城跡

臼井城~築城は平安時代で千葉氏の一族の臼井氏、上杉謙信が攻め落とせなかったお城です。

臼井城



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【臼井城】

臼井城(うすいじょう)は、
現在の千葉県佐倉市臼井田付近にあった
日本の城です。
佐倉市指定史跡となっています。

臼井城

【城郭構造】
連郭式平山城

【築城主】
臼井常康か

【築城年】
12世紀中頃か

【主な城主】
臼井氏原氏酒井家次

【廃城年】
慶長9年(1604年)

【遺構】
土塁、空堀、土橋、石垣、郭

【指定文化財】
佐倉市指定史跡

【臼井城について】
永久2年(1114年)、
平(千葉)常兼の子の千葉常康が
臼井に居を築き臼井六郎を称したと
伝えられていますが、
その居館がこの臼井城で
あったかどうかは定かではありません。
臼井氏の中興の祖といわれる
臼井興胤(14世紀中頃)が
本領である臼井に復帰し、
臼井城を居城としたとのことですが、
これについても出典が1715年成立の
「総葉概録」であるため、
史実として見ることに
慎重な見解もあるとのことです。
確実な史料に現れるのは
15世紀後半となります。

臼井城

城は、下総台地の北西端にあたる
臼井台地を占めており、
印旛沼に注ぐ手繰川・鹿島川に
挟まれています。

【臼井城の歴史】
享徳の乱の折、
文明10年(1478年)12月10日の
境根原合戦で
千葉自胤に敗北した千葉孝胤は、
臼井教胤の養子となっていた
一族の臼井持胤の守る臼井城に籠城しました。
臼井持胤が養子になった後に
実子である俊胤が生まれ、
臼井持胤は俊胤に家督を譲りましたが、
後見する立場にはあったとされています。

7ヶ月に及ぶ籠城戦の末、
文明11年(1479年)7月15日に
包囲を緩めた様子を見た城方が打って出て、
激戦となり、そして落城したと
伝えられています。
鎌倉大草紙より)
その時太田道灌の甥である
太田資忠らが討ち死にし、
現在も臼井城の土塁の上に
太田資忠の墓が残されています。

臼井城

その後、足利政氏の次男足利義明が
小弓城を征圧し小弓公方を自称した際には、
臼井城主の臼井景胤は小弓公方側に立ち、
千葉孝胤の嫡男である勝胤とは立場を異にしました。
けれども天文7年(1538年)10月、
第一次国府台合戦で足利義明が討ち死にした後は
千葉氏の影響下に復しました。




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【臼井氏の滅亡】
永禄4年(1561年)臼井久胤の時、
上杉謙信小田原攻めに呼応した
里見勢の上総大多喜城主である
正木信茂に攻められ臼井城は落城し、
臼井久胤は結城城の
結城晴朝を頼って脱出、
臼井氏は滅亡しました。
なお一説によりますと、
その時臼井城は後見していた
臼井久胤の母方の祖父に
当たるとされる原胤貞に
乗っ取られた状態で、
まだ10代だった臼井久胤は
軟禁状態にあったともされており、
正木信茂の攻撃による混乱を
好機ととらえ、原胤貞の娘とされる
母とともに城を脱出し
結城氏に臣従したとも
言われております。
結局、臼井城は
原氏の手中に収まった、
ということになります。

臼井城

【原氏、上杉謙信に勝つ】
永禄9年(1566年)には、
上杉謙信と里見義弘に攻められ
原胤貞らが臼井城に立て籠り、
3月20日には落城寸前までいきましたが、
原胤貞より指揮を受け継いだ
軍師・白井浄三の知謀と
その指示に基づいた
北条氏側の松田康郷らの
戦ばたらきにより
上杉謙信を大敗させています。

【原氏が城主】
天正2年(1574年)に
原胤栄(胤貞の子)は
里見勢に生実城を追われたため、
その後原氏が臼井城を本拠とします。

【臼井藩】
戦国時代末期には原氏が城主でしたが、
天正18年(1590年)の
小田原征伐で徳川氏に敗れ、
酒井家次が3万石で入封し、
臼井藩となります。

【廃城へ】
文禄2年(1593年)に城内より
出火し灰燼に帰し、
その後酒井家次は
慶長9年(1604年)12月、
上野国高崎藩に加増移封、
臼井藩は廃藩となり、
臼井城も廃城となりました。




