史跡・城跡

飛鳥寺と蘇我入鹿の首塚~飛鳥寺の開基は蘇我馬子で日本最古のお寺です。

飛鳥寺 山門



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【飛鳥寺】

飛鳥寺(あすかでら)は、
奈良県高市郡明日香村飛鳥にある
真言宗豊山派の寺院です。
山号は鳥形山(とりがたやま)
本尊は「飛鳥大仏」と通称される釈迦如来です。
現在は正式には安居院といいます。
開基(創立者)は蘇我馬子で、
蘇我氏の氏寺である法興寺(仏法が興隆する寺の意)
の後身となります。
思惟殿は新西国三十三箇所第9番札所で本尊は聖観音です。

飛鳥寺略縁起

【寺号】
飛鳥寺には複数の呼称があります。
法号は「法興寺」または「元興寺」(がんごうじ)であり、
平城遷都とともに今の奈良市に移った寺は
「元興寺」と称します。
一方、蘇我馬子が建立した法興寺中金堂跡に
今も残る小寺院の公称は「安居院」(あんごいん)です。
「日本書紀」では「法興寺」「元興寺」
「飛鳥寺」などの表記が用いられています。
古代の寺院には「飛鳥寺」「山田寺」「岡寺」
「橘寺」のような和風の寺号と、
「法興寺」「浄土寺」「龍蓋寺」のような
漢風寺号(法号)とがあります。
なお、国の史跡の指定名称は「飛鳥寺跡」です。

【創建】
飛鳥寺(法興寺)は蘇我氏の氏寺として
6世紀末から7世紀初頭にかけて
造営されたもので、
本格的な伽藍を備えた
日本最初の仏教寺院となります。

「日本書紀」によりますと、
法興寺(飛鳥寺)は
用明天皇2年(587年)に
蘇我馬子が建立を発願したものとなります。
蘇我馬子は排仏派の物部守屋と対立していました。
蘇我馬子は物部守屋との戦いに際して勝利を祈念し、
「諸天と大神王の奉為(おほみため)に
寺塔(てら)を起立(た)てて、
三宝を流通(つた)へむ」と誓願し、
飛鳥の地に寺を建てることにしたということです。
古代の「飛鳥」の地とは、飛鳥川の右岸(東岸)の、
現在の飛鳥寺境内を中心とする
狭い区域を指していたとのことです。

飛鳥寺 周辺

一方、天平19年(747年)成立の
「元興寺縁起」によりますと発願の年は
「丁未年」(587年)とし、
発願の年自体は「書紀」と同じながら
内容の異なる記載があります。
「元興寺縁起」によると丁未年、
三尼(善信尼、禅蔵尼、恵善尼)は
百済に渡航して受戒せんと欲していましたが、
「百済の客」が言うには、
この国(当時の日本)には尼寺のみがあって
法師寺(僧寺)と僧がなかったので、
法師寺を作り百済僧を招いて
受戒させるべきであるということです。
そこで用明天皇が後の推古天皇と
聖徳太子に命じて寺を建てるべき土地を
検討させたということです。
当時の日本には、前述の三尼がおり、
蘇我馬子が建てた
「宅の東の仏殿」
「石川の宅の仏殿」
「大野丘の北の塔」などの
仏教信仰施設はありましたが、
法師寺(僧寺)と僧はなかったとみられています。

「書紀」によりますと、
翌崇峻天皇元年(588年)、
百済から日本へ僧と技術者
(寺工2名、鑢盤博士1名、瓦博士4名、画工1名)
が派遣されたとのことです。




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「書紀」の推古天皇元年正月15日
(593年2月21日)の条には
「法興寺の刹柱(塔の心柱)の礎の中に仏舎利を置く」
との記事があり、
翌日の16日(2月22日)に「刹柱を建つ」とあります。

「書紀」の推古天皇4年(596年)11月条に
「法興寺を造り竟(おわ)りぬ」
との記事があるとのことです。
「書紀」は続けて、
蘇我馬子の子の善徳が寺司となり、
恵慈(高句麗僧)と
恵聡(百済僧)の2名の僧が
住み始めたとあるとのことです。

