【早乙女坂古戦場】
那須氏と宇都宮氏が争った戦場跡です。
宇都宮氏の大将である
宇都宮尚綱が討たれ、那須氏が勝利しました。
お堂前の階段脇に宇都宮尚綱を射殺した
鮎瀬弥五郎の墓碑、
階段上のお堂の中に
宇都宮尚綱の供養塔がありました。
昔は早乙女坂(そおとめざか)と
いわれていました。
天文18年(1549年)に
2000余騎の宇都宮尚網の軍と
500余騎の喜連川城主塩谷氏とが戦い、
宇都宮尚綱が鮎瀬弥五郎の矢で戦死、
大将を討たれた宇都宮軍は敗退しました。
坂の名は、この鮎瀬弥五郎にちなんで
「弥五郎坂」と呼ばれるようになりました。
<合戦の時期>
合戦の時期は2説に分かれているとのことです。
1つは1546年5月13日説。
そしてもう1つは1549年9月27日説。
多数の史料では、1549年9月27日に
早乙女坂の戦いが起こったとされています。
<合戦の原因>
宇都宮氏の領土拡大、
古河公方足利晴氏の命によって
宇都宮氏が那須氏を攻撃、
宇都宮尚綱に殺害された
芳賀高経の子高照と
那須氏が結びついての那須氏の挙兵等々と
原因は多岐にわたるとのことです。
早乙女坂のある場所は、
宇都宮氏と那須氏との境目に
あたっているため、
この地では両者の攻防戦が
幾度か起こっていました。
<合戦の様子>
宇都宮軍の兵力は2000余騎、
これに対し那須軍の兵力は300余騎。
両軍とも、領内各地から総動員しての出陣でした。
合戦は宇都宮軍の優勢でしたが、
那須一族伊王野氏の家臣である
鮎ヶ瀬弥五郎実光の弓矢によって
宇都宮尚綱は戦死。
尚綱の戦死によって形勢は逆転し、
宇都宮一族の上三川城の
横田兄弟5人も戦死したとのことです。
strong>【所在地】
〒329-1414 栃木県さくら市早乙女1761
※訪れた時期は9月でした。
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