織田家

佐藤忠能・佐藤忠康父子と娘の八重緑と加治田城攻防~織田信長の東美濃攻略~琵琶湖・百足退治も

佐藤忠能



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佐藤忠能

佐藤忠能(さとう ただよし、
生年不詳⇒ 天正6年3月29日(1578年5月5日))は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
三省、紀伊守で加治田城城主です。
父は佐藤清房、母は徳林妙福大姉、兄弟に秀清がいます。
子に佐藤忠康(信氏)、昌信、斎藤利治室、佐藤継成室、
仁甫竜義大姉、岸信周養女(八重緑)。
養子に斎藤利治がいます。
なお、初め桑原右近衛門尉と称していましたが、
永禄8年(1565年)までの間に
佐藤姓に改めたという説もあります。
(ただし、桑原右近衛門尉を忠能の子・忠康と見たり、
無関係と見たりする説もあるとのことです)。

【生い立ち】
美濃国の国人で、
藤原秀郷の流れを汲む家系と伝わっています。
「美濃佐藤氏」として系譜にも表記されています。
土岐氏に仕えたのち、
美濃斎藤氏に仕え、斎藤道三側として
土岐頼芸の追放に加わりますが、
弘治2年(1556年)の斎藤道三に、
子である斎藤義龍が反乱を起こした
長良川の戦いでは義龍方として従軍しました。

その戦功により感状をもらい、
西田原(400貫)・神野(300貫)の他、
加茂郡・武儀郡で4389貫の所領を得たと
伝わっています(黄薇古簡集)。

織田信長の東美濃攻略に内通す】
斎藤龍興の代になると、尾張国の織田信長の侵攻に備えるため、
関城主・長井道利、堂洞城主・岸信周の三者で盟約を結びます。
けれども、佐藤忠能と嫡男である佐藤忠康父子は
家臣の梅村良澤を遣わして、織田信長に内通します。
織田信長から武儀郡・加茂郡・郡上郡の反銭を押さえ、
その土地を手に入れ次第知行してよいという褒賞を得たとのことです。

その後、西美濃三人衆が信長に寝返るという風聞が伝わると、
岸信周らに去就を問われ、
織田信長への内通を悟られぬために娘(八重縁(やえりょく)と伝わる)を
岸信周の子・岸信友に嫁がせたとのことです。




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【内通の代償は娘の命】
永禄8年(1565年)8月、
織田信長が美濃国に侵攻すると密約通り織田側に与し、
そのために岸信友に嫁がせた八重緑(やえりょく)は磔にされてしまい、
加治田城に面した長尾丸山に晒されたと伝わります。
八重緑(やえりょく)の遺体は夜になって家臣・西村治郎兵衛が奪取し
其の後、龍福寺に埋葬されたと伝わっています。

【娘の敵・堂洞城陥落】
長井道利は肥田忠政共に
織田方に寝返った加治田城を奪取しようと、
加治田から25町先の堂洞城の岸信周と共に出陣し、
自らは関城で後詰をしましたた。
これに対し、8月28日、
織田軍も堂洞城に攻撃を開始します。
佐藤忠能・佐藤忠康父子は織田軍側で堂洞城攻撃に加わり、
6時間もの攻防の末、堂洞城は陥落(堂洞合戦)しました。
その日、織田信長は佐藤忠康の在所に宿泊し、
佐藤忠能・佐藤忠康父子は感涙を流したと
伝わっているとの事です。

【嫡男・忠康死す】
堂洞城落城後、長井道利が東から、
飛騨忠政が西から東西より加治田城へ攻め寄せてきました
(関・加治田合戦)。
加治田絹丸捨堀において激しい攻防戦となり、
織田方の斎藤利治の援軍も得て、
加治田勢は奮闘し長井勢を追い払いました。
東北では、佐藤忠能が自ら
川浦川天然の堀で肥田忠政と激戦を行い、
佐藤忠能自ら5度合戦に挑み、
肥田忠政を撃退しました。

加治田城西大手口絹丸は、
佐藤忠康と織田方からの援軍として
斎藤利治が守備していました。
そこで激戦となる中、佐藤忠康は騎乗し、
縦横に駆け回って指揮をとりましたが、
敵の矢を受け落馬して討死したとのことです。