【ご本尊の造立】
飛鳥寺本尊の釈迦三尊像(鞍作止利作)の造立が
発願されたのはそれから
9年後となる推古天皇13年(605年)、
像の完成はさらに後のことで、
その間、寺はあるけれども
本尊は存在しなかったということになります。
この点については、様々な見解が唱えられましたが、
寺の中心的存在で仏舎利を祀る塔がまず完成し、
他の堂宇は長い年月をかけて
徐々に完成したという説が
有力となっています。

【伽藍について】
飛鳥寺の伽藍については、
発掘調査実施以前は
四天王寺式伽藍であると考えられていました。
けれども昭和31年(1956年)から
昭和32年(1957年)の発掘調査の結果、
当初の飛鳥寺は中心の五重塔を囲んで
中金堂、東金堂、西金堂が建つ
一塔三金堂式の伽藍であることが確認されました。

【本尊の造立】
「書紀」では推古天皇13年(605年)、
天皇は皇太子(聖徳太子)、
大臣(蘇我馬子)、諸王、諸臣に詔して、
銅(あかがね)と繡(ぬいもの)の
「丈六仏像各一躯」の造立を誓願し、
鞍作鳥(止利)を造仏工としました。
そして、これを聞いた高麗国の大興王から
黄金三百両が貢上されたということです。
「書紀」によりますと、
銅と繡の「丈六仏像」は
翌年の推古天皇14年(606年)完成。
丈六銅像を元興寺金堂に安置しようとしたところ、
像高が金堂の戸よりも高くて入らず、
戸を壊そうと相談していたところ、
鞍作鳥の工夫によって、
戸を壊さずに安置することが
できたという挿話が記述されています。
一方、「元興寺縁起」に引く
「丈六光銘」(「一丈六尺の仏像の光背銘」の意)には
乙丑年(推古天皇13年、605年)に
銅と繡の釈迦像と挟侍を「敬造」したとあります。
「書紀」と「丈六光銘」とでは、
銅造の本尊(飛鳥大仏)の完成年次について
3年の差があります。
この点については、
「書記」の編者の誤認や、
当時の技術水準で、丈六の銅仏が
1年足らずで完成するとは
考えにくい点などから、
本尊(飛鳥大仏)の完成は
609年とするのが通説となっています。

【隆盛と官寺化】
やがて飛鳥寺は蘇我氏の氏寺に留まらず
仏教隆昌の中心地になっていきました、
推古天皇17年(609年)には
漂流した百済僧道欣ら11人が、
同33年には高句麗僧の慧灌が、
ついで呉人の僧福亮、智蔵が相次いで入寺しています。
飛鳥白鳳期にあっては
彼ら渡来僧が学問仏教の先駆をなし、
特に恵慈、慧灌、福亮、智蔵は
三論宗を学んだとされ、
飛鳥寺はその教学の中心にあったとのことです。
一方で法相宗の祖といわれる道昭も
飛鳥寺で得度したのち唐に渡り玄奘に師事。
その後、帰国した道昭は飛鳥寺に禅院を建て、
唐から持ち帰った経典の数々や
弟子の学僧と共に居住したとのことです。
以上のように飛鳥寺は当時の日本における
仏教教学の研究機関としての機能を有した
唯一の寺院であり、
やがて朝廷からの庇護を
受けるようになったと考えられてます。

<飛鳥寺 庭園>
飛鳥寺 庭園

【国家の寺院として】
皇極天皇4年(645年)に乙巳の変で
蘇我本家が滅亡します。
飛鳥寺は中大兄皇子と
中臣鎌足の出会いの場や
蘇我氏討伐の本陣になるなど、
朝廷との強い関係性がうかがえます。
飛鳥寺はこの頃までには
蘇我氏の氏寺の域を超えて
国家の寺としての実力を備えていたと考えられます。
天武天皇の時代には官が作った
寺院(官寺)と同等に扱うように
とする勅が出され、
文武天皇の時代には
大官大寺・川原寺・薬師寺と並ぶ
「四大寺」の一とされて
官寺並みに朝廷の保護を
受けるようになったのでした。
これに関連して
飛鳥寺近くの飛鳥池工房遺跡からは
大量の富本銭が発見され、
飛鳥寺との関係も含めた位置づけについて、
様々な議論が行われています。




