【瀬田城】
所在地:滋賀県大津市瀬田2
別名は勢多城、山岡城とも称されます。
永享年間(1429~1441年)に山岡資広氏によって築城されたと伝わります。
山岡氏は定かではありませんが、甲賀の伴氏の後裔とされ、
甲賀郡山岡発祥とされているそうです。
山岡氏ははじめは六角氏に仕えていました。
そして山岡景隆の時代には「江南旗頭」と呼ばれるほど、
実力を持っていたとされます。
永禄11年(1568年)に六角氏が観音寺城の戦いで織田信長に敗れると、
織田信長に従います。
★現在は「グランスイート近江臨湖庵」という高層マンションになり、
其のマンション脇に城址の石碑があるのみです・・。
城跡の石碑から道路を挟んで向かい側には
自動車1台分停車できるスペースがあります。
けれども、城跡の石碑がある付近は丁度カーブのため、
走行する車両が見えにくいし、車両の速度もあるので、
くれぐれもご注意ください。
なお、付近には【瀬田の唐橋】があります。
【山岡景隆】
山岡景隆(やまおか かげたか)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
<生い立ち>
大永5年(1525年)、山岡景之の子として誕生。
当初は六角氏及び足利義輝に属していました。
なお、浪人していた山内一豊を家臣として召し抱えたこともあります。
<信長の家臣へ>
永禄11年(1586年)、
織田信長が足利義昭を奉じて上洛を開始すると、
信長から降伏勧誘を行われますが、これを拒否し、
近江南部の国人の旗頭として抵抗します。
しかし、『柳生文書』によりますと、
永禄12年(1569年)には
織田軍の攻撃を受けて大和国柳生氏の領内へ逃亡、
一時は松永久秀に人質を差し出し属したとあります。
後に信長に降伏し、その家臣となります。
織田家では佐久間信盛隊に配属されます。
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<信長に忠誠厚く>
景隆の信長に対する忠誠心は厚く、
また信長も先祖が甲賀出身である景隆の家柄などを顧慮して、
甲賀衆の指揮権を与えていたといいます。
元亀4年(1573年)からの信長と足利義昭との戦いでは
信長側に付き、槇島城攻めなどで戦功を挙げています。
『信長公記』によりますと、
天正3年(1575年)頃には、
上洛の行き帰りに信長・信忠親子が度々、
瀬田(勢多)に宿泊するなど、
かなりの信用を得ていたと記されています。
天正5年(1577年)の雑賀攻め、
天正9年(1581年)の伊賀攻めにも従軍しています。
<本能寺の変後、光秀の行く手を阻む>
天正10年(1582年)、本能寺の変で信長が死去すると、
明智光秀から味方になるように勧誘されましたが、
景隆はこれを拒絶して瀬田橋(瀬田の唐橋)を落として、
尚且つ、瀬田城を焼き、
明智軍の進軍路を妨害するなど抵抗します。
山岡一族は山中へ逃走し、羽柴秀吉方に逐一光秀軍の行動を報告。
なお、光秀が仮橋を架けるのに3日かかったそうで、
このために明智軍は安土城に進軍するまでに手痛い被害を受け、
また時間的余裕を失ったとまでいわれています。
<秀吉と敵対、隠遁>
その後は織田氏擁護の立場から柴田勝家に与して、
台頭していた羽柴秀吉と敵対するようになります。
しかし天正11年(1583年)、
賤ヶ岳の戦いで勝家が討たれると秀吉に降伏します。
助命されましたが弟・景佐と共に所領を没収され、
以後は甲賀に隠遁しました。
天正13年(1585年)正月14日に死去、享年61歳。
【伴家】
伴氏は、甲賀五十三家(こうがごじゅうさんけ)の一つです。
甲賀五十三家は、「鈎の陣」にて
六角氏に味方した甲賀の地侍五十三家のことであり、
後の甲賀流忍術の中心となった家々です。
★★あの落語家・女優も甲賀の末裔★★
甲賀五十三家には「美濃部」家も含まれています。
「美濃部」家は江戸時代には、旗本の家格でした。
落語家の5代目古今亭志ん生とその一族は旗本美濃部家の子孫です。
現在、NHK大河ドラマ「いだてん」に
