大名や国人が出ました。
また一部は公卿となり、
堂上家として竹内家が出ました。
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【武士団の形成】
源経基の名跡を継いだ源満仲は
藤原摂関家に仕えて各地の受領を歴任。
摂津国川辺郡多田(現 兵庫県川西市多田)
を本拠地として源氏武士団を形成しました。
【源頼光⇒摂津源氏】
酒呑童子退治などで有名な源満仲の
長男である源頼光も摂津国に
拠点を置いたことから、
摂津源氏と呼ばれる武士団を形成しました。
その摂津源氏の中でも
本拠である多田を継承した
嫡流である源頼綱(源頼光の孫)の系統を
多田源氏といいます。
【美濃源氏】
源頼光の嫡男である源頼国の六男で
後に摂津源氏を継いだ五兄である源頼綱の
養子となった源国房が祖となるのが美濃源氏です。
その子孫として、土岐氏、明智氏、平瀬氏がいます。
【源頼親⇒大和源氏】
源満仲の次男である源頼親の系統は
大和国宇野(現奈良県)を
本拠地としたことから
大和源氏と呼ばれる武士団形成しました。
【源頼信⇒河内源氏】
源満仲の三男である源頼信の系統は
河内国壷井(現大阪府羽曳野市壷井)
を本拠としたことから
河内源氏と呼ばれる武士団を形成しました。
河内源氏は、やがて源頼信が平忠常の乱を、
次いで源頼義・源義家が前九年の役、
源義家が後三年の役を平定し、
東国武士を結集して、
いわゆる「武家の棟梁」
と称される地位を確立していくのです。
しかしながらその興隆が
院や貴族に脅威を与え、
やがて失墜させられていくのです。
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