【鹿沼城】
鹿沼城(かぬまじょう)は、
下野国都賀郡鹿沼
(現在の栃木県鹿沼市今宮町・西鹿沼町)
にあった日本の城です。
【別名】
坂田城、亀城
【城郭構造】
平山城
【築城主】
壬生綱房
【築城年】
天文元年(1532年)
【主な城主】
壬生氏
【廃城年】
天正18年(1590年)
【遺構】
土塁、空堀
【現在】
現在城址は「御殿山公園」として整備されています。
本丸跡と二の丸跡は野球場となり消滅しています。
【所在地】
〒322-0073 栃木県鹿沼市西鹿沼町1663−1
【駐車場】
「御殿山公園」の駐車場があります。
<場所>
青印は「御殿山公園」の駐車場出入り口付近です。
【交通アクセス】
◆JR「鹿沼」駅からバスで10分
「天神町」下車⇒
「天神町」から徒歩で10分程度
◆東武「新鹿沼」駅からバスで10分
(リーバス上久我線、小来川森崎線、
運転免許センター線、古峰原線「天神町」下車)
「天神町」から徒歩で10分程度
【鹿沼城の起源・鹿沼氏】
鹿沼城の起源は、正応5年(1292年)に
二荒山神社に化灯籠を奉献した
佐野氏の支族・鹿沼権三郎が、
この城から西に500mほどの所にある
坂田山に本拠を構えた事から始まります。
なお、坂田山の城がいつ頃
築城されたのかは不明となっています。
その後の200年間は、
鹿沼氏がどのように
経過したのかは分かっていません。
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【鹿沼氏の滅亡】
戦国時代に入った大永年間、
鹿沼教清は東隣の宇都宮氏から圧迫を受け、
敵対し、合戦で討ち死にして、
宇都宮忠綱に鹿沼氏は攻め滅ぼされました。
【任された壬生氏】
鹿沼氏を滅ぼした宇都宮氏は、
この周辺の支配を壬生綱重に任せます。
【鹿沼城の築城】
壬生綱重は鹿沼氏の居館であった
坂田山館を改築して居城としましたが、
天文元年(1532年)に
嫡子の壬生綱房が
御殿山を中心に城を築き鹿沼城とし、
以後は壬生氏の居城となりました。
【小田原北条氏に従属】
その後、関東で小田原北条氏が台頭してくると
壬生義雄は宇都宮氏から離反し、
小田原北条氏に従属するようになりました。
天正18年(1590年)、
小田原征伐で壬生氏が
北条方に加担し、
壬生義雄が戦後急死したため、
壬生氏は断絶となり、
鹿沼城も廃城となったのでした。
【鹿沼藩庁(鹿沼陣屋)】
正保4年(1647年)、
3代将軍徳川家光に近侍し、
小姓組番頭かつ若年寄であった朽木稙綱が
5千石を加増され、
2万5千石の大名として鹿沼藩を立藩しました。
鹿沼陣屋は鹿沼城の麓の、
平常時に使用していた屋敷(根小屋)跡に
建てられたとされています。
現在は鹿沼中央小学校となり、
遺構は確認されてはいません。
のちに藩主は内田氏に替わります。
1万3千石の内田正偏が
不祥事で蟄居処分となったため、
子の内田正親が継ぎましたが、
1万石に減封の上で
下総国小見川藩に移されたため、
鹿沼藩は廃藩となりました。
【壬生氏】
【出自】
【1.京都の地下官人家】
室町時代に京都の
地下官人家・壬生家(小槻氏)から出た、
壬生胤業が祖となるとのことです。
しかしながらこの出自に確証はありません。
【2.毛野氏族】
壬生胤業は毛野氏族の
壬生氏(壬生公)の後裔とする説もあるそうです。
ちなみに「毛野」(けの/けぬ)は、
日本の古墳時代の地域・文化圏の1つで、
群馬県と栃木県南部を合わせた
地域を指すとされています。
【3.宇都宮氏庶流横田氏】
更には、壬生胤業を
宇都宮氏庶流横田氏の一族である
壬生朝業の末裔とし、
壬生朝業を壬生氏の祖とする説もあります。
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【壬生家を興す】
壬生胤業は公家(地下家)でありながら
武芸を好み、諸国に下向した末に
寛正3年(1462)に
下野国で壬生氏を興したとされています。
【鹿沼城を築城する】
子である壬生綱重は壬生城を築城して拠点とし、
下野国の有力氏族である宇都宮氏に仕えました。
