【清澄寺】
清澄寺(せいちょうじ)は、
千葉県鴨川市清澄にある日蓮宗の大本山です。
山号は千光山です。
日蓮が出家得度および立教開宗した寺とされ、
総本山久遠寺
大本山池上本門寺
大本山誕生寺とともに
日蓮宗四霊場と呼ばれています。
【清澄寺について】
寺の縁起によりますと、
旅の僧(聖僧)が当地を訪れて
虚空蔵菩薩を祀る一寺を建立し、
山岳信仰の霊場となったということです。
僧の素性は不明で、
「不思議法師」と呼ばれたということです。
山頂近くに古い柏の木があり
怪しく千光を発していたことから
山号を千光山とし、
柏の木の下に水の涸れた池があって、
加持すると清泉がたちまちに
沸いたことから寺号を
清澄寺としたということです。
かつては12坊25堂を構える
天台宗の巨刹として栄えていましたが、
元和4年(1618年)には
徳川秀忠の命により
智積院の頼勢が入寺し
真言宗に改宗されました。
この時、朱印500石と
十万石格式が与えられ併せて
独礼寺格も有する事となりました。
また醍醐三宝院門跡の
関東別院に定められ、
十六葉菊紋の使用と
駆け込み罪人の特赦が認められました。
その後昭和24年(1949年)2月16日に
日蓮宗に改宗し、以後大本山として
威容を整えているとのことです。
【地理・地形】
清澄山(きよすみやま)の主峰は
標高377mの妙見山で、
千葉県で3番目に高い山です。
本堂付近の標高は約310mで
境内全域が南房総国定公園に含まれています。
北斜面には暖帯性、
南斜面には亜熱帯性の植物が
自生する植物分布の境界となっています。
また、安房・上総の分水界にもなっており、
養老川や小櫃川は清澄山に源流を有しています。
地質学的には新第三紀に形成され、
泥板岩や砂岩で構成されています。
境内の一部である旭が森は
富士山を除いて本土で一番早く
初日の出が拝める場所(犬吠埼より早い)です。
なお、境内の近隣には
東京大学農学部の演習林があり、
東京帝国大学教授で
日本初の林学博士である本多静六氏は
「造林實習日誌」の中で
「明治神宮造営に関係して
全国の社寺の風致林を見て歩いたが、
そのうえでも特に清澄寺の風致林は
模範的なものであった」
と評しているとのことです。
スポンサーリンク
【歴史上の主な出来事】
<宝亀2年(771年)>
不思議法師が訪れて虚空蔵菩薩を祀り開山。
<承和3年(836年)>
慈覚大師円仁が訪れて再興し、天台宗へ。
<嘉保3年(1096年)>
雷による火災で堂宇が焼失し
国守の源親元が再建。
<嘉禄元年(1225年)>
北条政子が千日講を催し、
宝塔・輪蔵が造立されたほか
大蔵経4000巻余が納経される。
<天福元年(1233年)>
善日麿(後の日蓮)が入山、
名を薬王丸と改める。
<嘉禎3年(1237年)>
道善房を師として薬王丸が出家、
名を是聖房蓮長と改める。
<建長5年(1253年)>
名を蓮長から日蓮へと改め、
旭が森で題目を初唱し
説法会を開く(立教開宗)。
<建治2年(1276年)>
道善房が遷化、
日蓮が『報恩抄』を著し墓前に供える。
<至徳4年(1387年)>
三宝院の弘賢が清澄寺の別當職に就く。
<明徳3年(1392年)>
梵鐘を鋳造する。
<応永31年(1424年)>
石幢を建立する。
<元和4年(1618年)>
智積院の頼勢が
徳川秀忠の命により入寺し、
真言宗に改宗する。
<正保4年(1647年)>
中門を建立する。
<天和2年(1682年)>
本堂(摩尼殿)を建立する。
<享保2年(1717年)>
八事山興正寺開山・
天瑞圓照が虚空蔵菩薩像を奉納する。
<天保8年(1837年)>
中門を改修する。
<文久3年(1863年)>
仁王門を建立する。
<明治13年(1880年)>
観音堂を再興する。
<昭和24年(1949年)>
真言宗智山派清澄寺31世・
岩村義運が末寺45ヶ寺と袂を分かち、
日蓮宗に改宗する。
【日蓮大聖人得度開宗之霊場】
承久4年(1222年)2月16日、
日蓮は安房国長狭郡東条郷
(現・千葉県鴨川市小湊)で
生まれたとされています。
善日麿と名付けられた日蓮は、
12歳になると清澄寺に預けられ薬王丸と改名し
住僧・道善房に師事して16歳で
出家得度し是聖房蓮長の名を
授かったとされています。