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【平城遷都以後】
都が平城京へ移るとともに
飛鳥寺も現在の奈良市に移転し元興寺となりました。
「続日本紀」には霊亀2年(716年)に
元興寺を左京六条四坊に移すとあり、
養老2年(718年)条にも
法興寺を新京へ移すとあって
記述が重複しています。
このうち前者の「左京六条四坊」は
大安寺の場所にあたることから、
霊亀2年の記事は大安寺(大官大寺)の
移転のことが誤記されたもので、
飛鳥寺(元興寺)の移転は
養老2年のことと考えられています。

蘇我馬子が飛鳥に建てた元の寺も
本元興寺と称して存続し、
平安時代にいたっても朝廷から
南都七大寺に次ぐ扱いを受けていたことが
記録に残っています。
江戸時代に著された「本元興寺縁起」に、
仁和3年(887年)に焼失したとありますが、
他の記録には残っていないとのことです。

【衰運期】
11世紀ごろになりますと
衰運に見舞われるようになります。
「上宮太子拾遺記」には
保元3年(1158年)の記として
飢饉に窮して百済伝来の
弥勒菩薩石像を
多武峰山妙楽寺(現在の談山神社)に
売り払ったと記録されています。
また、建久7年(1196年)には
雷火で塔と金堂を焼失しました。
以後寺勢は衰えて室町時代以降は
廃寺同然となってしまったとのことです。
法隆寺僧・訓海の「太子伝玉林抄」では、
文安4年(1447年)の時点で
飛鳥寺の本尊は露坐であったことが分かっています。

明日香村

【廃寺同然から再建への道】
以降200年あまりの歴史は定かではありません。
「元興寺安居院縁起」(1699年)には、
江戸時代の寛永9年(1632年)に
今井の篤志家によって仮堂が建てられ、
ついで天和元年(1681年)に
僧・秀意が草庵をつくり安居院と号し、
傷んだ釈迦如来像を補修したとあります。
江戸時代中期の学者である本居宣長の
「菅笠日記」には、彼が明和9年(1772年)に
飛鳥を訪ねた時の様子が書かれています。
それによりますと当時の飛鳥寺は
「門などもなく」「かりそめなる堂」に
本尊釈迦如来像が安置されるのみだったということです。
しかし、近世中頃から名所記や
地誌に名が挙げられ、
延享2年(1745年)には
梵鐘を鋳造(昭和に軍に供出され現存せず)、
寛政4年(1792年)に参道入口に立つ
「飛鳥大仏」の石碑、
文政9年(1826年)に
大坂の篤志家の援助で
現本堂の再建など
法灯を守る努力が重ねられてきたのでした。

【国の史跡に指定】
また昭和31(1956年)からの発掘調査によって、
創建当初の伽藍が明らかになってきました。
現在の飛鳥寺本堂の建つ場所は
まさしく蘇我馬子の建てた
飛鳥寺中金堂の跡地であり、
本尊の釈迦如来像(飛鳥大仏)は
補修が甚だしいとはいえ
飛鳥時代と同じ場所に
安置されていることが分かり、
昭和41年(1966年)には
飛鳥寺跡として国の史跡に指定されました。

蘇我入鹿の首塚】
なお、飛鳥寺の西には蘇我入鹿と伝わる
首塚があります。




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【釈迦如来像(飛鳥大仏)】
飛鳥寺(安居院)の本尊で、飛鳥大仏の通称で知られています。
昭和15年(1940年)に重要文化財に指定されており、
指定名称は「銅造釈迦如来坐像(本堂安置)1躯」です。
像高は275.2センチメートル。

