【月山富田城】
月山富田城(がっさんとだじょう)は、
島根県安来市広瀬町富田に所在した日本の城です。
戦国時代に山陰の覇者であった
尼子氏が本拠を構え、
170年間の尼子氏六代の盛衰の舞台となった城です。
城郭跡は国の史跡に指定されています。
【別名】
月山城
富田月山城
【城郭形態】
複郭式山城
【天守構造】
なし
【築城主】
佐々木義清か?
【築城年】
文治元年(1185年)頃か?
【主な城主】
尼子氏、吉川元春、堀尾吉晴
【廃城年】
慶長16年(1611年)
【標高】
191.5m
【遺構】
石垣、曲輪、堀切、井戸
【指定文化財】
国の史跡
【再建造物】
石垣、侍所
<復元石垣>
<月山富田城周辺の案内図>
【城の説明】
歴代の出雲国守護職の居城でした。
1396年から1566年には
大名であった尼子氏の本拠地となり以後、
尼子氏とともに山陰の要衝の地となった城です。
尼子氏は中国地方の覇権を巡って周辺諸国と争い、
尼子経久の時期に出雲に基盤を造り上げ、
嫡孫尼子晴久の代には
山陰・山陽八ヶ国守護の大大名となったのでした。
天然の地形を利用した、
最も難攻不落の要塞城といわれ
「天空の城」とも呼ばれていたそうです。
その後、城を巡っても度々
攻防戦が行われました。
最終的に尼子氏は毛利氏によって滅ぼされ、
城も毛利領となったのでした。
慶長5年(1600年)以降、
堀尾氏が城主となりましたが、
慶長16年(1611年)に
堀尾忠晴が松江城へ移ると
月山富田城も廃城となりました。
それまでは、山陰の首城である
地位を失いませんでした。
昭和9年(1934年)、
国の史跡に指定されました。
日本五大山城の一つとされることもあります。
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<日本五大山城>
◆春日山城(新潟県)・長尾氏(上杉氏)
◆七尾城(石川県)・畠山氏
◆観音寺城(滋賀県)・六角氏
◆小谷城(滋賀県)・浅井氏
◆月山富田城(島根県)・尼子氏
<日本五大山岳城>
◆八王子城(東京都)・小田原北条氏
◆春日山城(新潟県)・長尾氏(上杉氏)
◆観音寺城(滋賀県)・六角氏
◆月山富田城(島根県)・尼子氏
◆七尾城(石川県)・畠山氏
【城の歴史】
【平安時代】
保元・平治頃、
「平景清が富田荘に来た時、
八幡社を移して、築城した」
との伝承があるとのことです。
【鎌倉時代】
承久3年(1221年)の
承久の乱の功により、
佐々木義清が出雲・隠岐2国の守護となりました。
そして彼国に下向し、
承久の乱宮方の歿官領である
月山富田城に入ります。
なお、佐々木義清は出雲源氏の祖であり、
母は渋谷重国の娘です。
【南北朝時代】
<1341年(南朝:興国2年、北朝:暦応4年)>
出雲源氏の惣領である
塩冶高貞が幕府の追討を受けます。
<1343年(南朝:興国4年、北朝:康永2年)>
佐々木高氏(京極氏、道誉)が守護となり、
吉田厳覚を守護代とします。
吉田厳覚、山名時氏と戦って破れ、
当城は山名氏領となります。
<1364年(南朝:正平19年、北朝:貞治3年)>
山名時氏、出雲国守護となり、
代々出雲国守護を歴任します。
<1391年(南朝:元中8年、北朝:明徳2年)>
山名満幸、明徳の乱で敗れ、
再び京極氏が守護となります。
【室町時代】
<明徳3年(1392年)>
京極高詮は、甥の尼子持久を守護代とします。
尼子氏は守護代を代々歴任します。
<文明16年(1484年)>
守護代の尼子経久が所領横領により
追放され、塩冶掃部介が守護代となります。
<文明18年(1486年)>
尼子経久、不意をついて当城を奪回します。
その後、尼子経久は月山富田城を拠点に
勢力を拡大し、出雲の実質的守護権力となります。
尼子氏は城域を拡大・整備します。
<塩冶興久(えんやおきひさ・尼子興久)の墓>
尼子経久の三男でした。
出雲源氏の嫡流である塩冶氏の養子となり
やがて反尼子勢に組み込まれて、
享禄3年(1530年)、
父親である尼子経久に対して反乱を起こします。
塩冶興久は善戦しましたが、敗北し、
天文3年(1534年)に自害しました。
<天文6年(1537年)>
尼子経久、孫である尼子詮久(尼子晴久)に家督を譲ります。
<天文10年(1541年)>
尼子経久が他界しました。
<天文12年(1543年)>
大内・毛利連合軍に攻められましたが、