【後継者は佐藤利治】
永禄10年(1567年)、
織田信長の命で斎藤利治を養子として加治田城を任せ、
自らは隣村の伊深村に隠居し、
加治田に菩提寺の龍福寺を建立しました。
同寺には佐藤忠能が花押署名した文書6点が遺されているそうです。

【佐藤忠康の死についての諸説】
なお、この佐藤忠能から斎藤利治への家督相続については、
「三十一祖御修行記」の記述によりますと、
永禄8年(1565年)から同10年(1567年)の間に
佐藤忠康と弟・佐藤昌信の間で争いが置き、
佐藤昌信が兄である佐藤忠康を殺して加治田城を奪ったものの、
稲葉山城攻撃の直前だったため、
織田信長の勘気に触れて佐藤忠能は引退し、
佐藤昌信は武芸八幡に移封またはお預けとなり、
子孫はこの不名誉を佐藤忠康が戦死したことにして
隠蔽したという説があるとのことです。




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【斎藤義龍の壺】
永禄12年(1569年)7月、
山科言継(やましなときつぐ・公卿)が
岐阜に滞在した際、交遊を持っています。
「言継卿記」によりますと、
織田信長が、
斎藤義龍の持っていた壺を差し出せと迫ります。
この壺を紛失したとあっては
佐藤忠能を含む17人もの国衆が
切腹しなければならなくなったが、
無事解決したと云い伝えられています。

天正6年3月29日(1578年5月5日)に病死。
龍福寺に埋葬されたとのことです。
戒名は真珠院殿慶岩竜雲居士。

【人物像】
美濃斎藤氏においても有力国人衆でした。
のちに、織田家においても斎藤利治を
佐藤忠能の娘である正室院の養子とした後も老臣の宿老でした。
絵画では、漉酒巾の頭巾をかぶり、左手に経巻をもち、
右手に如意をもっており、
常に平時から正装・合戦時まで頭巾をかぶっていたと伝わっています。
隠居後も京都の公卿と交遊があり、
社交性と人脈の広さがあったとされています。

【加治田城】

加治田城(かじたじょう)は、
美濃国(現在の岐阜県加茂郡富加町加治田)にあった日本の城。
別名、却敵城(きゃくてきじょう)・加治田山城とも称されています。
また、山の名前としては、加治田山や古城山と呼ばれていました。
関城・堂洞城と並んで中農三城と呼ばれています。
一度も落城することがないことから
却敵城(きゃくてきじょう)と称されました。
山頂のからの眺めも大変よく、天候が良ければ
名古屋駅まで見渡せるそうです。

【所在地】
〒501-3392 岐阜県加茂郡富加町加治田

【電話番号】
富加町郷土資料館 :0574-54-1443
富加町教育委員会 文化財係:0574-54-2177

【交通アクセス】
東海環状自動車道富加関ICより車で20分程。

長良川鉄道「富加」駅から徒歩50~60分程度。

<駐車場>
清水寺(せいすいじ)(無料)
所在地⇒岐阜県加茂郡富加町加治田985
その下にある
●清水谷川公園(きよみずたにかわこうえん)
所在地⇒岐阜県加茂郡富加町加治田883~885
清水寺の前にある公園。
清水寺の沿道に沿って整備された公園で、
水辺に親しみ、桜、ツツジ、紫陽花などの花に親しめる名所として、
また秋には清水寺二天門付近のもみじの紅葉がすてきな公園です。
秋には紅葉、梅雨にはあじさいなどでにぎわう公園です。

駐車スペース7台分と公衆トイレがあるそうです。
清水寺の駐車場はおそらくは、
清水谷川公園(きよみずたにかわこうえん)
の駐車場だと思われます。

<地図・清水谷川公園付近>

【公式サイト】
加治田城と堂洞城

富加町郷土資料館
【資料館の所在地】
〒501-3302 富加町岐阜県加茂郡富加町夕田212
【開館日・時間】
【開館時間】
午前9時~午後4時
【休館日】
月曜日
【入館料】
無料

