城跡

坂部城~久松氏の居城で家康が生母である於大の方と感動の再会を果たした城となります。

坂部城址(久松家)



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【坂部城】

坂部城(さかべじょう)は、
尾張国知多郡阿久比
(現在の愛知県知多郡阿久比町
大字卯坂字栗之木谷32番地)にあった城です。
現在は阿久比町指定文化財(史跡)
「坂部城跡」として残されています。

坂部城址(久松家) 説明

【城郭構造】
平城

【築城主】
久松定益(久松俊勝の祖父)

【主な城主】
久松氏

【廃城年】
天正5年(1577年)

【遺構】
空堀

【指定文化財】
阿久比町指定史跡

【坂部城の地理地形】
知多半島の北部を
阿久比川が縦断しており、
阿久比川は阿久比谷と呼ばれる
平地を形成しています。
阿久比谷のほぼ中央部である、
西岸の台地上に近世村落として
坂部集落が築かれ、
城山と呼ばれる台地の末端部に、
平城として坂部城が築城されました。
築城主は久松定益であり、
当時は坂部城や
阿久比城(あぐいじょう)と
呼ばれていたとのことです。

【史料にみる坂部城】
坂部城は「張州府誌」「尾張名所図会」
「尾張志」などに記されております。
「尾張志」には「坂部村にあり、
其跡東西四十間南北五十間英比の城ともいふ。
久松佐渡守菅原俊勝の居城なり」
とあるとのことです。
本丸の東側には
武家屋敷が南北二列に
十数軒並んでいたとのことです。

【この地で家康と感動の再会を果たした於大の方
徳川家康の生母である於大の方
天文17年(1547年)に久松俊勝と再婚して、
刈谷城近くの椎の木屋敷から
坂部城に移りました。
於大の方はこの地から
松平(徳川)家康に
手紙などを贈り続けており、
永禄3年(1560年)には
悲運の離別を経験した母子が
坂部城で感動の再会を果たしています。
久松俊勝の長男である久松信俊は
織田信長に「謀反の志あり」と疑われ、
天正5年(1577年)に
大阪・四天王寺で自殺しました。
坂部城は同時に織田信長の家臣である
佐久間信盛の手勢に攻められて落城し、
炎上したとされています。

【現在の坂部城】
かつての城山にはマツの大木が
群生していましたが、
マツクイムシに食われて
枯死してしまったそうです。
昭和58年(1983年)には
隣接地に阿久比町立図書館が
建設されましたが、
建物の一部が空堀にかかることが
判明したため、前年の
昭和57年(1982年)に
坂部城調査団による
発掘調査が行われました。
昭和55年(1980年)刊行の
「日本城郭大系」では
規模は東西72m、南北90mでしたが、
発掘調査の結果では東西36m、
南北54mでした。
城址の西側と南側は
空堀がよく残存しているとのことです。

昭和63年(1988年)7月、
阿久比城跡は
阿久比町指定文化財(史跡)となりました。
1994年時点で阿久比町唯一の史跡でした。
坂部城跡は城山公園として
整備されており、周囲は住宅地となっています。
200m北の洞雲院は
久松家の菩提寺であり、
久松定益や久松俊勝の墓、
於大の方の遺髪墓があるとのことです。

【所在地】
愛知県知多郡阿久比町大字卯坂字栗之木谷32番地

【交通アクセス】
名鉄河和線 坂部駅の西南500m

【駐車スペース】
1~2台分あり。

【久松定益】

久松 定益
(ひさまつ さだます、生年不詳-1510年)は、
室町時代の武将。通称肥前守。
子に久松定義がおり、
さらにその子としてが子に久松俊勝がいます。
久松定光(定氏とも)の子です。
久松定益は大野城主である
佐治氏と不仲であり、
戦が止むことはなかったとのことです。
緊急の折に山に登って
貝を吹きますと、
久松定益の母方の叔父である苅屋吉重、
小川定英らが駆けつけ
これを助けたということです。
永正7年11月19日死去。

