【玉造要害山城】
玉造要害山城(たまつくりようがいさんじょう)は、
島根県松江市玉湯町にあった日本の城です。
玉造要害山城は、湯秀貞によって築かれた山城で、
尼子氏重臣として活躍した
湯氏の一族が拠点としていました。
【別名】
湯ヶ山城、湯ノ城、玉造城
【城郭構造】
山城
【天守構造】
なし
【築城主】
湯秀貞
【築城年】
南北朝時代
【主な城主】
湯氏
【廃城年】
不明
【遺構】
空堀、土塁、井戸
【指定文化財】
なし
【城の構造】
最高所の本丸を中心に、
北西の玉作湯神社方面に
山腹を半周する帯郭を含む
四段の郭が設けられているとのことです。
本丸及び本丸の帯郭には、
尾根筋方面に土塁、
縦土塁が設けられ、
加えて本丸直下の堀切は
土塁を伴う厳重な構えとなっています。
麓の郭と本丸帯郭の間に設けられた郭には、
食い違い土塁及び連続縦堀群が設けられており、
帯郭の縦土塁と共に、
尼子氏流築城術にはない
特徴が見られるそうです。
【遺構】
山上の遺構は保存状態が良く、
空堀及び土塁が往時の姿を留めています。
また、本丸下の尾根鞍部には
井戸跡が残っているとのことです。
【城の歴史】
鎌倉時代、佐々木泰清の第七子である頼清が湯荘に入り、
湯氏を称して拝志及び湯の二郡を支配しました。
南北朝時代、湯頼清の孫である湯秀貞が
出雲国仁多郡湯村を領し、
玉造要害山城を築きました。
富士名義綱が南朝方として隠岐にあった時、
湯荘留守職の諏訪部扶重が謀反を起こし、
玉造要害山城も攻められ落城しました。
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永禄元年(1558年)に記された
玉作湯神社の棟札に湯菊丸の名があり、
戦国時代後期には
この湯氏の傍系が拠っていたものと考えられています。
玉造要害山城のその後は詳らかではありませんが、
毛利氏の手が加えられた可能性が指摘されています。
【所在地】
〒699-0201 島根県松江市玉湯町玉造
【湯氏】
佐々木泰清の第七子である頼清が
出雲国仁多郡湯村を領し、
地名から湯氏と称したのが始まりとされています。
なお、佐々木泰清(ささき やすきよ)は、
宇多源氏佐々木一族で鎌倉幕府の御家人で
佐々木義清の次男です。
隠岐・出雲両国の守護職でした。
佐々木秀義の五男で出雲源氏の祖とされています。。
湯頼清の孫である義綱が
富士名判官と称して南朝方として、
建武三年の合戦で戦死しました。
其の後嫡流は富士名を称していましたが、
義綱の孫の世代に当たる富士名信綱の弟である
政通が再び湯氏を称しました。
そしてその子である湯高忠は尼子持久に仕え、
こうして代々尼子氏に属することとなりました。
なお、尼子氏も宇多源氏佐々木一族です。
時代は流れて戦国の世となっていきます。
湯高忠のひ孫の世代に当たるのが
湯惟宗(ゆ これむね)でした。
【湯惟宗】
湯 惟宗(ゆ これむね)は、戦国時代の武将。尼子氏の家臣。
尼子晴久に仕え、
天文9年(1540年)8月の吉田郡山城の戦いに出陣。
永禄元年(1558年)5月の小笠原長雄への援軍に従軍、
石見国出羽表にて吉川氏方を破りました。
尼子義久の代には鰐走城の牛尾久清と共に
福屋隆兼の謀反に応じて
永禄4年(1561年)11月、
吉川・都治両氏の守る福光城を攻めるが敗走します。
永禄6年(1563年)9月、
毛利元就の白鹿城攻めに
尼子倫久を総大将として
救援に向かいましたが撃退されました。
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永禄8年(1565年)4月、
元就の第二次月山富田城の戦いの際に
亀井安綱、河本隆任、川副久盛、牛尾幸清、
佐世清宗と同時期に毛利氏に降伏しました。
その後の詳細は明らかにはなっていません。
そして尼子再興の志は湯惟宗の
孫の新十郎茲矩に
託されていくことになるのでした。
【亀井茲矩】
亀井 茲矩(かめい これのり)は、
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。
因幡国鹿野藩初代藩主です。
【生誕】
弘治3年(1557年)
【死没】
慶長17年1月26日(1612年2月27日)
【改名】
湯国綱(初名)、之子、亀井真矩、茲矩
【別名】
新十郎(仮名)、長卿(字)、
槍の新十郎(渾名)、琉球守、台州守
【墓所】
鳥取県鳥取市気高町田仲
島根県鹿足郡津和野町後田の亀井家墓所内
京都府京都市左京区黒谷の金戒光明寺墓地