登城の際には郷土資料館にて
「富加町堂洞城・加治田城位置関係地図」を入手されると良いそうです。

<郷土資料館の位置>

【歴史】
築城は佐藤忠能・佐藤忠康父子と伝わっています。
佐藤忠康が戦死したのちは、
織田信長の命により斎藤道三の末子で
佐藤忠能の娘婿であり、
養子となった斎藤利治が城主となりました。
天正10年(1582年)6月2日、
本能寺の変において斎藤利治が明智光秀の家臣であり、
美濃斎藤氏の同じ一族であり、義兄でもある斎藤利三に討たれます。
其の後、斎藤道三の末子であり、
斎藤義龍の弟である斎藤利堯が跡を継ぎ
織田信孝の家老となります。
しかし、同年7月には東美濃での勢力拡大を狙う
守可成の子である森長可との間で
加治田・兼山合戦が起こり、奮闘し城を死守します。
けれども、その後(1582年~1583年)、
斎藤利堯の城主としての活動が見えなくなり、
その所領は森氏が統合しました。




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その後、東美濃全域並びに
中濃の一部にまで版図を拡大した森氏は、
領内に多すぎる城の保全の煩雑さを考慮し
加治田城を廃城にしました。
廃城後、城下町は宿場町として昭和初期まで栄えたとのことです。

【遺構】
曲輪・石塁・横堀・堅堀・虎口

【城の現在の様子】
一の丸、二の丸、三の丸、四の丸まであり、
石積み(石垣)、土塁、竪堀、横掘、切岸、虎口が残っているそうです。
城域が梨割山から津保川、川浦川辺りまでありました
(衣丸や捨掘、馬場、出丸、御殿、武家屋敷も含む)。

東公民館辺りが城主屋敷跡なんだそうです。
絹丸(衣丸)の神社の横道より山に登る道があり、
上まで行くと見晴らしがいい岩があるとのことです。
当時は、そこまで馬車で兵糧米を運び、
そこから城へ人間が担いで運んでいたとのことです。
岩は狼煙台としても使われていたとのことです。
三徳岩は今でもあり、
旗を立てていた穴が空いているのが確認できたそうです。

東海環状自動車道で通過するトンネルの真上が加治田城跡になり、
向側のトンネルは長尾丸山(堂洞城長尾丸)の真下を通り、
そこは佐藤忠能の娘である八重緑が串刺しにされた場所だったそうです。
富加町役場東児童館(旧わかくさ保育園)の真北であり、
現在もそのままの状態(保存)にされている、とのことです。

【城郭・遺構】
【主郭・天守・本丸】
古城山頂に分布し、一の曲輪・二の曲輪・三の曲輪・四の曲輪があり、
大手曲輪、横堀、堅堀、堀切、土塁見張台が加治田山の峰や尾根に続きます。
主要な主郭曲輪入口や難所には虎口がありました。
本丸には、物見櫓、見張櫓、隅櫓、主郭の住居(天守)があり、
織田信長の中濃侵攻戦時は、櫓(二重櫓)があったそうです。
加治田城最大規模改築(加治田・兼山合戦)においては
三重櫓以上となっていたと伝わります。
主郭と虎口の施設には今でも石垣や石積み、岩跡が残っています。
本丸には加治田城の表示があるそうです。

【東櫓・西櫓】
東の小山(天神山)には、
堅固な櫓で三徳櫓、西の小山(元加治田小学校裏山)に砦がありました。
(東は家老長沼三徳、西は古参の西村治郎兵衛が守備)。
三徳櫓には、旗を立てる大岩(三徳岩)があります。
この砦は加治田城御殿屋敷を囲むように位置し、
加治田城山頂本丸へつづく道を挟んでいます。
(こちらが本来の登山道であり、
登るのが困難なジグザグの本城登山道となっており、
今も整備されており途中、
厳しいところには登山用ロープが用意されており、
登山用ロープで登ることが可能。)
【御殿屋敷・家臣団屋敷・龍福寺】
上之屋敷とも言い、城主の居館伝承地があります。
東公民館(旧加治田村小学校、加治田村役場跡)が跡地となっており、
公園があり、山沿いへ西に行くと、
菩提寺「龍福寺」があります。
この山縁の場に家臣団屋敷があったそうです。

