【塚原卜伝】
塚原 卜伝(つかはら ぼくでん)は、
日本の戦国時代の剣士、兵法家です。
父祖伝来の鹿島神流
(鹿島古流・鹿島中古流)に加え、
天真正伝香取神道流を修めて、
鹿島新當流を開きました。
【生誕】
延徳元年(1489年)
【死没】
元亀2年2月11日(1571年3月6日)
【改名】
吉川朝孝(幼名)⇒塚原高幹⇒ 卜伝(号)
【別名】
通称:新右衛門、土佐守、土佐入道
【墓所】
茨城県鹿嶋市須賀の梅香寺
【主君】
鹿島景幹⇒義幹
【氏族】
吉川氏⇒塚原氏
【父】
父:吉川覚賢
養父:塚原安幹
【兄弟】
吉川常賢、卜伝
【妻】
妙(塚原安義の娘)
【子】
幹重
【塚原卜伝の生涯】
【出自と養子】
鹿島神宮の神官で
大掾氏の一族鹿島氏の
四家老の一人である卜部覚賢(吉川覚賢あきかた)
の次男として常陸国鹿島(現-鹿嶋市宮中)
に生まれました。
幼名は朝孝。
時期はですが、
後に覚賢の剣友塚原安幹
(塚原新右衛門安幹しんゑもんやすもと)
の養子となりました。
同時に諱を高幹(たかもと)とし、
新右衛門高幹と改めました。
塚原氏の本姓は平氏で、
鹿島氏の分家となります。
のちに、土佐守(とさのかみ)、
または土佐入道とも称しました。
卜伝は号で、実家である
吉川家の本姓の卜部(うらべ)
を由来としています。
【2人の父よりそれぞれ学ぶ】
実父・覚賢からは鹿島古流(鹿島中古流とも)を、
義父・安幹からは天真正伝香取神道流を
それぞれ学びました。
「関八州古戦録」「卜伝流伝書」によりますと、
松本政信の奥義
「一之太刀(ひとつのたち)」も
養父の安幹から伝授されたということです。
なお松本から直接学んだという説、
塚原卜伝自身が編み出したとする説もあります。
やがて武者修行の旅に出て、
己の剣術に磨きをかけたのでした。
スポンサーリンク
【卜伝の戦績】
塚原卜伝の弟子である
加藤信俊の孫の手による
「卜伝遺訓抄」の後書によりますと、
その戦績は「十七歳にして洛陽清水寺に於て、
真剣の仕合をして利を得しより、
五畿七道に遊ぶ。真剣の仕合十九ヶ度、
軍の場を踏むこと三十七ヶ度、
一度も不覚を取らず、
木刀等の打合、
惣じて数百度に及ぶといへども、
切疵、突疵を一ヶ所も被らず。
矢疵を被る事六ヶ所の外、
一度も敵の兵具に中(あた)ることなし。
凡そ仕合・軍場共に立会ふ所に
敵を討つ事、一方の手に掛く
弐百十二人と云り」と
述べられているとのことです。
よく知られている真剣勝負に
川越城下での梶原長門との対決があります。
【豪快な武者修行行列】
塚原卜伝は諸国を武者修行しましたが、
その行列は80人あまりの門人を引き連れ、
大鷹3羽を据えさせ、
乗り換え馬も3頭引かせた
豪壮なものであったと伝えられています。
【卜伝の弟子たち】
弟子には唯一相伝が確認される
雲林院松軒(弥四郎光秀)のほか、
諸岡一羽や真壁氏幹(道無)、
斎藤伝鬼房(勝秀)ら
一派を編み出した剣豪がいます。
また、将軍にもなった足利義輝や
足利義昭、伊勢国司北畠具教や
武田家家臣山本勘助にも
剣術を指南したということです。
また、足利義輝と北畠具教には
奥義である「一之太刀」を
伝授したとされています。
【「無手勝流」】
上記の通り
「幾度も真剣勝負に臨みつつ
一度も刀傷を受けなかった」などの伝説により
後世に剣聖と謳われ、