【かつての伽藍】
飛鳥寺の伽藍は、往時は塔(五重塔)を中心とし、
その北に中金堂、塔の東西に東金堂・西金堂が建つ、
一塔三金堂式伽藍配置という方式の
伽藍の配置がされていました。
これらの1塔、3金堂を回廊が囲み、
回廊の南正面に中門がありました。
講堂は回廊外の北側にありました。
四天王寺式伽藍配置では
講堂の左右に回廊が取り付くのに対し、
飛鳥寺では仏の空間である回廊内の聖域と、
僧の研鑚や生活の場である講堂
その他の建物を明確に
区切っていたことがうかがわれます。
以上を囲むように築地塀が回り、
中門のすぐ南には南門、
西側には西門があったことも
発掘調査で判明しています。

<西門跡>
飛鳥寺 西門跡

<西門跡の現在>
飛鳥寺 西門跡 現在

塔跡は、壇上積基壇(切石を組み立てた、格の高い基壇)、
階段、周囲の石敷、地下式の心礎などが残っていましたが、
心礎以外の礎石は残っていませんでした。
心礎は地下2.7mに据えられ、
中央の四角い孔の東壁に
舎利納入孔が設けられていました。
舎利容器は建久7年(1196年)の
火災後に取り出されて再埋納されており、
当初の舎利容器は残ってはいませんが、
発掘調査時に玉類、金環、金銀延板、
挂甲、刀子などが出土しました。
出土品からは、この寺が古墳時代と
飛鳥時代の境界に位置することがうかがえます。
心礎の加工跡より、
心柱は一辺が約1.5mの角柱であったと考えられています。

中金堂跡は、壇上積基壇跡が残っていますが、
基壇上の礎石は残ってはいませんでした。
「護国寺本諸寺縁起集」では、
中金堂は「三間四面 二階 在裳階」の建物で、
身舎(内陣)の柱間が正面3間、側面2間、
その周囲に庇(外陣)が廻り
(建物の外側から見ると正面5間、側面4間)、
重層の建物であったとみられます。
裳階(もこし、本来の屋根の下に設けた屋根)は
当初からあったものかどうかは不明です。

東西金堂跡の基壇は下成(かせい)基壇上に
玉石を並べた上成(じょうせい)基壇を築いた
二重基壇で、塔・中金堂の壇上積基壇よりは
格の下がるものでした。
二重基壇のうち上成基壇の礎石は失われ、
下成基壇には小礎石が並んでいました。
この小礎石がどのように
用いられたかは不明ですが、
深い軒の出を支えるための
小柱が並んでいたものと推定されています。
「七大寺巡礼私記」には東金堂には
百済伝来の弥勒菩薩石造、
西金堂には金銅像とともに作られた繡仏を
祀っていたと記されています。

中門は礎石の残りがよく、
正面3間、奥行3間で、
法隆寺中門のような
重層の門であったと推定されています。
奥行が深い(3間)のが
上代寺院の中門の特色です。
南門も礎石の残りがよく、
正面3間、奥行2間で、
切妻造の八脚門であったと推定されています。




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昭和52年(1977年)の調査で、
寺域北限の掘立柱塀と石組の溝が検出されました。
昭和57年(1982年)の調査では、
寺域北側を区切る塀が南方に折れ曲がる地点、
すなわち、寺域の北東隅が確認されました。
この結果、飛鳥寺の寺域は従来推定されていたより広く、
南北が324mに達することが分かりました。
東西の幅については、寺域北端の塀の長さは
約210mですが、
この塀の東端は南方へ
直角に折れるのではなく、
南東方向へ鈍角に折れており、
寺域は南側がやや広い台形状になっています。
主要伽藍はこの寺地の中央ではなく
南東寄りに建てられており、
寺域の東部と北部には
さまざまな附属建物が存在したと
推定されています。
寺の西側には槻木の広場に
関係すると思われる石敷遺構が見つかり、
これに面する西門は南門よりも
規模が大きいことも分かりました。
また、寺内の東に
飛鳥池工房遺跡が発見されました。