5代目古今亭志ん生の妻・りん(ご自身の祖母)役で
出演している女優の池波志乃さんも子孫です。
【鈎の陣】
鈎の陣(まがりのじん)。
正式には長享・延徳の乱(ちょうきょう・えんとくのらん)。
室町時代後期の長享元年(1487年)と延徳3年(1491年)の
2度に亘って室町幕府が行った近江守護・六角行高(後の六角高頼)に対する親征で、
六角征伐とも称されます。
その中の1度目の出陣のことで、
近江国栗太郡鈎(まがり)(滋賀県栗東市)に在陣したため、
別に鈎の陣とも称されています。
【瀬田の唐橋】
瀬田の唐橋(せたのからはし、瀬田唐橋〈せたからはし〉)は、
滋賀県大津市瀬田-唐橋町の瀬田川に架かる橋です。
全長223.7メートル(大橋約172m、小橋約52m)で、
滋賀県道2号大津能登川長浜線がこの橋を渡ります。
京都の宇治橋、山崎橋とならんで日本三大橋
(日本三名橋・日本三古橋)の1つとされてきました。
また、近江八景の1つ「瀬田の夕照(勢田夕照)」として知られています。
1986年(昭和61年)8月10日の道の日には、
旧・建設省と「道の日」実行委員会により制定された
「日本の道100選」にも選ばれています。
瀬田の唐橋は歴史上、さまざまに表記及び呼称されてきました。
瀬田橋や勢多橋、勢多大橋のほか、勢多唐橋とも記されています。
また、瀬田の長橋とも称されました。
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<古代>
歴史に初めて「瀬田の橋」が登場するのは、
『日本書紀』巻第9気長足姫尊 神功皇后で
201年(神功皇后摂政元年)、香坂皇子と忍熊皇子が反乱。
忍熊皇子は神功皇后(応神天皇の母)の家来である武内宿禰の軍に攻められ、
瀬田の渡しで入水して自害したと記されています。
このことから神功皇后の時代には既に存在したと言われていますが、
この時代はまだ渡し舟で瀬田川を渡っていたと推測されています。
初めて架橋されたのは、
近江大津宮遷都(667年〈天智天皇6年〉)の時代と考えられています。
<安土桃山時代>
唐橋を本格的に渡したのは安土桃山時代の織田信長です。
架橋奉行は木村次郎左衛門と瀬田城主の山岡景隆で、
若狭の神宮寺山と近江朽木山から材木を取り寄せました。
『信長公記』によると、
この瀬田(勢多)橋の架け替えは
天下のためというよりも
旅人に配慮したものであると記されてあります。
また、この信長の架橋において、
初めて銅製の擬宝珠が欄干の親柱に付けられました。
<本能寺の変>
天正10年(1582年)、
明智光秀が本能寺の変で信長を倒すと、
光秀が安土を攻めようと橋を渡るのを阻止するため、
山岡景隆は唐橋と瀬田城を焼いています。
中島を挟んだ大橋と小橋の形となったのは
織田信長の架橋時以降と考えられています。
焼失後の唐橋を架けたのは豊臣秀吉で、
その時に初めて現在の位置に、大小2橋の橋を架けたとされています。
<江戸時代>
膳所藩(本多家)が管理。東海道がここをりました。
江戸幕府は、瀬田川に唐橋以外の他の橋を架けることを禁じ、
膳所城主に保護監理の任務を課していました。
1795年(寛永7年)から
1894年(明治27年)までの100年間で、
18回も架け換えを工事をした記録が残っています。
歌川広重の浮世絵「近江八景・瀬田の夕照」からは、
往時の唐橋の様子がよく伝わってきます。
<明治以降>
明治に入り2回、木造の橋が架け替えています。
大正13年(1924年6月)に、
初めて鉄筋コンクリート製の橋に架け替えられました。
昭和に入り、幾たびか補修され、
1974年(昭和49年)に本格的な架橋工事が行われ、
1979年(昭和54年)に現在の橋が竣工しました。
橋の特徴である擬宝珠は歴代受け継がれており、
「文政」「明治」などの銘が入ったものも現存します。
2012年(平成24年)には、唐茶色に塗り替えられ、現在に至ります。
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