【鳥居強右衛門】
鳥居 強右衛門(とりい すねえもん)は、
戦国時代の日本の足軽で、
奥平家の家臣でした。
名は勝商(かつあき)。
【生涯】
鳥居強右衛門が歴史の表舞台に登場するのは、
天正3年(1575年)の
長篠の戦いの時だけで、
それまでの人生については
ほとんど知られてはいません。
現存する数少ない資料によりますと、
彼は三河国宝飯郡内
(現在の愛知県豊川市市田町)の生まれで、
当初は奥平家の直臣ではなく
陪臣であったとも言われています。
長篠の戦いに参戦していた時の年齢は
数えで36歳と伝わっています。
【奥平氏の立ち位置】
奥平氏はもともと今川氏や織田氏、
松平氏(徳川氏)と
所属先を転々とした国衆でした。
元亀年間中は甲斐武田氏の
侵攻を受けて、武田家の傘下に
従属していました。
ところが、武田家の当主であった
武田信玄が元亀4年(1573年)の4月に死去、
その情報が奥平氏に伝わると、
奥平氏は再び松平氏(徳川氏)に寝返り、
武田信玄の跡を継いだ
武田勝頼の怒りを買うこととなりました。
【長篠城攻囲】
奥平家の当主であった
奥平貞能の長男である貞昌
(後の奥平信昌)は、
三河国の東端に位置する長篠城を
徳川家康から託され、約500の城兵で
守備していましたが、天正3年5月、
長篠城は武田勝頼が率いる
1万5千の武田軍に攻囲されたのでした。
5月8日の開戦に始まり、11、12、13日にも
攻撃を受けながらも、
周囲を谷川に囲まれた長篠城は
何とか防衛を保っていました。
けれども、13日に武田軍から
放たれた火矢によって、
城の北側に在った兵糧庫を焼失。
食糧を失った長篠城は
長期籠城の構えから一転、
このままではあと数日で落城という
絶体絶命の状況に追い詰められました。
【援軍要請】
そのため、奥平貞昌は最後の手段として、
徳川家康のいる岡崎城へ使者を送り、
援軍を要請しようと決断しました。
その一方で、岡崎城の徳川家康も
すでに武田軍の動きを察知しており、
長篠での決戦に備えて同盟者の
織田信長に援軍の要請をしていました。
けれども、武田の大軍に
取り囲まれている状況下、
城を抜け出して岡崎城まで赴き、
援軍を要請することは
不可能に近いと思われていました。
【自ら志願】
この命がけの困難な役目を
自ら志願したのが鳥居強右衛門でした。
14日の夜陰に乗じて城の下水口から出発。
川を潜ることで武田軍の警戒の目をくらまし、
無事に包囲網を突破しました。
翌15日の朝、長篠城からも見渡せる
雁峰山から狼煙を上げ、脱出の成功を連絡。
当日の午後に岡崎城にたどり着いて、
援軍の派遣を要請しました。
この時、上記の様に織田信長の援軍3万が
岡崎城に到着しており、
織田・徳川連合軍3万8千は
翌日にも長篠へ向けて出発する
手筈となっていました。
これを知って喜んだ鳥居強右衛門は、
この朗報を一刻も早く味方に伝えようと、
すぐに長篠城へ向かって引き返したとのことです。
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【武田軍に捕まる】
16日の早朝、往路と同じ山で
烽火を掲げた後、さらに詳報を伝えるべく
入城を試みたとのことです。
ところが、城の近くの有海村(城の西岸の村)で、
武田軍の兵に見付かり、
捕らえられてしまいました。
烽火が上がるたびに
城内から上がる歓声を
不審に思う包囲中の武田軍は、
警戒を強めていたのでした。
【「援軍は来る!」】
鳥居強右衛門への取り調べによって、
織田・徳川の援軍が長篠に
向かう予定であることを知った武田勝頼は、
援軍が到着してしまう前に一刻も早く
長篠城を落とす必要性に迫られました。
そこで武田勝頼は、命令に従えば
鳥居強右衛門の命を助けるばかりか
武田家の家臣として厚遇することを条件に、
援軍は来ないからあきらめて
城を明け渡すべきと虚偽の情報を
城に伝えるよう、鳥居強右衛門に命令しました。
さすれば長篠城兵の士気は急落して、
城はすぐにでも自落すると考えたのでした。
鳥居強右衛門は武田勝頼の命令を
表向きは承諾し、長篠城の西岸の
見通しのきく場所へと引き立てられました。
けれども最初から死を覚悟していた
鳥居強右衛門は、あと二、三日で
援軍が来るからそれまで
持ちこたえるようにと
城に向かって叫んだのでした。
これを聞いた武田勝頼は怒り、
その場で部下に命じて
鳥居強右衛門を殺めました。
しかし、この強右衛門の
決死の報告のおかげで
「援軍近し」の情報を得ることができた
奥平貞昌と長篠城の城兵たちは、
鳥居強右衛門の死を
無駄にしてはならないと
大いに士気を奮い立たせ、
援軍が到着するまでの二日間、
武田軍の攻撃から城を
守り通すことに成功しました。
【信長、感銘を受ける】
援軍の総大将であった織田信長も、
長篠城の味方全員を救うために
自ら犠牲となった鳥居強右衛門の最期を知って
感銘を受け、鳥居強右衛門の忠義心に
報いるために立派な墓を
建立させたと伝えられています。
【子孫】
強右衛門の子孫は、
高名となった鳥居強右衛門の通称を
代々受け継ぎました。
鳥居強右衛門勝商の子・鳥居信商は、
父の功により100石を与えられ、
奥平貞昌の子・松平家治に付属しました。
松平家治が早世すると
