織田家

崇福寺~岐阜城の麓~織田信長・織田信忠の霊廟があるところ、稲葉一鉄の修業の寺

崇福寺・織田信長肖像画



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崇福寺

崇福寺(そうふくじ)は、
岐阜県岐阜市にある臨済宗妙心寺派の寺院です。
山号は神護山です。
織田信長及び有栖川宮家ゆかりの寺院となっています。
本尊は延命地蔵菩薩、聖観音。
美濃三十三観音霊場第十五札所。
崇福寺(岐阜)

【所在地】
岐阜市長良福光2403-1

【電話】
058-231-2613

【FAX】
058ー232-1320

【拝観受付時間】
3月~10月:午前9時から午後5時
11月~2月:午前9時~午後4時30分
【拝観できない日】
1月1日、1月2日、5月7日、
8月1日、8月5日、12月31日
及び行事開催日

【拝観料】
大人:200円 
小人:150円
団体(20名以上) 大人150円・小人100円
※各種障害者手帳を提示すると、
拝観料(本人のみ)50円引きになります。
なお、介護者は届け出があれば50円引きになります。
※※毎年10月第一土曜日の
ぎふ信長まつりの日に「織田信長公追悼式」が営まれ、
まつりの2日間は無料開放されます。

【駐車場】
有り バス2台、乗用車12台

【トイレ】
梵鐘の裏手に男女別の綺麗なトイレがあります。

【交通アクセス】
JR岐阜駅(11番乗り場)
または名鉄岐阜駅(4番乗り場)から
市内ループ左回りバス乗車。
「長良川国際会議場北口」下車 徒歩3分
料金:片道210円
運行間隔:約15分毎 所要時間:18分




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<場所>
青印は駐車場付近。

【由緒】
【1】
1511年(永正8年)に斉藤利匡に創建されました。
開山は独秀乾才禅師とのことです。
その前身は、大寿山崇福寺といい、
明徳元年(1390年)に
土岐満康によって創建されたとの事です。
長禄3年(1459年)に福光郷に、
大寿山崇福寺があったことが判明しているそうです。
但し場所が特定できないとの事です。
尚、土岐氏の縁の山県市大桑市洞に
崇福寺洞という地名が残っているそうです、

<斉藤利匡一族の墓>
齋藤利匡一族の墓

【2】
別の説としては、1469年(文明元年)に、
土岐成頼と斎藤長弘が建立し、
1493年(明応2年)に開山したとも伝わっています。

【織田信長と崇福寺】
織田信長が斎藤道三の孫の斎藤龍興を亡ぼし、
永禄10年(1567年)、
美濃に移ると、ここ崇福寺を菩提所とし、
保護しました。

<禁制書>
崇福寺を菩提所として特別保護をした際の
禁制書です。
花押は「麒麟」です。
織田信長・禁制書

若くして亡くなった
側室の吉乃(織田信忠の母)の菩提所として
江南久昌寺より位牌を移しています。
天正10年(1582年)、
本能寺の変により織田信長と織田信忠が亡くなると、
二人の遺品は側室の小倉お鍋の手で
岐阜城から崇福寺に持ち込まれ、
織田信長・信忠廟所に埋められたということです。
小倉お鍋氏の折り紙古文書に
織田信長親子の位牌所と指定したとの
内容が書かれています。

<庭園>
秋にはドウダンツツジの紅葉が見られます。
崇福寺・本堂前の庭園

<庭園の先の廟所入り口>
崇福寺・廟所入り口

<織田信長・織田信忠廟所>
織田信長・信忠廟所

<織田信長・織田信忠位牌堂>
織田信長・信忠位牌堂

清洲城鯱瓦>
清洲城の鯱瓦

慶長5年(1600年)、
織田秀信(信長公の孫の三法師)は、
石田三成の挙兵に呼応し、
関ヶ原の戦いの前哨戦で岐阜城に立てこもります。
けれども福島正則池田輝政らに攻められて
岐阜城は落城します。
岐阜城が廃城後、織田秀信が、
この戦いで戦死した38名の武将を弔う為に
崇福寺は岐阜城天守の床板を譲り受け、
本堂の天井板に使用したとのことです。
今でも血痕がついております。
尚、織田秀信は数名の家来に伴われて、
円徳寺にて剃髪し、高野山に落ちのびましたが、
高野山で若くして亡くなりました。

関ヶ原の戦いの図>
崇福寺・関ヶ原の戦い図

<血天井・説明>
血天井・説明

<血天井>
崇福寺・血天井

<非情成仏絵巻>
通称「付喪神絵巻」と呼ばれ、
室町時代の作で東寺より譲り受けた絵巻があります。
粗末にされた古道具が恨みを晴らすために
妖怪になったものの、
ついには成仏する姿が描かれているそうです。
非情成仏絵巻・説明

<土岐鷹>
土岐の鷹

江戸時代には朱印地となり保護を受け繁栄しました。
また、有栖川宮の祈願所となりました。
春日局と関係があることから(祖父、甥)、
徳川家光は特に保護をしていたとのことです。
境内の無料エリアには、
春日局の祖父で、小僧時代に
この寺で修業をしていた
稲葉一鉄寄贈の梵鐘があります。




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尚、元和元年(1615年)に改鋳され、
太平洋戦争時には供出した後、
戦後になって再々製されたそうです。

<(元)稲葉一鉄寄贈の梵鐘>
稲葉一鉄寄贈の梵鐘

<関白・一條兼良卿寄贈の中門及び土塀>
崇福寺・寄贈の土塀

<中門>
崇福寺・寄贈の中門

「心頭を滅却すれば火も自ずから凉し」
と言ったことで有名な快川紹喜
住職を努めたこともある由緒あるお寺です。
堂内には貴重な資料が展示されており、
写真撮影が可能です。

【有栖川宮家】
有栖川宮家初代の好仁親王が、
京都にいた崇福寺六世一宙東黙から
教えを受けていたそうです。
寛永15年(1638年)に、
親王が他界すると、
崇福寺にご位牌が安置されました。
後に、八代熾仁親王の代に
再び祈願所となったそうです。
尚、崇福寺六世一宙東黙は
稲葉一鉄の甥にあたり、
七世慶甫玄賀は
春日局の甥にあたるそうです。

<無料エリアの庭園>
崇福寺・庭園(無料)

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