斎藤利治(さいとう-としはる)は、戦国時代の1541年頃に生まれた斎藤道三の末子と考えられる武将で、最初は斎藤新五郎と称しました。
母は、明智一族の出である小見の方となります。
父・斎藤道三は、1556年、嫡男・斎藤義龍との長良川の戦いにて討死します。
この時、斎藤新五郎は、美濃を脱出したようで、母・小見の方が産んだ姉・濃姫(帰蝶)の縁を頼って織田信長に取り立てられた模様です。
斎藤道三が織田信長に「美濃国譲り状」を差し出していますが、斎藤利治が直接届けた可能性が高いと考えられています。
元服すると斎藤利治(斎藤長龍)と改名しましたが、斎藤長竜、斎藤利興、斎藤利宣、斎藤政興、斎藤治隆、斎藤忠次とも名乗っています。
織田信長は、正室・濃姫の弟にあたる斎藤利治に、美濃・斎藤家を継がせる考えもあったようです。
スポンサーリンク
斎藤利治は武勇もあったようで、織田家にて数々の戦功を挙げています。
1565年には、加治田城主・佐藤忠能らと岸信周の堂洞城と、長井道利の美濃・関城を落としています。
しかし、堂洞城の戦いにて、佐藤忠能の子・佐藤忠康が討死したため、佐藤忠能の娘と結婚して佐藤忠能の養子となりました。
そして、1567年に佐藤忠能が隠居すると家督を継いでいますので、完全に織田家の家臣となったようです。
斎藤利治は生涯側室は迎えていませんが、このように実直であり、人物・人柄も優れていたようで、湯浅新六ら加治田衆の家臣らも一致団結し、合戦に強かったようです。
そのことを織田信長も理解していたのか、領地替えが多い織田家において、斎藤利治はずっと加治田城を中心に加増され何十万石となり、飛騨の姉小路頼綱と交渉も担当しました。
また、合戦に出陣した際には、兄・斎藤利堯に加治田城の留守を任せています。
1568年には六角義賢への攻撃、1569年には、伊勢・大河内城の戦いにも参じています。
1570年も、近江・小谷城の戦いでは、森可成・坂井政尚らと雲雀山城を攻略などし、織田信長より称賛されています。
その後も、姉川の戦いにも参陣し、石山本願寺との戦いでは、稲葉一鉄・中川重政らと共に砦を死守しています。
1572年、三好義継が松永久秀と共謀して畠山昭高と敵対した際には、柴田勝家など交野城の戦いにも参じています。
1573年には、高屋城への攻撃にも加わり、足利義昭が槇島城に籠城すると安藤守就らと先鋒も務めています。
その後の朝倉攻めでは、斎藤義龍の子・斎藤龍興との刀禰坂の戦いでも勝利に貢献しています。
1574年、伊勢長島一向一揆の鎮圧でも、織田信長より比類なき働きと褒められました。
また、織田信忠を大将に蜂屋頼隆、河尻秀隆、森長可、佐藤秀方らと、美濃・岩村城の戦いにも向かっています。
1576年に、織田信忠が岐阜城主になり、織田信長の正室・濃姫の養子となると、斎藤利治は信忠付きの家老となりました。
1577年には、柴田勝家の軍勢に滝川一益・羽柴秀吉・丹羽長秀らと加わり、上杉謙信との手取川の戦いとなっています。
その後も、斎藤利治の戦歴はすさまじく、1578年には神保長住への援軍として越中・太田本郷城に入り、月岡野の戦いにて河田長親ら上杉勢を撃破しています。
1579年、荒木村重が謀反を起こした有岡城の戦いでも、勇猛果敢に城攻めを行いました。
その後、ケガをしたのか病気になったのか?、合戦に参じた記録が無くなります。
また、織田信長などより、加治田城にてゆっくりと一族(家族)と共に所労(休養)をするようにとの命も下されているのが見受けられます。
1582年、明智光秀が本能寺の変にて織田信長を襲撃した際に、斎藤利治は、織田信忠に仕えて二条・妙覚寺にいました。
織田信忠が、本能寺に駆け付けると言うと、斎藤利治ら側近は、逃亡するようにと諭します。
しかし、村井貞勝の二条新御所(二条城)にて迎え撃つべきと言う話を織田信忠は採用しています。
結果的に、二条城も明智勢に包囲され、織田信忠は自刃しては、斎藤利治も同じ美濃斎藤氏一族で義兄の斎藤利三による攻撃で討死しました。
スポンサーリンク
子には、斎藤義興(斎藤新五郎)と、市郎左衛門がおり、岐阜城の留守を守っていた伯父・斎藤利堯が加治田城に戻り後見しました。
しかし、後継が立てられなかったことから、家臣らは美濃・金山城の森長可に従ったため、最終的に斎藤義興は池田輝政に仕え、市郎左衛門は越前・松平家の松平直基に仕官したともあります。
娘・蓮与は浅井長政の家臣・速水時久に嫁ぎ、速水守久らを産んでいます。
→織田信長と言う人物に迫る~【織田信長】の性格・人柄は?
→斎藤道三についてはこちら
→斎藤義龍~斎藤道三の嫡男として斎藤家を率いるも・・
→お濃(濃姫、お濃の方、帰蝶、鷺山殿)~謎多き道三の娘の生涯
→西美濃三人の稲葉一鉄とは~曽根城主の稲葉貞通と深芳野も
→織田信忠とは 5分で生涯の活躍をご紹介
→岐阜城(稲葉山城)は戦国時代ではない今でも賑わっていた
この記事へのコメントはありません。