スポンサーリンク
本尊の虚空蔵菩薩に
「日本第一の智者となし給へ」
と祈願した日蓮は、
鎌倉・京都・比叡山・高野山・天王寺などへ遊学、
清澄寺に戻った時には32歳と
なっていたとのことです。
建長5年(1253年)4月28日、
清澄寺で帰山報告を兼ねた
説法会を行った日蓮は、
文献を基に浄土宗を批判し
法華経が最も優れた経典と語ったとのことです。
この説法は念仏信者の反発を呼び、
日蓮を捕える動きがありましたが、
師である道善房や兄弟子の
浄顕房や義浄房らの助けによって
日蓮は安房国を脱したとのことです。
後世の伝記によりますとこの日の朝、
日蓮は旭が森に登り、
朝日に向かって
題目「南無妙法蓮華経」
を唱えたとされ、
日蓮宗では4月28日を記念して
立教開宗の日としているとのことです。
また日蓮はこの後、
蓮長から日蓮へと名を改めています。
建治2年(1276年)3月16日、
師である道善房が没しました。
日蓮は「報恩抄」を著し、
弟子を遣わして同書を師の墓前に供え、
深い感謝を捧げたということです。
報恩抄の最後は
「されば花は根にかへり、
真味は土にとどまる。
此の功徳は故道善房の聖霊の御身に
あつまるべし」と結ばれているとのことです。
なお、報恩抄は日蓮の著述の中でも
五大部の1つされる重要な書物であるとのことです。
道善房没後670余年、
昭和24年(1949年)に
清澄寺は日蓮宗へと改宗しました。
【境内・建造物】
<仁王門>
文久3年(1863年)の建立。
阿像(那羅延金剛)と
吽像(密迹金剛)を祀っています。
大棟には十六葉菊紋が付され
真言宗時代の格式の高さが窺えます。
千葉県指定有形文化財。
<大堂(本堂)(摩尼殿)>
天和2年(1682年)の建立と伝えられ、
大堂とも呼ばれています。
十界曼荼羅の前に奉安されている
虚空蔵菩薩像は、享保2年(1717年)に
八事山興正寺開山・天瑞圓照が
一刀一礼を以って彫刻したもので、
高さは約8尺(約2.4m)、
完成までに一万二千六百拝に
至ったと伝えられています。
また、日蓮が拝した
不思議法師作の虚空蔵菩薩像が
胎内に納められていると伝えられています。
<祖師堂>
昭和48年(1973年)に
建築家である内井昭蔵の設計で建立されました。
安置されている日蓮像は
徳川家康の側室である
お万の方の奉納と伝えられています。
<鐘楼堂>
1995年(平成7年)12月の建立。
庫裡の正面には、
かつて用いられていたと
考えられる明徳3年(1392年)
の銘が入った古梵鐘があります。
<観音堂>
明治13年(1880年)に再興。
十一面観音を祀り
「安房国札三十四観音」の
第十七番札所となっています。
丑年と午年に開帳されます。
<中門>
正保4年(1647年)の創建で
天保8年(1837年)に改修されました。
昭和39年(1964年)4月28日に
千葉県指定有形文化財に指定されました。
和様を主とした折衷様式で、
一門一戸の四足門・茅葺・切妻造りです。
<宝物殿>
昭和56年(1981年)に建立。
日蓮ゆかりの品を展示しています。
<本院>
平成29年(2017年)4月27日に改修。
旧本院の十万石格式の玄関の意匠を
そのまま引き継いだ形で再建されました。
<凡血の笹>
摩尼殿左脇に自生する黒斑模様の笹。
16歳で出家した日蓮が
虚空蔵菩薩に「日本第一の知者となし給え」
という願を掛け21日間の断食行を行いました。
満願の日に虚空蔵菩薩より
如意宝珠を授かり堂から出たところ、
吐血しその血が笹についてしまいました。
以後、生えてくる笹に
黒斑が付いた事から
「凡血の笹(凡人日蓮の最後の血が付いた笹)」
と呼ばれるようになったとのことです。
<石幢(髪塚)>
高さ約2mの八面石幢で妙見山中腹にあります。
応永31年(1424年)の銘があり
千葉県指定有形文化財に指定されています。
本来は経典を埋めた印として
建てられたものですが、
その後、得度した僧侶の髪の毛を
納めたことから「髪塚」と
呼ばれるようになりました。
<妙見堂>
清澄山頂の奥ノ院に位置し
清澄山根本鎮守である北辰妙見大菩薩を祀っています。
年に一度7月21・22日に開帳されます。
<信育道場>
元は昭和27年(1952年)に