【衣丸(出丸)】
川浦川にある絹丸橋の北、加治田山麓の絹丸神社の南にあり、
捨堀に囲まれ柵が二重三重であり、
櫓や家臣の石垣でつくられた屋敷もありました。
街道が加治田村(絹丸村)の東で飛騨路として
加治田の出入口、西は関市、岐阜方面、北は加治田山を登り、
武儀郡、郡上八幡、敦賀方面、南は勝山から木曽川を下り、
伊勢神宮への街道が衣丸にて分かれており、
重要な曲輪だったそうです。
(関・加治田合戦においても長井道利勢を衣丸で防ぎ切り、
加治田城下町や本城への侵入を防いでいることや、
湯浅新六等、主要な将を配置していました)。




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【馬場】
街並の南裏・川裏側の北に、駅馬があり、駅家郷がありました。

【木戸外】
加治田城下町西のはずれで、付近は駅の出入口の柵がありました。

【米取場・狼煙台・見張台】
衣丸より、北街道の絹丸神社の横道を行くと
山途中に大きな岩山がそびえたちます。
その岩山が米取場(米置場)として使用され、
そこまでは馬車で運び、米取場からは、
本城まで人が担いで城まで運んでいました。
岩山は景観がよく、
狼煙台・見張台や砦としても使用されていたそうです。
北の津保川と南の衣丸から同じ距離になり、
東の本城へ続く道もあり、重要視されていました。

【東清水口】
白華山清水寺の入口砦で、
南は川浦川、大洞川があり、
入口は狭く侵入が難しい場所です。
白華山清水寺より加治田城本丸への道がつづいていますが、
本丸の周りを回りながら登城しなければならないそうです。

【清水滝口】
白華山清水寺の裏手の砦であり、滝がながれています。
川口が深く道が狭い場所で守りやすく攻めにくいそうです。

【郷が洞】
絹丸神社裏頂上山に位置し砦がありました。

【鳥帽子岩・霊雅山】
龍福寺の北、西の頂上の山です。
ここにも砦がありました。

【小屋洞・田洞・石拾い】
加治田衆の武将と農民・町民の領民が組織した
部隊が集まる砦がありました。

【北の難所】
北は津保川が流れている麓から
梨割山頂上までは急斜面の崖で岩肌が多く、
登るのは至難の場所でした。
唯一、衣丸から加治田山の米取場を通り、
武儀郡へ出る道が西にありますが、
北の入口は津保川が流れており、
入口は砦があり急で狭く侵入が難しいそうです。
また、山の丘の登り降る傾斜が多く難を極めたそうです。

【梨割山山頂】
北の難所の頂上で加治田城本丸より奥にあります。
加治田城下町より中大手道から城主の中腹屋敷を通り、
西大手道⇒西見張台⇒堀切から東が本丸への道と大手門があり、
北へ搦手曲輪⇒搦手道⇒梨割山山頂へと続いていました。
山頂はひらけており、北側の景観を一望できるそうです。
また、麓の城下町は見えませんが、かつては
南方の遠くまで見渡せる場所で見張台、狼煙台、砦があったそうです。

【登山道】
山麓にある清水谷川公園より、
登山道が整備されているそうです。
車は清水谷川公園に駐車できるそうです。




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【その他の登山道】
白華山清水寺より北川の上り路もしくは、
寺院内の北側より、
加治田城本丸のまわりを周り迂回しながらの登山。
絹丸神社の真横の街道より
岩場がそびえ立つ旧米取場を通り、
梨割山山頂をぬけ、
加治田山の加治田城本城への山道。
絹丸神社内の東側にも山道があり、
山の神の石碑の横を通り、
岩場である米取場を通る道もあるそうです。
北の難所の加治田川小牧地区より、本城への道もある。
正式の旧本城登山道は、
加治田東公民館の公園のさらに横の道より、
本城への道があり整備されていますが、
途中難攻不落の由縁でもある難所があり、
急な場所にはロープを利用して登る必要があるとのことです。
加治田龍福寺より、
本城へ上る道もあるがとても険しく、
登山用の準備が必要とのことです。
加治田北東の大洞川源泉地域よりからも
登山できる旧道があるそうです。