【主君】
尼子勝久、
豊臣秀吉、豊臣秀頼、
徳川家康、徳川秀忠
【藩】
因幡鹿野藩主
【氏族】
湯氏、亀井氏
【父】
湯永綱
【継父】
亀井秀綱
【母】
多胡辰敬娘
【妻】
山中幸盛養女時子、多胡重盛娘
【子】
政矩、松平忠清室ら
【生涯】
【尼子再興軍として】
弘治3年(1557年)、
尼子氏の家臣である湯永綱の長男として
出雲国八束郡湯之荘
(現在の島根県松江市玉湯町)に生まれました。
尼子氏が毛利元就によって滅ぼされると
流浪の身となりました。
流浪時代については詳細は不明であり、
潜伏先は京都であったとも伝えられています。
永禄11年(1568年)頃、
尼子氏の残党である尼子勝久と
山中幸盛(山中鹿介)に出会ったと推察されています。
年齢を考えると、
天正元年(1573年)9月頃に
山名氏と離反するあたりから、
本格的に実戦に参加し始めたものと考えられています。
【亀井姓を名乗る】
同年、亀井茲矩は拠点の一つであった
私都(きさいち)城を任されていました。
また年代は定かではありませんが、
山中幸盛との緊密な関係から、
山中幸盛の養女(亀井秀綱の次女)を娶り、
亀井姓を名乗ってその名跡を継ぎました。
【羽柴秀吉の傘下へ】
この頃の尼子氏再興の動きですが、
常に強大な毛利軍と寡兵で戦わねばならず、
一時的な成果しか挙げられませんでした。
けれども新興勢力である織田信長が台頭し、
中国地方を伺う情勢となると、
尼子再興軍は織田氏家臣・羽柴秀吉の傘下に入り、
播磨国を転戦したのです。
【明智光秀に属する】
亀井茲矩自身は、天正5年(1577年)に、
明智光秀に属して
丹波国籾井郷に3000石を知行されました。
松永久秀謀反後の
信貴山城攻めにも参加しています。
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【尼子勝久、山中鹿介死す】
天正6年(1578年)に
尼子勝久らが上月城で孤立。
尼子勝久は自刃し、
山中幸盛も降伏後に処刑されましたが、
亀井茲矩は羽柴軍と同行していたため
難を逃れたのでした。
【24歳にて城主】
以降も羽柴軍に属し、
天正9年(1581年)には
吉川経家が守る鳥取城攻略で戦功を挙げたため、
因幡国鹿野城主に任命され、
24歳の若年ながら
前線の城主を任されることになり、
1万3500石を領しました。
このことは羽柴秀吉は
相応の信頼を寄せていたと考えられています。
また、本能寺の変後の
羽柴秀吉の中国大返しの際には
後詰めとして鹿野城に残留した。
織田信長の死後は、
羽柴秀吉が台頭するとその家臣となりました。、
豊臣政権下において、
宮部継潤のもと、垣屋恒総、荒木重堅(木下重堅)、
南条元続と共に「因幡衆」として働き、
銀山経営、干拓、用水路開設などの
行政面における手腕を発揮しました。
文禄・慶長の役では水軍を率い、
朝鮮でも戦っています。
また朝鮮での在陣中に鉄砲による虎狩を行い、
得た虎を京都の豊臣秀吉の元へと
送った記録が残されています。
【近世大名】
秀吉死後は徳川家康に接近し、
慶長5年(1600年)の
関ヶ原の戦いでは東軍として、
山名豊国を従えて最前衛で戦いました。
関ヶ原本戦後に鳥取城を攻めましたが、
堅城であった鳥取城はなかなか陥落せず、
西軍方の但馬竹田城主である
斎村政広を寝返らせて援軍とし、
さらに城下の焼き討ちによって
ようやく落城させました。
この焼き討ち行為は
徳川家康の不興を買うことになりましたが、
斎村政広ひとりが焼き討ちの首謀者とされ、
斎村政広は責任を取って自害させられました。
なお、これは亀井茲矩が自身の責任を回避すべく
讒言したという説があります。
また水口岡山城に籠る
長束正家を本領安堵を条件に降伏させ、
同城を開城させました。
戦後、功績によって
因幡高草郡2万4200石を加増され、
3万8000石の鹿野藩初代藩主となりました。
江戸幕府下においては、
農業開発、銀山開発、用水路開設などの
行政面に手腕を振るう一方で、
幕府の朱印状を得てシャムと交易を行なうなど、
世界に視野を広げた実業家でもありました。
特に日本海側の大名が
南蛮貿易を行った事例は希少です。
【石見国津和野へ転封】
慶長17年(1612年)、死去。
なお、嫡子である亀井政矩の代に
石見国津和野4万3000石に
加増転封されています。
以来、亀井家が明治時代まで藩主をつとめました。
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