主君である第18代当主の宇都宮忠綱の命で
付近の豪族・鹿沼氏を降し、
鹿沼の地の支配を任されて
居城を鹿沼城に移しました。
そしてさらに勢力を拡大し、
日光山領までも支配下としたのでした。
【壬生綱房、宇都宮氏を乗っ取る】
更にその子である壬生綱房の代では、
宇都宮攪乱と呼ばれる
宇都宮忠綱と芳賀興綱の間での
宇都宮氏内での内紛で落ち延びた
宇都宮忠綱を保護し
芳賀興綱を自害に追い込み、
権勢を強めました。
【共同統治するも奪還される】
宇都宮忠綱の子の宇都宮尚綱が
天文18年(1549年)、
喜連川五月女坂の戦いで討死すると、
子の伊勢寿丸(広綱)と
芳賀高定を宇都宮城から追い出し、
乗っ取ることに成功したのでした。
そして宇都宮城を芳賀高照との共同統治とし、
さらに壬生城に嫡男の壬生綱雄を、
鹿沼城には次弟の壬生周長を置き周辺を固めます。
けれども弘治元年(1555年)、
芳賀高照は謀殺され、
同年に壬生綱房も急死しました。
壬生綱房の死は一説には、
芳賀高定による謀殺とも言われています。
壬生綱雄が跡を継ぎましたが、
同弘治3年(1557年)、
宇都宮城は奪還されたのでした。
【独立か?従属か?】
鹿沼城に退いた後、
壬生綱雄は宇都宮氏からの独立を画策します。
これには関東における
小田原北条氏の勢力拡大が背景にあり、
壬生綱雄は小田原北条氏と
手を結ぼうとしていました。
一方、叔父である壬生周長(壬生綱房の弟)は、
一貫して宇都宮氏への従属姿勢を取り、
壬生綱雄と対立します。
そして天正4年(1576年)、
壬生綱雄は暗殺され、
壬生周長が鹿沼城主となりました。
【壬生義雄が城主となる】
同年、壬生周長は続いて
壬生綱雄の子である壬生義雄の籠る
壬生城を攻めましたが、
敗北し殺害されました。
当主となった壬生義雄は鹿沼城に移り、
小田原後北条氏と結んで
宇都宮氏に対抗しました。
これによりこの地は、
小田原後北条氏&壬生氏VS
宇都宮氏・佐竹氏・結城氏
との争乱に明け暮れていくことになります。
【小田原北条氏と共に命運尽きる】
天正18年(1590年)の
豊臣秀吉による小田原征伐の時、
宇都宮氏・佐竹氏は豊臣軍に味方しました。
けれども壬生義雄は
小田原北条氏に味方して
小田原城に立て籠もりました。
しかしながら小田原城は落城し、
壬生義雄はその直後に病死したとのことです。
なお、一説では、
皆川広照によって
毒殺されたという説もあるとのことです。
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【壬生氏の滅亡と一人娘】
壬生義雄には一人娘しかおらず、
男子の跡継ぎがなかったため、
壬生氏は所領を没収され滅亡したのでした。
一人娘の伊勢亀は、
壬生義雄の死後、
壬生家臣である
一色右兵衛尉の室となったとのことです。
【鹿沼今宮神社】
延暦元年(782年)の創立と伝えられています。
日光二荒山神社の分社的性格をもち、
日光山鹿沼今宮権現と称していました。
天文3年(1535年)、
日光神領惣政所の地位にあった壬生綱房が、
鹿沼築城と共に現在地に遷し、
今宮権現と称して城の鎮守としました。
天正18年(1590年)、
豊臣秀吉の関東平定に伴い
壬生氏滅亡後は鹿沼宿の氏神となりました。
徳川幕府から五十石の朱印地を拝領し、
慶長13年(1608年)3月、
優美な権現作りの社殿(県文化財指定)
に整備されました。
例大祭(毎年10月体育の日前の土日)
に行われる
鹿沼今宮付け祭りは
国指定重要無形民俗文化財となっています。
平成28年12月には
ユネスコ無形文化遺産に登録されました。
<御朱印>
初穂料:300円
【交通アクセス】
◆JR鹿沼駅からバスで5分
「久保町」下車⇒
「久保町」から徒歩で1分
◆JR鹿沼駅から徒歩で20分
◆東武新鹿沼駅からバスで5分
「久保町」下車⇒
「久保町から徒歩で1分
◆東武新鹿沼駅から徒歩で15分程度
◆東北道鹿沼ICから車で15分程度
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