【誠仁親王】
誠仁親王(さねひとしんのう、
1552年5月16日〈天文21年4月23日〉
⇒1586年9月7日〈天正14年7月24日〉)
は、日本の安土桃山時代の皇族です。
正親町天皇の嫡男でありながら、
皇位につくことなく早世しました。
しかしながら遺児である
和仁親王(後陽成天皇)が皇位につくと、
天皇の実父として
太上天皇の尊号を追贈されました。
追号は陽光院です。
現在の皇室は誠仁親王の子孫にあたります。
正親町天皇の第一皇子です。
母は内大臣万里小路秀房の娘、
准三宮万里小路房子です。
【生涯】
永禄11年(1568年)12月に
親王宣下を受け元服しました。
資金難のため延び延びになっていましたが、
織田信長が費用を負担して
ようやく実現したとのことです。
天正12年(1584年)1月には
三品に叙せられています。
天正7年(1579年)11月以降、
誠仁親王は織田信長が献上した
「二条新御所」と呼ばれた邸宅に居を構えました。
これはもとは二条家の邸宅でした。
織田信長がこの邸宅を気に入って
二条家から譲り受けて大改造を施し、
自らの居館とした建物でした。
なお、のちに徳川家康が造営した
二条城とは別の建物です。
二条新御所は、
正親町天皇が居住する「上御所」に対して
「下御所」と呼ばれ、
禁裏(上御所)同様に小番も整備され、
正親町天皇も朝廷の意志決定に際しては
必ず誠仁親王に意見を求めるようになりました。
それはさながら「副朝廷」の様相でした。
奈良興福寺の僧侶が残した日誌である
「多聞院日記」や「蓮成院記録」では、
誠仁親王を「王」「主上」「今上皇帝」
などと呼んでおり、
事実上の天皇(共同統治者)と
みなされていたことがうかがえます。
正親町天皇はすでに当時としては高齢でした。
誠仁親王もいつ即位しても
おかしくない年齢でありました。
けれども朝廷が、譲位にともなう
一連の儀式を自力で挙行することは
経済的に不可能であったのでした。
また先々代後柏原天皇・先代後奈良天皇、
そして正親町天皇自身の3人の天皇のように、
全国の戦国大名から
広く寄付を募るという手法も、
織田信長の覇権の下では
もはや使えなかったのでした。
朝廷は、譲位の実現をひたすら
織田信長に働きかけざるを得ず、
左大臣推任・三職推任など、
朝廷としては破格の交換条件を提示して
織田信長を動かそうとしました。
しかし織田信長は、
明示的に拒絶することはなかったそうですが、
その死に至るまで消極的な態度に終始したのでした。
ただし、安土城には天皇の行幸を迎える
「御幸の間」が設置されており、
これは誠仁親王の即位を想定したものと
推測されているとのことです。
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【本能寺の変】
本能寺の変の際、
織田信長の嫡男である織田信忠は
宿所としていた妙覚寺を放棄し、
より軍事施設として優れていた
二条新御所に立て籠もりました。
「イエズス会日本年報」によれば、
明智光秀の軍勢が御所を包囲するなか、
誠仁親王は光秀に
「自分も腹を切るべきか」と尋ねたということです。
自分が織田信長に擁立され、
織田信長に依存した存在であり、
織田信長が倒されれば
それに殉じることもありうる立場であると
誠仁親王は考えていたことが伺えます。
幸い織田信忠に同行していた
村井貞勝の交渉により、
誠仁親王とその妻子・宿直の公家たちは
御所を脱出し、禁裏に逃げ込んだのでした。
誠仁親王一行にまぎれこんだ
逃亡者が出ることを警戒した明智光秀は、
馬や乗り物の使用を禁じたため、
誠仁親王は徒歩で移動せざるを得なかったそうです。
けれども、同行していた連歌師里村紹巴が
どこからか粗末な荷運び用の輿を調達したので、
誠仁親王だけは途中からそれに乗ったということでした。
【誠仁親王の急死】
織田信長の後継者となった豊臣秀吉は、
譲位して上皇となる正親町天皇のための
「院御所」の建設に着手するなど、
譲位に積極的に取り組む姿勢を見せていました。
けれども誠仁親王は譲位を待たずに、
天正14年(1586年)7月、
急死してしまったのです。
あまりの突然の死は社会に衝撃を与えたらしく
「秀吉が誠仁親王の側室と密通したことに
抗議して自殺したのだ」あるいは
「誠仁親王に代わって
秀吉が天皇になるつもりだ」
などという噂が流れたそうです。
実際は、誠仁親王の遺児である
和仁親王(後陽成天皇)が
同年11月に祖父の猶子とされて
皇位を譲られました。
時期は不明ですが、
後陽成天皇は早世した父に
「陽光院」と諡し、太上天皇の尊号を贈ったとのことです。
【誠仁親王の御子たち】
誠仁親王の五男である興意法親王は
織田信長の猶子、
六男である智仁親王は豊臣秀吉の猶子となっています。
なお、誠仁親王が織田信長の
猶子となったという説がありますが、
これは誠仁親王も
興意もいずれも「五宮」と
呼ばれていたことから来た
誤解であると考えられています。
最も、正親町天皇の子息は
誠仁親王以外には知られておらず、
誠仁親王が「五宮」と呼ばれた理由は不明です。
そもそも誠仁が「五宮」
と呼ばれた事実があったかも疑わしいとのことです。
【縁談を巡る織田信長の誠仁親王の意見の対立】
誠仁親王の女房のひとりであった典侍局は、
天正10年(1582年)に
誠仁親王のもとを去り、
本願寺門主顕如光佐の次男である
興正寺門主顕尊佐超と婚姻しています。
これをめぐり、
縁談に積極的な織田信長と
消極的だった誠仁親王とのあいだで
意見の対立があったとされており、
これが局の実家上の
冷泉家の当主で兄の冷泉為満、
実兄で四条家を継いだ四条隆昌、
姉婿の山科言経の3人が
天正13年(1585年)に
共に勅勘を蒙り、京都から出奔した事件と
関連があるのではないかという専門家もいるとのことです。
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<勅勘>
勅勘(ちょっかん)とは
天子から受けるとがめ。
勅命による勘当のことです。
一般的には勘事(かんじ/こうじ)といい、
これは上官の譴責を受けて
出仕の差し止めなどの処分を受けることです。
勘当とも称しました。
その中でも天皇からの勘事の場合に
勅勘と称したとの事です。
【蹴鞠大会】
天正3年(1575年)、
誠仁親王は京にて大規模な蹴鞠大会を開催しました。
「信長公記」によりますと、
正規の儀礼に準じた
華やかなものであったとされています。
織田信長などは女官を通じて
正親町天皇より盃を賜ったということです。
【陵(みささぎ)】
親王の墓所は太上天皇を追尊されたため
「陵」と称されています。
陵(みささぎ)は、宮内庁により
京都府京都市東山区今熊野泉山町の
泉涌寺内にある
月輪陵(つきのわのみささぎ)に治定されています。
宮内庁上の形式は石造九重塔です。
2020年NHK大河ドラマ「麒麟がくる」では
加藤清史郎(かとうせいしろう)さんが演じられます。
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