【祖・藤原秀郷】

藤原 秀郷(ふじわらのひでさと)は、
平安時代中期の貴族、豪族、武将。
別名として、俵藤太(田原藤太)、
読みは「たわらのとうだ」・「たわらのとうた」。
藤太は藤原氏の長、太郎」の意味)
がありますが、これは後世であり、
藤原秀郷の同時代史料には、
田原藤太の名乗りは見受けられません。
歴史的に有名なのは平将門の討伐です。
平将門討伐の後は、史料にほとんど名前が見られなくなり、
没年も不詳です。
けれども、源氏・平氏と並ぶ武家の棟梁とし
て多くの家系を輩出しています。

百足退治伝説
室町時代に「俵藤太絵巻」が完成し、
近江三上山の百足退治の伝説で有名となっています。

琵琶湖のそばにある
近江国瀬田の唐橋に大蛇が横たわり、
人々は怖れて橋を渡ることができませんでした。
すると、そこを通りかかった俵藤太は
臆することなく大蛇を踏みつけて渡ってしまいました。
大蛇は人に姿を変え、
一族が三上山の百足に苦しめられていると訴え、
俵藤太を見込んで百足退治を懇願しました。
俵藤太は強弓をつがえて射掛けましたが、
一の矢、二の矢は跳ね返されて通用せず、
三本目の矢に唾をつけて射ると効を奏し、
百足を倒しました。
御礼として、米の尽きることのない俵や
使っても尽きることのない巻絹などの宝物を贈られました。
竜宮にも招かれ、赤銅の釣鐘も追贈され、
これを三井寺(園城寺)に奉納しました、とのことです。

【百足退治伝説の初出】
俵藤太の百足退治の説話の初出は、
実は「太平記」十五巻といわれています。
けれども「俵藤太物語」の古絵巻のほうが
早期に成立した可能性もあるという見方もあります。
やがて御伽草子系の絵巻や版本所収の「俵藤太物語」に伝わり、
説話はさらに広まったとのことです。




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【太平記との差異】
【大蛇】
<御伽草子>
琵琶湖に通じる竜宮に棲む者で、女性の姿に化身
<太平記>
大蛇は小男の姿で登場し、早々に藤太を竜宮に連れていき、
そこで百足が出現すると藤太が退治する展開。
【百足の棲み処】
<御伽草子>
三上山
<太平記>
比良山

【宝刀】
伊勢神宮には、藤原秀郷が所有したと伝わる
刀剣が二振り奉納されているそうです。
ひとつは百足退治に際して
龍神から送られたという伝来のある毛抜形太刀 (伊勢)。
これは、赤堀家重代の宝刀だったものが
複数の手を渡り伊勢に所蔵されることになったと
説明されているそうです。
もうひとつは「蜈蚣切」(蜈蚣切丸とも)の名で、
8世紀の刀工、神息の作と伝わりますが、
鑑定の結果は14世紀頃の刀剣とされているそうです。
このほか滋賀県竹生島にも藤原秀郷奉納と伝わる
毛抜形太刀 (宝厳寺)が存在しているそうです。

斎藤道三~晩年の足跡~鷺山城址・道三塚・常在寺、そして斎藤義龍

土岐頼武・土岐頼純VS土岐頼芸~美濃守護土岐氏~度重なる家督争いで衰退し、斎藤道三に乗っ取られる!

岸信周・岸信房父子~中濃衆~妻も勇猛で往年の女武将の如く・堂洞城を枕に壮絶に散る

長井道利~中濃衆~義龍に父との決別を促し明智を滅ぼす・出目も最期もナゾ残す人物

稲葉良通~稲葉一鉄・頑固一徹の語源である西美濃三人衆~多才な人物で信長に好かれる

氏家直元(氏家卜全)~西美濃三人衆~美濃国人衆の中で最大の勢力、次男は家康に惜しまれながらも大坂夏の陣で果てる

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