【現在の境内】
◆本堂
文政9年(1816年)再建。
本堂の前には金堂の礎石が残っています。

飛鳥寺 本堂

◆庫裏
◆庭園
◆思惟殿
新西国三十三箇所第9番札所で聖観音を祀っています。
◆西門
飛鳥寺 西門

◆鐘楼
◆万葉池
◆山門
◆飛鳥大仏標石
山門の前に立つ寛政4年(1792年)
に建てられた「飛鳥大仏」の石碑。
法興寺が創建された際の礎石が
台石として使用されています。

◆飛び地
飛鳥寺研修会館「修徳坊」

【文化財】
<重要文化財>
◆銅造釈迦如来坐像(本堂安置)(彫刻)
昭和15年(1940年)10月14日指定。

<国指定史跡>
◆飛鳥寺跡
昭和41年(1966年)4月21日指定。

【拝観時間】
<4月1日~9月30日>
午前9時~午後5時30分まで
(受付は午後5時15分まで)

<10月1日~3月31日>
午前9時~午後5時
(受付は午後4時45分まで)

【休業日】
4月7日~4月9日

【拝観料】
一般・大学生:
350円(320円)
高校生・中学生:
250円(220円)
小学生:200円(170円)
()は団体料金(30名以上)

【駐車場】
有り
普通:500円
中型:2000円
大型:3000円




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【交通アクセス】
(電車・バス)
近鉄「橿原神宮前」駅東口よりバス
明日香周遊バス「飛鳥大仏前」バス停下車徒歩1分

【所在地】
〒634-0103 奈良県高市郡明日香村飛鳥682

【蘇我入鹿首塚】

飛鳥寺の境内を西に抜けたところに立つ五輪塔です。
大化の改新のとき、
飛鳥板蓋宮で中大兄皇子らに
暗殺された時の権力者であった
蘇我入鹿の首がそこまで飛んできたとか、
襲ってきた首を供養するために
そこに埋めたともいわれています。
五輪塔自体は鎌倉時代または
南北朝時代の建立と考えられています。
高さ149cmの花崗岩製で、
笠の形の火輪の部分が大きく、
軒に厚みがあるのが特徴です。

蘇我入鹿首塚

【所在地】
〒634-0103 奈良県高市郡明日香村飛鳥682

所要時間:20~40分程度
(飛鳥寺及び蘇我入鹿首塚)

飛鳥京跡~複数の都市遺跡であり大化の改新で中大兄皇子や中臣鎌足らが 蘇我入鹿を討ち果たした場所。

石舞台古墳~国内最大級の方墳で埋葬者は蘇我馬子だと有力視されています。

キトラ古墳~国の特別史跡で壁画は国宝となっており、天井には東アジア最古の天文図が描かれています。

高松塚古墳~築造年代は終末期古墳で飛鳥美人に代表される極彩色の壁画が有名です。

亀石~亀ですが蛙や上下逆さま説もある明日香村観光のシンボル的な石造物です。

藤ノ木古墳~国の史跡、盗難にあわず大切に守られてきた円墳で被葬者は2人の男性です。

氷室神社と氷室城跡(奈良市)~氷室を祀る古社の氷室神社は氷みくじが大人気で、戦国期は氷室城の伝承有り。

東大寺に行ってきました!~朝がおススメです!午前7時30分より

興福寺~藤原鎌足・不比等ゆかりの寺で世界遺産に登録されており阿修羅像が著名です。

春日大社~藤原氏の氏神を祀る全国の春日神社の総本社で世界遺産に登録されています。

薬師寺~後の持統天皇のために天武天皇が藤原京に開基、その後現在地に移転、世界遺産登録されています。

法隆寺に行ってきました!おススメ駐車場などの紹介。

法起寺~前身は岡本宮で境内が国の史跡で日本最古の三重塔があり、世界遺産に登録されている寺院です。

唐招提寺~鑑真開基の世界遺産の寺院~静かにゆっくりと過ごせます。

朝護孫子寺~信貫山の毘沙門さん~聖徳太子伝承のある寺院

安倍文殊院~安倍一族の氏寺として大化元年に創建、日本三文殊に数えられています。

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