立教開宗700年を記念して
清澄寺特別大本願人・日野隆司によって
建立されました。
1999年(平成11年)に
立教開宗750年の際に再建、
宗門行事・団体信徒の
修行・参籠・講習会等に使用されています。
スポンサーリンク
<道善房墓所>
建治2年(1276年)3月16日に
没した日蓮の師・道善房の墓所です。
<報恩殿>
昭和37年(1962年)に
道善房の追善として
清澄寺大本願人・西田志満によって
建立されました。
道善房の尊像を安置しています。
<千年杉>
高さ約47m・幹周り約15m・
樹齢は約800年とされています。
大正13年(1924年)に
国の天然記念物に指定されました。
昭和29年(1954年)に発生した
台風により並立していた
もう一本の大杉が倒れ、
現在残っている大杉の南側の枝が落とされました。
<星の井戸>
不思議法師が虚空蔵菩薩に祈願して
授かった井戸と伝わっています。
井戸の中に星影を宿す事から
星の井戸と呼ばれています。
<練行堂>
慈覚大師円仁が求聞持法を修し、
後に日蓮も修行したと伝わる堂宇です。
<旭が森>
建長5年(1253年)4月28日に
日蓮が初めて題目を
唱えたとされる場所で、
立教開宗の聖地となっています。
<日蓮聖人銅像>
大本山妙顕寺54世で時の
日蓮宗管長であった河合日辰が、
有縁の児玉妙開や大塚圭八等と共に
旭が森に銅像建立を発願しました。
当時は真言宗智山派でしたが、
30世・玉瀧義秀の英断により
大正12年(1923年)8月30日に完成しました。
この銅像建立が後に日蓮宗への
改宗の契機となったそうです。
1993年(平成5年)に
建立70周年を記念し修復が行われました。
<女人堂>
12歳で入山した日蓮が折々に
母である梅菊と面会した場所と
伝えられています。
日蓮は後に、修行の妨げになるという
理由で母との面会を絶ったと言われています。
<涕涙石>
かつては女人堂跡地にありましたが
道路拡張工事により土中深く埋められ、
現在は記念碑が建立されています。
日蓮に会う事が叶わない梅菊が
石に腰掛け涙を流し、
その跡が石の表面に残っていると
伝えられています。
【文化財】
<千葉県指定有形文化財>
●清澄寺仁王門
●清澄寺中門
●清澄寺石造宝篋印塔
●清澄寺石幢
●梵鐘
●旭森経塚遺物
<鴨川市指定有形文化財>
●清澄寺石造宝篋印塔
●木造薬師如来坐像
●木造如来立像
●銅造観音菩薩立像
【天然記念物】
●清澄の大スギ(国の天然記念物)
●清澄のモリアオガエル(千葉県指定天然記念物)
●清澄の大クス(鴨川市指定天然記念物)
【札所】
安房国札三十四観音霊場
<16>石間寺
<17>清澄寺
<18>石見堂
【交通アクセス】
(電車・バス・タクシー)
JR外房線「安房天津」駅⇒
登山バス(日東交通)バスで約20分程度。
JR外房線「安房天津」駅⇒タクシーで約15分程度。
タクシーで約15分
(車)
●東京アクアライン⇒「君津」IC
●首都高及び東関東自動車道⇒
京葉道路(木更津方面)⇒館山自動車道⇒「君津」IC
「君津」IC⇒房総スカイライン⇒鴨川有料道路
⇒「鴨川」「天津」⇒清澄ライン
スポンサーリンク
【所在地】
〒299-5505 千葉県鴨川市清澄322−1
【駐車場】
仁王門まで15分強程歩き、坂道もありますが
無料の市営駐車場があります。
敷地内にはトイレも設置されています。
<市営駐車場から清澄寺バス停エリア>
写真の左を曲がると下の写真です。
<清澄寺バス停近く>
赤い自販機が設置されている径を歩いていきます。
所要時間:20分~
※夕方だったので駆け足でした。
妙見堂や仏舎利堂まで見学すると
1時間半はかかると思われます。
常栄寺(鎌倉)通称は牡丹餅寺、むかし源頼朝が「千羽鶴の放生会」を展望するための桟敷がありました。
仁右衛門島~源頼朝が身を隠し潜んだ場所で、頼朝一行を洲崎から案内したとも伝わる平野仁右衛門氏の島です。
一戦場古戦場 ~安房に逃れた源頼朝が奇襲にあい、合流した三浦義澄が討ち取った古戦場
佐貫城~室町中期から幕末まで 城主が替わりながら存続、経済交通の重要地でもありました。
勝浦城~築城は真里谷氏、後に正木氏の城で、最後の城主はお万と三浦為春の父の正木頼忠。
この記事へのコメントはありません。