【久松氏】

久松氏(ひさまつし)は、
武家・華族だった日本の氏族です。
室町時代には
尾張知多郡阿久居の領主であり、
戦国時代の久松俊勝の代には
初め織田氏に属していましたが
徳川家康の母伝通院を妻としたことで
徳川氏に属するようになり、
その子らは松平姓に改姓しました。
久松俊勝の四男定勝の子孫が最も隆盛し、
その嫡流は江戸時代には
親藩大名伊予松山藩主家、
明治維新後には久松に復姓して
華族の伯爵家に列しました。




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【戦国時代以前】
近世大名の久松松平家
源義家の末裔を称しましたが、
これは松平姓を称することにより、
松平・徳川氏の公称する
清和源氏新田氏流を
冒したことによるものと
考えられています。

【遠祖は菅原道真
系譜類では、久松氏は本姓菅原氏とされ、
遠祖は菅原道真と伝えられています。
それによりますと、菅原道真が大宰府
左遷されたとき、長孫の久松麿(後の雅規)は、
尾張国知多郡阿久居
(現在の愛知県知多郡阿久比町)へ配流され、
この地の人は彼を
久松殿と呼んだとのことです。
のちの南北朝時代に
京都から雅規の後裔が阿久居に下向し、
この地の領主となりました。
そして、室町期に雅規14世孫となる
道定が足利将軍家に仕えて
阿古居の地7千貫を所領として認められ、
先祖久松麿にちなみ
久松氏を称したということです。
飯高郡阿波曽村へ移り、
100年ほど当地にいたとのことです。

久松氏は尾張守護斯波家に
配されたとされ、
室町期の久松氏は
代々斯波氏に属する
知多郡の国人領主でした。

【戦国時代~安土桃山時代】
斯波氏の没落とともに久松氏は
織田氏に従い、織田信秀に属したとされています。
佐渡守俊勝のとき、刈谷城の水野氏から、
松平広忠の元室で、
松平広忠の嫡子・竹千代(後の徳川家康)を
生んだ於大の方(水野忠政の娘)を妻に迎え、
水野氏と敵対する
同じ知多郡の国人領主である
佐治氏と争いましたが、
最終的に水野氏・佐治氏とともに
織田信秀の子の織田信長に属しました。

【久松松平家】
桶狭間の戦いの際、
松平元康(後の徳川家康)は
今川方として出陣しましたが、
密かに織田方の阿久居に赴いて、
母於大の方と、
久松俊勝と於大の間に生まれた
異父弟にあたる3男子と
対面を果たしたのでした。
この時、松平元康は
自らの異父弟である
3人の男子に松平氏と葵紋を授け、
松平家一門に准じたと伝えています。
これを久松松平家(ひさまつまつだいらけ)
と呼びます。




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【庶長子久松信俊】
桶狭間の戦いの後、久松俊勝は
徳川家康に組してその三河統一に参加し、
三河国宝飯郡西郡の
上ノ郷城(現在の愛知県蒲郡市神ノ郷町)
を与えられました。
久松俊勝は妻と
3人の息子を連れて三河に移り、
阿久居は庶長子信俊に譲られました。

【伊予松山藩士】
久松信俊は織田信長の重臣である
佐久間信盛の指揮下に入りましたが、
1577年に佐久間信盛の讒言を受けて
非業の死を遂げ、遺領阿久居も
佐久間信盛に攻め取られたため、
阿久居久松氏は断絶となりました。
なお、久松信俊の後裔は
のちに久松松平家に仕え、
伊予松山藩士となっています。

坂部城址(城山公園)

【江戸時代】
家康異父弟の松平康元(久松俊勝の長男)、
勝俊(久松俊勝の三男)、
定勝(久松俊勝の四男)の3人は、
松平姓を与えられるとともに、
家康の異父弟であるという縁から
それぞれに累進し、
江戸時代にはいずれの家系も大名に列しました。

【松平康元系】
久松松平家の嫡流にあたる松平康元は、
三河国上ノ郷城主を継ぎ、
1590年の徳川氏の関東移封にあたって
下総国関宿城に2万石を与えられました。
関宿藩で。のち4万石に加増となります。
松平康元の子孫は美濃大垣藩5万石を経て、
信濃小諸藩5万石となりましたが、無嗣改易。
その後、下野那須藩1万石を与えられて
無城大名として家名再興しました。
この家は後に伊勢長島藩1万石へ移され、
城主格に栄進しましたが、
元禄15年(1702年)、
忠充の代に改易に処されました。
その後、五男・康郷に旗本として
下総国飯笹6千石が与えられて
家名存続が許され、
明治維新まで続いたのでした。

