【平蔵城】
平蔵城は、市原市平蔵の
通称阿弥陀畑の突き出した
丘陵地が主城で、城山と呼ばれています。
出城は平蔵元宿の東陽寺境内に続いた
南方に突き出した丘陵が城址となっており、
城山と呼ばれています。
「じょうやま」の呼称は
城山より以前の城郭地にあり、
城山(平蔵城)が完成したのちに、
再度使用して出城としたものとみられ、
虎口の土塁も残っています。
土橋平蔵が市原郡に来て、
最初に築いた城が古城台といわれ、
時代とともに戦闘形態が変化するに従って
「城山」に移り、最後に「城山」に
平蔵城を完成したものと考えられています。
何代かのちの土橋平蔵将経(政常)は、
三宝に帰依し、平蔵城の鬼門守護のために、
明応4年(1495年)に
七堂伽藍を建てさせ、西願寺と名付けたとのことです。
また、字平沢に通称コデジョウ(古代城)
という半島状の突出丘陵があります。
これは「こじょうだい」
が変化したものであるといわれ、
このあたりは、市原市でも
もっとも高い山間部で、
南北朝時代の山城に
似ているところとのことです。
高所は平坦地で、
西南部に向かって段丘となり、
数郭を構成しているとのことです。
阿弥陀畑の城山は、
東側だけが傾斜地となって
城郭入口は道路になっているとのことです。
現在は崖下に国道297号線が、
牛久から大多喜町に走っていますが、
国道の東側は城郭地刀先端にあたります。
その下に平蔵川が蛇行しながら
西に流れ、城郭の裾を回って
元宿方面へ流れています。
この平蔵川は、根古屋城と平蔵城および
城山の出城の裾を流れ、
水堀の要害をなしています。
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平蔵城の東北には、
鬼門除けとして土橋平蔵将経の
建てた西願寺光堂(阿弥陀堂)
(天台宗、国指定重要文化財)があります。
堂には阿弥陀如来を安置し、
天井は総金箔を施して、
下は朱塗りとしたため、
金色に輝いたことから阿弥陀堂のことを
別名、光堂と呼ぶようになったとのことです。
光堂は、昭和2年の解体修理の時、
鎌倉の住人左衛門三郎と
九郎二郎の名人大工二人が
建てたことが墨書銘で判明したとのことです。
城郭西側の最奥地が、
くびれて尾根状の要害となって、
山に連なり、古沢城はその山陵の西方にあって、
土橋平蔵忠勝の居城と伝えられています。
南側は谷を隔てて丘陵が連なり、
通称浅間山といわれる
根古屋城(上総之本一揆の拠点)
を望むことができます。
平蔵城までは、
京成電鉄干葉駅前か国鉄千葉駅前、
あるいは上総牛久駅前通りのバス停から
大多喜行きの小湊バスに乗り、
平蔵の阿弥陀畑で下車とのことです。
ただし、バス運行に関しては、
最新の情報を得たうえでご利用ください。
山陵が平蔵城で、道路を隔てた反対側が
西願寺となります。
城郭正面の国道297号線の平蔵橋を渡ると、
切通しになっているとのことです。
その右于を登ると城郭の一部で、
現在は住宅地です。
ここを通過すると、
左右には高低のある各郭が
西南に連続しており、
複雑な地形を巧みに
利用しているとぼことです。
しばらく山道を登ると
急に右折した坂道に差しかかります。
ここには民家が一軒あり、
裏手の崖には湧水があります。
この宅地の東側は、
一段と高くて眺望がよい本丸にあたる所で、
20~30aの平坦地となっており、
現在は山林に覆われているとのことです。
宅地の坂下の細道は
西南方面に続いており、
右に郭がみられます。
この郭の北側に土塁が築かれ、
西南部の台地基部まで続いています。
平蔵城の築城年代については、
明らかにする文献が殆どないとのことです。
西願寺(天台宗)の縁起にりますと、
明応4年(1495年)に
阿弥陀堂(通称光堂)を寄進したのが
土橋半蔵将経(政常)であるとのことです。
そのほかは安土桃山時代に
上橋守秀と土橋忠吉とが知られているだけで、
その他の城主については不明です。
西願寺は寛政年間(1789年~1801年)に
全焼したため、伽藍から離れていた
阿弥陀堂(光堂)だけが難を免れたのでした。
築城者は、土橋平蔵と伝えられており、
村落名もこの平蔵から
取ったものと考えられています。
土橋平蔵は、紀伊出身といわれ
承平年間(931年~938年)に、
ここに城を築いたと
「里伝」にあるそうですが、
正確なことはわかってはいません。
なお城の構造は南北朝時代と
みられているとのことです。
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なお、安土桃山時代には
土橋守秀がおり、
夷隅町荻原の行元寺を支援して
再興に尽力したといわれています。
(「大多喜城物語」)。
また、城主として
土橋平蔵忠吉がいましたが、
天正18年(1590年)に
豊臣秀吉の差し向けた軍に攻撃されて、
平蔵城から長南町の蔵持の平蔵谷に逃れ、
そこで自刃したと伝えられています。
蔵持にあった土橋忠吉の墓石は、
その後、光堂の前庭隅に移されています。
このほか、戦国時代においても
土橋氏は数代続いたとみられていますが、
現在は代々の墓所がどこにあるのか
不明となっています。
(日本城郭大系)
【所在地】
〒290-0524 千葉県市原市平蔵354
【駐車場】
城専用の駐車場はありません。
西願寺阿弥陀堂には
参拝者用の駐車場があります。
西願寺 阿弥陀堂(千葉県)~金色に輝いていたことから光堂の別名を持つ重文のお堂です。
大多喜城~築城は真里谷信清、徳川四天王の本多忠勝が城主となり今日の大多喜城となります。
万喜城~築城は上総土岐氏と伝えられており、本多忠勝が一時居城していました。
上総・笹子城~築城は室町時代に真里谷信興によって築かれ、真里谷武田氏の内紛に記されているとのことです。
真里谷城~武田信長が築城し真里谷武田氏の本拠地となった城と云われています。
大柳館~代々の上総氏居館との伝承あり、上総広常死去後は千葉氏が拝領しました。
富喜楽城~前方後円墳を取り込んだお城、すぐ近くには大柳館があり、古墳時代から人々の営みがありました。
成東城~築城は応永年間で千葉氏家臣の印東氏、比較的遺構が残っているとのことです。
坂田城~千葉氏によって築城され、周辺には支城が複数あり当時は要害の地でした。
桜井城~千葉常胤の六男・東胤頼の最初の居城と伝わる城跡で廃城は江戸時代初期でした。
大友城~千葉氏の祖である平良文の居城と伝わり、平常持、常将、常長、常兼が居城したとのことです。
森山城~鎌倉時代初期に千葉常胤の子である東胤頼が築城し東氏が居城、常陸国との水運の要地でした。
小見川城~千葉氏の一族である粟飯原氏の居城、現在は小見川城山公園となっています。
勝見城~上総広常の弟の金田頼次が築城と伝えられており、戦国期は庁南武田氏の所領となりました。
一宮城(上総国)~築城は南北朝との伝承で戦国期には正木氏の支配下でした。
本納城~里見氏の支城から士気酒井氏が統治した中世山城の遺構が多くある貴重な城址。
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