新宮党・尼子国久らの奮戦により撃退します。
<天文21年(1552年)>
尼子晴久、足利義輝及び朝廷より
山陰山陽八ヶ国守護、
従五位下修理大夫に任命されました。
<天文23年(1554年)>
尼子晴久、新宮党を粛清します。
<永禄3年(1560年)>
尼子晴久が急死し、尼子義久が家督を継ぎます。
<永禄8年(1565年>
毛利氏の包囲を受け、籠城します。
<永禄9年(1566年)>
兵糧が尽き、開城します。
尼子義久は捕らえられ、
安芸国へ送致されました。
城代として毛利家臣、福原貞俊、口羽通良が居城します。
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【安土桃山時代】
<永禄10年(1567年)>
城代として天野隆重が居城します。
<永禄12年(1569年>
尼子氏旧臣である山中幸盛らが
尼子再興軍を催して当城を攻めましたが、
落城しませんでした。
<永禄12年(1569年)>
毛利元秋が城督となりました。
<元亀元年(1570年)>
毛利勢本隊の来援により、尼子再興軍は敗退しました。
<天正13年(1585年)>
末次元康が城督となりました。
吉川元春が山陰諸国を総管します。
<天正19年(1591年)>
吉川広家が豊臣秀吉から
東出雲、隠岐、西伯耆12万石を与えられました。
慶長5年(1600年)に岩国へ転封となりました。
<慶長5年(1600年)>
堀尾吉晴が出雲・隠岐23万5千石領主となり
松江城を築きます。
【江戸時代以降】
<慶長16年(1611年)>
堀尾忠晴が松江城に移り廃城となりました。
<2006年(平成18年)4月6日>
日本100名城(65番)に選定されました。
<スタンプ設置場所>
安来市立歴史資料館
〒692-0402島根県安来市広瀬町町帳752
<開館時間>
午前9時30分~午後5時
<休館日>
毎週火曜日・12月29日~1月3日
<入館料>
一般:210円
高大生:100円
小中学校:30円
※スタンプのみでしたら
入館料を払わなくとも受付で押せます。
※「月山富田城」と「歴代城主」など詳細を
知りたい時はぜひ入館を。
※パンフレットが置いてあるので
登城前に立ち寄るとよろしいかと思います。
<隣接している施設>
道の駅「広瀬・富田城」(広瀬絣センター)
TEL:0854-32-2575
<開館時間>
午前10時~午後5時
※駐車場(46台)、
トイレ、電話は24時間利用可能
<定休日>
毎週水曜日 年末年始午前
【交通アクセス】
安来ICより車で約10分
安来駅より車で約15分
イエローバス 観光ループ「月山入口」下車
【近現代】
平成に入り、樹木の伐採、
石垣の修理など史跡公園としての
整備が進められていきます。
<2014年(平成26年)12月>
発掘調査と現地説明会が行われました。
【城の構造】
富田城は靴のような形の月山
(吐月峰、標高191.5m)山上に
本丸をおく典型的な山城です。
南東以外の三方は急峻な斜面です。
北側を正面とし、
山麓部から山頂部へと郭が連なっています。
進入路は、
<1>
北麓の菅谷口(すがたにぐち)からの
大手道(おおてみち)、
<2>
富田橋を渡った正面の御子守口(おこもりぐち)からの
搦手道(からめてみち)、
<3>
南麓の塩谷口(しおだにぐち)からの
裏手道(うらてみち)の
3か所があるとのことです。
これらの全ての登り口には城門を構え、
門の外には深い堀がめぐらされ、
そこから飯梨川
(現在の西2~400mを流れていました)
までが城の外郭となっていたそうです。
すべての進入路は山腹の山中御殿に通じ、
急峻な一本道「七曲り」で、
詰の城である山頂部と結ばれています。
現存する古絵図では、
石垣や瓦葺きの櫓などが描かれていますが、
これらの古絵図が描かれたのは江戸時代とのことです。
(城安寺が所蔵している堀江友声作の「月山古城絵図」など)、
発掘されている石垣が作られたのは、
関ヶ原の戦い後の
堀尾氏による改築と推定されています。
尼子氏・毛利氏が城主であった時代の姿は、
定かではありませんが、
尼子氏の館(平素の住居)は
里屋敷とよばれ、
菅谷口にありまわりに侍屋敷を設けたとされています。
【本丸】
月山最高所(吐月峰)に位置し、
別称は「甲の丸」とも言われています。
二の丸とは深さ7~8mの堀切で仕切られています。
ここに所在する勝日高守神社は
