【二階堂行政】
二階堂 行政(にかいどう ゆきまさ)は、
平安時代末期から
鎌倉時代初期にかけての下級貴族(官人)
及び鎌倉幕府の文官でした。
十三人の合議制の一人。
鎌倉幕府政所令(別当)、
代々政所執事を務めた二階堂氏の祖です。
二階堂の苗字は、
建久3年(1192年)11月25日に
建立された永福寺
(二階建ての仏堂があった)の周辺に、
二階堂行政が邸宅を構えたことに由来しています。
生没年は不詳です。
【官位】
主計少允、民部大夫、
鎌倉幕府十三人の合議制、
公文所寄人、政所令(別当)
【氏族】
藤原南家乙麻呂流二階堂氏の祖
【父】
工藤行遠
【母】
藤原季兼の娘(藤原季範の妹)
【子】
二階堂行村、
二階堂行光、
伊賀朝光室
【家系】
家系は藤原南家乙麻呂流工藤氏の流れ
で父は工藤行遠、
母は源頼朝の外祖父で
熱田大宮司・藤原季範の妹です。
【母親は源頼朝の祖父の妹】
「尊卑分脈・二階堂系図」によりますと、
工藤維遠、工藤維行が駿河守、
工藤維頼が遠江権守で代々従五位下。
「続群書類従・工藤二階堂系図」では
維遠、維行、維頼、行遠の4代が
遠江守に任官したことになっていますが、
いずれも二階堂氏として
家を興した後に作成された
系図である可能性が示唆されています。
けれども父である工藤行遠は
「尊卑分脈」傍注によりますと、
保延年間(1135年~1141年)に
遠江国司を殺害して尾張国に配流されたとあり、
おそらくそのときに熱田大宮司であった
藤原季範の妹との間に
二階堂行政が生まれているとのことです。
藤原季範の父は「尊卑分脈」によりますと、
三河国に住みながら尾張目代を務めており、
当時の受領国司の子弟が、
在地に勢力を張るという図式に当てはめますと、
工藤行政の祖父らは遠江・駿河などに
留住してある程度の勢力を持っていた
可能性があるとの事です。
【朝廷に仕えていた下級官人】
二階堂行政は下級官人として朝廷に仕え、
平家政権下の治承4年(1180年)正月の除目で
主計少允に任じられています。
(「玉葉」治承4年正月28日条)
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【鎌倉での経歴】
二階堂行政が「吾妻鏡」に登場する
初見は元暦元年(1184年)8月24日条です。
新造の公文所棟上げの奉行として
三善康信と共に登場しています。
この少し前に鎌倉に下向し、
母方が熱田大宮司家であった縁により
源頼朝に仕えたものと見られています。
同年10月6日条の新造公文所の吉書始では、
別当・大江広元(当時は中原)の元に
寄人として列席しています。
【朝廷への奥州合戦の報告を作成】
文治5年(1189年)7月、
奥州合戦では、「吾妻鏡」9月7日条の
藤原泰衡の郎従・由利八郎を
生虜った件での相論を奉行し、
また、その翌日の9月8日条には、
朝廷への奥州合戦の次第を
報告するにあたってそれを
二階堂行政が書いたことが記されています。
【諸事奉行人の筆頭】
建久元年(1190年)9月15日条の
源頼朝の上洛では路次の事、
貢金、その他全体の雑事を沙汰する
諸事奉行人の筆頭に二階堂行政の名が見えます。
その他、この時期「吾妻鏡」に見える沙汰等に
二階堂行政の名が多く見られており、
「吾妻鏡」建久2年(1191年)1月15日条に
政所では別当・大江広元に次ぐ政所令として
「主計允藤原朝臣行政」とあります。
【民部大夫】
その後の建久4年(1193年)、
五位に叙され民部大夫と呼ばれるようになります。
同年に政所別当が複数制になった時に
別当に昇格しました。
【大江広元を補佐】
政所において大江広元を補佐し、
大江広元が在京して不在の折には
代わって政所の業務を統括していました。
【十三人の合議制のメンバー】
正治元年(1199年)4月12日条には
源頼朝の跡を継いだ源頼家が直に
諸訴論に関与することを停止し、
13人の重臣が合議して
決定することになったとありますが、
その中に民部大夫行政の名も入っています。
【初期の鎌倉政権を支えた実務官僚】
大江広元、
三善康信、
中原親能らと並んで
初期鎌倉政権を支えた
実務官僚であったことがうかがえます。
【源実朝期で署名からは姿を消す】
源実朝将軍期になると
政所下文の署名から姿を消しています。
没年は不明です。
・将軍(源頼朝)家政所下文案《肥前龍造寺文書》 『鎌倉遺文』715
「将軍家政所下 肥前國小津東郷内龍造寺田畠住人
補任地頭職事 藤原季家
右人、補任彼職之状、所仰如件、住人承知、莫遺失、以下
建久五年二月廿五日 案主清原在判 知家事中原
令大蔵丞藤原在判
別當前因幡守中原朝臣在判 散位藤原朝臣在判」
広元(別當前因幡守中原朝臣)の後に
二階堂行政(散位藤原朝臣)の署名があります。
(引用元:ウキペディアより)
【二階堂行政の子孫】
その子孫は二階堂氏を名乗り、
二階堂行光系が政所執事をほぼ世襲しました。
もう一人の子である二階堂行村は
建暦3年(1213年)の和田合戦における
5月4日条において
「山城判官行村奉行たり。行親・忠家これを相副う」
とあり、軍奉行として
合戦記及び論功行賞を取り纏めています。
この家は代々検非違使を世襲したのでした。
二階堂行政、二階堂行光、二階堂行村の筆録は
「吾妻鏡」の編纂において
かなり利用されていると見られ、
「吾妻鏡」元久元年(1204年)9月15日条、
建保元年(1213年)12月19日条などには
二階堂行光を顕彰する記事も見られます。
2022年NHK大河ドラマ
「鎌倉殿の13人」では
野仲イサオ(のなかいさお)さんが演じられます。
源頼朝の生涯~武家政治の創始者~武家源氏の主流の御曹司でイケメンだったそうです。
足立遠元~十三人の合議制のメンバー、平治の乱で活躍し、東国武士ながらも文官の素養を持つ人物でした。
大江広元~四男の毛利季光は毛利氏の祖となりやがて戦国大名の毛利氏へと続きます。
中原親能~朝廷と幕府の交渉役のエキスパート~実務官吏でありながら戦にも従軍する
源頼家~悲劇の2代目~北条VS比企、時々朝廷、そして東国武士の権力闘争が渦巻く時期。
三善康信~鎌倉幕府の初代問注所執事で母は源頼朝の乳母の妹です。問注所とは裁判機関のことです。
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