奥平貞昌の許に戻り、関ヶ原の戦いに従軍、
京都で安国寺恵瓊を捕縛する
大功により200石に加増されました。
その後、奥平貞昌の末子・松平忠明が
徳川家康の養子として分家
(奥平氏の支流。現埼玉県行田市にあった忍藩で
明治維新を迎えた奥平松平家)を興すに至り、
鳥居信商を家臣にもらい受けています。
また、13代目の鳥居商次が家老になるなど、
子孫は家中で厚遇されました。
鳥居強右衛門の家系は
現在も存続しています。
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【逸話】
<最期>
鳥居強右衛門の死については
「斬られて死んだ」
「磔にされた」の2種類が伝わっています。
一般には「磔にされた」とする逸話が
有名であり、磔にされている
鳥居強右衛門の姿を描いた
旗指物の絵が現在に伝わっています。
鳥居強右衛門の記録のうち
最も古いものは「甫庵信長記」で、
「三河物語」がこれに次ぎます。
それ以前の「信長公記」などには
この件についての記述は全く見られません。
また、上記の死以外にも、
「甫庵信長記」と「三河物語」では
内容に異なる部分があるとのことです。
<鈴木 金七郎 重政>
鳥居強右衛門が長篠城を脱出する際、
鈴木 金七郎 重政
(すずき きんしちろう しげまさ)
という名の足軽が同行、
または第二の使者として
続いたとする説もあります。
「総見記」「常山紀談」「長篠日記」には、
鈴木金七郎が鳥居強右衛門と共に
長篠城を脱出し、岡崎城への使者となった
旨が記されています。
新城市所在の禅源寺の古文書にも
同様の記述があり、
川路村(現・新城市川路)にも同様の伝承があります。
「四戦紀聞」「武徳大成記」には
鳥居強右衛門の後を追う形で
鈴木金七郎が派遣されたことが
記されています。
が、「寛永諸家系図伝」
「寛政重修諸家譜」の奥平家系図の記載や
「三河物語」には鈴木金七郎についての
記述は見られないとのことです。
また、鳥居強右衛門と共に
鈴木金七郎が使者になったとする
上記の各資料においても、
援軍要請の役目を果たした後に
長篠城へ向かって
引き返したのは鳥居強右衛門だけで、
鈴木金七郎はそのまま岡崎城に残り、
鳥居強右衛門のように
英雄として名を残すことは
なかったとされています。
<辞世の句>
鳥居強右衛門は死を覚悟で
長篠城を脱出する際、
「我が君の命に代わる
玉の緒の何いとひけむ
武士(もののふ)の道」
という辞世の句を残したと
伝えられています。
主君を助けるためには
自分の命を犠牲にすることも
いとわない武士道の理想を
象徴する和歌とされていますが、
この和歌の原文が記されている
「甫庵信長記」は、
鳥居強右衛門の死から
50年近くも後の江戸時代初期に
書かれたものであり、
この和歌が実際に
鳥居強右衛門本人の作であるという
保証はない、とのことです。
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<落合左平次道久>
旧説では、鳥居強右衛門が
磔にされるまでのわずかな間、
鳥居強右衛門の監視をしているうちに
親しくなったという「武田家」の家臣である
落合左平次道久が、
鳥居強右衛門の忠義心に感動し、
磔にされている鳥居強右衛門の姿を
絵に残して、これを旗指物として
使ったとされており、
これを描き直した物が
現存しています。
しかし、近年の研究によって
落合左平次道久はその時点では
「徳川家」の家臣で、
徳川家康の本隊に所属していたため、
鳥居強右衛門の最後を
見届けることは不可能であり、
この旧説は創作である
可能性が高いとのことです。
<後年の評価>
鳥居強右衛門の主家である奥平家では、
家運を高めたこの戦を後に
「開運戦」と呼び、徳川家康の
縁者となった奥平貞昌は
岡崎譜代の家臣に引けをとらぬ
待遇を獲得しました。
鳥居強右衛門の命を賭して
主君への忠義を尽くした行為は
高く評価され、明治から太平洋戦争時までの
国定教科書でも紹介されていました。
<駅名と墓>
JR東海飯田線の鳥居駅は、
鳥居強右衛門の最期の地にちなんでの
命名となっています。
また、鳥居強右衛門の妻の故郷である
作手村(新城市作手)の甘泉寺には、
織田信長が鳥居強右衛門を弔うために
建立させたと伝えられる墓が
今でも残っています。
<「戦国の走れメロス」>
かつてTBSテレビ系列で放送されていた
歴史バラエティー番組の
「世紀のワイドショー!ザ・今夜はヒストリー」
2012年1月18日放送の
「まるごと2時間織田信長SP」では、
長篠城の味方全員を救うために
命を捨てて往復130kmの
山道を走り通した鳥居強右衛門を
「戦国の走れメロス」と呼んで
称賛していました。
2023年NHK大河ドラマ
「どうする家康」では
岡崎体育(おかざきたいいく)さんが
演じられます。
奥平信昌~攻防最前線である奥三河の国人、徳川家康の娘婿となり、武田軍猛攻の中長篠城を死守する。
長篠・設楽原の戦いの古戦場~織田・徳川連合軍と武田軍の決戦の地です。
長篠城 (日本100名城)~城をめぐる激しい攻防戦で有名、国の史跡に指定されています。
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