講談の題材として広く知られました。
著名な逸話のひとつで
勝負事にまつわる訓話としても
よく引き合いに出されるものとして
「無手勝流」という逸話があります。
塚原卜伝は琵琶湖の船中で
若い剣士と乗り合いになり、
相手が塚原卜伝だと知った
その剣士が決闘を挑んできます。
彼はのらりくらりとかわそうとし、
一方、血気にはやる剣士は卜伝が
臆病風に吹かれて決闘から
逃れようとしていると思いこみ、
ますます調子に乗って彼を罵倒します。
周囲に迷惑がかかることを察した
塚原卜伝は、船を降りて
決闘を受けることを告げ、
剣士と二人で小舟に乗り移ります。
そのまま塚原卜伝は近傍の小島に
船を寄せ、水深が足の立つ程になるやいなや、
剣士は船を飛び降り島へ急ごうとします。
けれども塚原卜伝はそのまま
なにくわぬ調子で、
櫂を漕いで島から離れます。
ここで取り残されたことに
気付いた剣士が大声で
塚原卜伝を罵倒しますが
塚原卜伝は「戦わずして勝つ、
これが無手勝流だ」
と言って高笑いしながら
去っていったとのことです。
【宮本武蔵との逸話は創作】
若い頃の宮本武蔵が
塚原卜伝の食事中に勝負を挑んで斬り込み、
卜伝がとっさに囲炉裏の鍋の蓋を盾にして
宮本武蔵の刀を受け止めたとする
逸話がありますが、
実際には宮本武蔵が生まれるよりも前に
塚原卜伝はこの世を去っているため、
塚原卜伝と宮本武蔵が
直接出会うことは有り得ず、
この逸話は後世の創作となります。
10代の頃、TVの
ドリフターズのコントで見た記憶があります。
2011年には、
NHK・BS時代劇でドラマにもなりました。
主人公の塚原卜伝役は堺雅人さんでした。
スポンサーリンク
【晩年と墓所】
晩年は郷里で過ごしたとされています。
「鹿島史」によりますと、
塚原卜伝は元亀2年(1571年)2月11日に
死去したとされています。
享年は83歳でした。
「天真正伝新当流兵法伝脉」では
鹿島沼尾郷田野(現鹿嶋市沼尾)
の松岡則方の家で死去となっています。
墓は豊郷村須賀塚原
(須賀村、現・鹿嶋市須賀)
の梅香寺にあったされていますが
お寺は焼失し、墓のみが現存しています。
墓所は程よくきれいに整備されています。
法号を宝険高珍居士(ほうけんこうちんこじ)。
位牌は墓地近くの真言宗長吉寺にあります。
寺の場所は北浦を背にして
墓所よりはやや奥のところです。
墓所の沿道の少し先になります。
【門下】
伝承上弟子とされる人物も含みます。
足利義輝
今川氏真
雲林院松軒
海野輝幸
上泉信綱
北畠具教
斎藤伝鬼房
成田長泰
林崎甚助
細川幽斎
真壁氏幹
松岡則方(兵庫助)
諸岡一羽
山本勘助
【所在地】
〒314-0032 茨城県鹿嶋市宮下2丁目11−4
※専用の駐車場はありません。
塚原城~大掾氏一族で鹿島氏分流の塚原氏が居城し、剣聖として有名な塚原卜伝も城主となりました。
鹿島城(常陸国)~平安時代末期に鹿島氏によって築城されました。築城者の平姓鹿島氏とは?
塚原卜伝の墓~鹿島新當流を開いた剣聖は北浦の畔で静かに眠っています。
興聖寺と足利庭園~朽木氏岩神館跡~室町幕府12代将軍義晴、13代将軍・足利義輝の安全地帯
足利義昭・最後の室町幕府将軍、懲りずに粘って兄の分まで生きる!歴代足利将軍の中で最も長生き!
この記事へのコメントはありません。