城跡

小金城跡~下総国、最大規模の平山城~現在は宅地開発が進むも面影はあり

小金城址 土塁跡



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【小金城】

小金城(こがねじょう)は
下総国葛飾郡(現在の千葉県松戸市大谷口付近)
にあった日本の城です。

【別名】
大谷口城、開花城
【城郭構造】
平山城
【天守構造】
なし
【築城主】
高城胤吉
【築城年】
天文6年(1537年)
【主な改修者】
高城胤辰、小田原後北条氏
【主な城主】
高城氏、武田信吉
【廃城年】
文禄2年(1593年)
【遺構】
空堀、土塁、切岸、曲輪
【指定文化財】
未指定

【地理地形】
標高20mほどの丘陵地帯にあり、
古利根川、中川、
荒川流域の低地帯を一望できる場所でにあります。
城域は東西800mm、南北700mにおよび、
12もの郭を備えて、
当時の下総国北西部においては
最大規模を誇った平山城でした。
別名称として大谷口城、開花城、とも呼ばれていました。

<1960年代の航空写真>
小金城址 航空写真

【城の歴史】
千葉氏の家老であった原氏の
重臣の高城氏の居城でした。
原氏が室町時代の享徳の乱で
上杉氏と対立関係に入った時期に、
上杉勢力の下総侵攻を防ぐ拠点とするために
重臣の高城氏を小金に
配置したものと考えられています。
なお、高城氏は原氏の分家となります。

【築城】
小金城(大谷口城)は、
天文6年(1537年)9月に
高城胤吉によって築かれ、
高城氏は根木内城より居城を移して、
高城胤吉、高城胤辰、高城胤則と
3代53年に渡った居城となりました。
高城胤吉は城建設以前には近郊の栗ケ沢城、
根木内城を根拠地として構えていましたが、
小弓公方足利義明の進出に対抗するために
大谷口に新城を築城して移ったのでした。

古河公方の仮御所として】
永禄年間(1560年代)、
古河御所を追われた
古河公方足利義氏の仮御所の役目と、
足利義氏に敵対する
関東管領上杉憲政を擁立して関東へ侵攻した
上杉謙信に備えて
拡張が行われたものと考えられています。
実際に、永禄9年(1566年)2月には
上杉方に小金城を包囲されましたが、
籠城して乗り切ることに成功しています。

【廃城へ】
天正18年(1590年)の小田原征伐の際、
小田原北条氏方の高城氏は、
小田原北条氏に従って小田原城に篭城しました。
そして豊臣氏方の浅野長政らに攻められ開城しました。
その後、徳川家康の関東移封に伴い、
穴山武田氏の名跡を継承し、
甲斐国河内領となっていた
徳川家康五男である武田信吉が入城します。
武田信吉は文禄元年(1592年)に
下総国佐倉城主として転封となり、
小金城は文禄2年(1593年)に廃城となったのでした。

【その後の高城氏】
高城胤則は豊臣秀吉の小田原征伐の後、
蒲生氏郷に預けられて、
その飛領があった信濃国に移されました。
高城胤則はその後、
家名再興の機会を窺ったとのことです。
しかし、なかなか機会には恵まれませんでした。
江戸幕府が成立すると、
再度の再興工作に乗り出したとのことです。
けれども、生来病弱であったようで
実現直前に病に倒れ、
伏見城下で33歳の生涯を閉じました。
其の後、嫡男である高城胤重が
元服後に徳川家康に召されて
旗本に取り立てられた、とのことです。

【小金城の構造】
北に金杉口、東に大手口、
丑寅に達磨口、西に横須賀口、
南に大谷口を設け、
横須賀口には家臣を住まわせ、
その規模や内容は稀にみる
大がかりなものだったそうです。
完成の祝宴も盛大であったということです。
以来、天正18年の豊臣秀吉の
小田原攻めで落城するまで、
3代57年間に亘って栄えました。

【落城後の統治】
高城・小金城落城後、
大谷口周辺は徳川幕府方旗本の土屋氏が
圧政ではなく、
大熊家や八木原家などの有力者と
相携えて村人と融和し
両者対立することなく
村の統治を行ったそうです。




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【現在の城】
昭和40年代頃までは森林の中に
遺構がほぼ完存していたそうです。
けれどもその後の宅地開発により、
現在では多くが消失してしまっています。

【遺構】
残存した城跡の一部が
大谷口歴史公園として整備されており、
小田原北条氏関連の城跡で
多く見られる畝堀や障子堀、
土塁などの遺構が残っています。
また達磨口にはかつて
引き橋が架かっていたと言われている
土塁と堀切の様な場所が残り、
馬場と呼ばれる付近にも
土塁や空堀の名残らしき物が残っています。

<大谷口歴史公園>
大谷口歴史公園

<虎口門>
小金城 虎口門

<金杉口跡>
小金城 金杉口跡

<障子堀>
落とし穴や、堀底を仕切るような
土塁状の障害物が設けられており、
それらを障子(しょうじ)、
堀障子(ほりしょうじ)といい、
障子のある堀を障子堀(しょうじぼり)と呼びます。
小金城 障子堀

<土塁>
小金城 土塁

<畝堀>
畝(うね)のようにみえることから
畝掘(うねぼり)と言います。
あるいは、
ほぼ一定の間隔に連続した
土塁状の障子がある堀のことを指す場合もあります。
敵が攻め込むためには、
畝の道上の部分を歩く必要があり、
それには、一列になって進む他ありません。
守備する側はその手前を
重点的に守ればよいので
非常に効率的な防御が可能となる堀の造りです。
小金城 畝堀

【発掘調査】
なお、昭和37年(1962年)および
平成3年(1991年)に宅地造成に際して
松戸市によって発掘調査が行われました。
その際に、多くの建物跡、櫓跡、
また鉄砲の弾や陶磁器などが発見されています。

【失われた「本城」「中城」】
1960年代ごろまでは
本城への土橋と空堀が完全に存在していて、
その写真は日本城郭大系に掲載されています。
しかしながら、現在残るのは金杉口、
達磨口付近の遺構だけとなっています。
最も戦闘的な主要建造物を有した
「本城」「中城」などは
昭和39年の宅地開発により
消失してしまいました。

近年(2010年代半ば)まで
本城と言われる部分の所々に
土塁が残っていましたが、
徐々に減りつつあります。

【大谷口歴史公園】
【所在地】
〒270-0005 千葉県松戸市大谷口176他
【交通アクセス】
<1>
北小金駅から徒歩で15分(JR常磐線北小金駅)
<2>
小金城趾駅から徒歩で10分(流鉄流山線小金城趾駅)
※駐車場はありません。
但し、近くにコインパーキングがあります。
<大谷口歴史公園・案内図>
大谷口歴史公園 案内板

<場所>
青印は「大谷口歴史公園」の石碑がある辺りです。
直、達磨口跡は「大倉記念病院」のやや下付近にあります。

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