城の守護神社で、
築城以前から所在したと伝えられています。
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【二の丸】
天気の良い時には、
遠くに中海、さらに日本海を望むことができます。
双児井戸跡が残っています。
また、発掘調査の結果、
建物跡や柱穴の跡、
備前焼の瓶等も発見され、
破城の際に崩された石垣も発見されています。
【三の丸】
袖ヶ平の石垣を隔てた一段上に位置しています。
また、発掘調査の結果、
破城の際に崩された石垣が発見されています。
【袖ヶ平(そでがなり)】
「七曲り」を登りきったところにあり、
西方を監視する櫓があったと伝わっています。
石垣が残っています。
【鉢屋ヶ成(はちやがなり)】
山頂部、本丸の北東側に位置し、
尼子経久の富田城奪回に協力した
鉢屋氏ゆかりの地とも伝わっています。
【七曲り】
山中御殿平から山頂部へ続く道です。
かなり急峻で、現在は石畳で舗装されています。
途中に堀尾河内守・掃部父子を
供養する親子観音、山吹井戸があります。
【山中御殿平(さんちゅうごてんなり)】
御殿が所在したところで、
麓の里御殿に対して山中御殿と呼ばれたものと
考えられています。
上下2段に分かれており、
南側上段に城主の館、
北側下段に付属の館があったと伝わっています。
発掘調査によって、
建物の基礎とみられる石列が確認されましたが、
残念ながら時代は特定されてはいないとのことです。
【大手門跡(おおてもんあと)】
大手道、搦手道、裏手道が合流する
山中御殿平の入口に位置しています。
高さ5m、幅15mの大手門は、
押し寄せる敵を押し返したと伝わっていますが、
崩落して現存していません。
この大石垣の下には径2m、
深さ3mの軍用大井戸があり、
現在でも水が湧いているとのことです。
【花ノ壇(宗松寺平(そうじょうじなり))】
大手道と搦手道の間、
山中御殿平の正面、一段下に位置しています。
かつて、多くの花が植えられていたことから
この名がついたと言われています。
発掘調査をもとに主屋と侍所が復元されています。
<花ノ壇・復元建物>
【奥書院平(おくしょいんなり)】
大手道と搦手道の間、
太鼓壇と山中御殿平の間に位置しています。
奥書院があったと伝えられており、
現在は戦没者慰霊碑が建っています。
【太鼓壇(たいこだん)】
千畳平に続く南側の郭で、
時と戦を知らせる大太鼓が
置かれていたと伝わっています。
現在、山中幸盛の銅像と尼子氏の碑が建っています。
【千畳平(せんじょうなり)】
太鼓壇に続く北側の郭で、
御子守口の正面に位置し、
城兵集合の場として使われたといわれています。
北端には尼子神社と櫓跡があり、
周囲に石垣が残っています。
【馬場跡(ばばあと)】
太鼓壇・千畳平の北側に位置しています。
【能楽平(のうがくなり)】
御子守口からの搦手道と
塩谷口からの裏手道の間に位置しています。
西端に幸盛井戸があります。
【御茶庫台(おちゃこだい)】
巌倉寺の奥、西側最下段に位置し、
飯梨川に面しています。
堀尾吉晴の墓と伝わる巨大な五輪塔と、
堀尾吉晴の妻の建てた山中幸盛の慰霊碑があります。
【台東成(だいとうなり)】
裏手道の正面に位置する。石垣が残る。
【搦手門(からめてもん)】
南側の塩谷口から山中御殿平に続く門で、
御殿平の南側に位置しています。
石垣が残り、尼子経久が
塩冶掃部介を襲撃した際には、
ここから侵入したと伝えられています。
【菅谷虎門(すがたにとらもん)】
北側の菅谷口から山中御殿平に続く門で、
石垣が残っています。
【所在地】
所在地: 〒692-0403 島根県安来市広瀬町富田
【月山富田城無料駐車場】
道幅が狭いです。
何カ所かあります。
<月山富田城周辺の案内図>
所要時間:1時間~5時間程度
歩きやすい靴で登城しましょう。
飲料水・虫よけ・帽子があるといいです。
できれば夏場は避けましょう。
海蔵寺・安芸の古刹~山中鹿介次女の盛江,北条氏直,東城浅野家,江戸幕府と長州藩の談判の場所にもなりました。
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三笠(牛尾)城跡・島根県~尼子十旗で尼子再興軍の拠点の城。城主は牛尾氏。
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