【松平勝俊系】
松平勝俊(康俊)は、
駿河久能城代になり1586年に没しました。
養嗣子の勝政が8千石の旗本となり、
その子の勝義が下総国多古に
領地に移されて交代寄合となりました。
この家系は1713年の加増で
都合1万2千石になり、
陣屋大名となえりました(多古藩)。
その後に分知により、
1万石の大名として
明治維新を迎えました。

【松平定勝系】
末弟の松平定勝の家系は
久松松平家3系の中では最も隆盛しました。
松平定勝の嫡男定行は
伊予松山藩主家15万石に封じられて
親藩(家門)大名家として
明治維新まで続きました。

松平定勝の三男定綱は
美濃国大垣藩6万石から
伊勢国桑名藩11万石(譜代大名)となり、
子孫は一時、越後高田藩・陸奥白河藩に
移されたこともありますが、
幕末には桑名藩主に戻っていました。
寛政の改革で知られる
老中松平定信は
田安宗武(徳川吉宗の次男)の七男で
この家の養子に入っていた人物です。




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定勝の五男定房も
伊予国今治藩3万石(家門)に
封ぜられ明治維新まで続きました。

【幕末~明治維新】
3藩とも廃藩置県まで存続していますが、
桑名藩主家は幕末の定敬が
鳥羽・伏見の戦いを起こした
暴挙の罪を以て天譴を蒙り官位褫奪のうえ
津藩主藤堂家預かりとなり
藩城は収公されましたが、
養子定教に5万石を減封した
6万石が改めて与えられて
家名存続が許されました。
伊予松山藩主家も
鳥羽・伏見の戦いに際して
朝敵となり、藩領は
官軍の土佐藩軍によって
占領されました。
当主定昭には蟄居が
命ぜられましたが、
所領の減封はなく
前当主勝成に相続が許されて
家名存続しました。
今治藩は官軍に属していたので
特に何の問題もなく明治維新を迎えました。

【明治時代以降】
明治以降、松山藩主家と
今治藩主家と多古藩主家は
松平姓を廃棄して久松姓に戻しました。
桑名藩主家のみ松平姓を名乗り続けました。

大名の久松家はいずれも
明治2年の版籍奉還で
藩知事に就任するとともに
華族に列し、
明治4年の廃藩置県まで
藩知事を務めました。

明治17年(1884年)の
華族令施行で華族が
五爵制になると
松山久松家は旧中藩知事として伯爵家、
今治久松家と多古久松家と
桑名松平家は旧小藩知事として
子爵家に列しました。

最後の多古藩主だった
久松勝慈子爵は明治22年から
明治30年にかけて
多古町の初代町長を務めました。

久松長家(俊勝)~徳川家康の母の再婚相手、水野信元暗殺事件に激怒して隠遁しました。

徳川家康~「麒麟」を連れて戦国時代を終わらせた天下人~その生涯を手短に!

水野信元~徳川家康のかなり頼れる伯父だが、最期は織田信長から殺害命令が下る。

於大の方~徳川家康の生母、戦国の動乱の中を逞しく生き抜いた女性です。

椎の木屋敷~徳川家康の生母である於大の方が松平広忠との離縁後に住んだ屋敷跡です。

上ノ郷城 と鵜殿長照~伯父は今川義元、その子らは築山殿・松平信康・亀姫と身柄交換となった。

久松源三郎勝俊(松平康俊)~徳川家康の異父弟「久松三兄弟」、甲斐から三河へ脱出成功するも代償を払う。

関宿城跡~利根川と江戸川に囲まれた関東の水運の拠点~北条が上杉を制した場所。

白河小峰城(日本100名城)~東北三名城、東北では珍しい総石垣造りのお城です。

南湖公園~「士民共楽」の理念で松平定信によって造園された日本最古の公園で国の史跡・名勝。

緒川城~水野氏五代の居城、徳川家康の生母である於大の方の出生地です。

尾張・大野城~築城は一色氏でその後は佐治氏が4代支配、お江(崇源院)が佐治一成に嫁いできた城です。

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