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【役目を終える】
室町時代後期以降の戦乱の時代において、
後期千葉氏の拠る本佐倉城と比べて
歴史的により重要な役割を果たしましたが、
戦乱の時代が終わり、
土井利勝により
慶長15年(1610年)に
佐倉城が完成するに至って
その役目を終えたのでした。

臼井城

【現在の臼井城】
現在は臼井城址公園として
整備されています。
城郭の位置からは
印旛沼が一望できます。
早春になりますと
河津さくらと梅が咲き誇ります。
1994年(平成6年)2月16日、
城跡が佐倉市指定文化財(史跡)となりました。

臼井城

【臼井城の戦い】

臼井城の戦い(うすいじょうのたたかい)は、
戦国時代の永禄9年(1566年)に
北条氏与力の千葉氏・原氏と
上杉氏の間で起きた戦闘です。
房総を支配しようとした小田原北条氏
上杉氏の関東争覇から起こったもので、
これがために関東の所々で
衝突が起こりましたが、
臼井城の戦いもその一つとなります。

【上杉謙信の進軍】
永禄9年(1566年)の正月末に、
越後国の戦国大名である
上杉謙信(当時は輝虎)は、
下野国佐野に向けて軍を進めたのち、
常陸国へ出兵しました。
先の上杉軍が攻略していた
小田城を奪取した小田氏治を攻め、
2月16日にこれを開城させると
城内の人々の売買の許可を出しました。
2月中に下総国西北部へ侵入し、
関越軍による乱暴狼藉の禁止の制札を
松戸市の本土寺に出しました。
3月には船橋大神宮にも
同様の制札を発給しました。
船橋は江戸湾の重要な湊で、
物資の集積地として繁栄しており、
船橋を掌握して、
兵糧等の物資を調達して
軍事行動を展開しようとしていたのでした。

【臼井城に迫る上杉謙信】
そして3月20日、
北条氏に与する千葉胤富の家臣である
原胤貞の治める下総臼井城へ進攻、
上杉勢が有利に戦闘を進め、
実城の際まで迫りましたが、
原胤貞より指揮を託された
軍師・白井入道浄三の知謀や、
この戦いでの活躍を赤鬼と
畏怖されるようになる北条軍の
松田康郷の武勇によって、
情勢が変化します。
(「北条記(相州兵乱記)」、
「関八州古戦録」)

【上杉勢の敗北】
3月23日には
上杉勢は数千人の死傷者を出したうえ
(「戦国遺文」)、
上杉方の里見氏・酒井氏の陣が
がら空きとなってしまい、
23日の晩に上杉勢がそこに移りました。
このことから攻撃方の主力は
上杉勢や北関東の諸将ではなく、
里見氏・酒井氏の軍勢
であったことが判明します。
24日には上杉勢の敗北が
決定的となりました。
撃退された要因は
籠城方の健闘にあったとのことです。
上杉勢は4月半ばに退去しました。

臼井城

【上杉軍退却の遠因】
室町幕府足利将軍家の
後継者である足利義昭の3月10日附の
書状を足利義昭の使者が臼井まで持参して、
北条氏と和睦して
幕府再興のために
上洛するように要請したことが、
上杉軍の退却に繋がったのではないかと
指摘されているとのことです。




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【臼井城での勝利で得たもの】
この臼井城で上杉軍を敗北させ、
退却に追いやったことにより、
上杉謙信から
常陸・上野・下野の諸将が
離れていくこととなりました。
即ちそれは関東平定が
困難な状況になったといえます。
このことが、北条氏からの
越相同盟の申し入れを
受け入れる原因のひとつになったと
もいわれています。
また上杉謙信が退陣したことにより、
この時以降、北条氏がその滅亡まで
千葉氏を支配下に置き得たのでした。

【所在地】
〒285-0861 千葉県佐倉市臼井田900

【臼井城址公園・所在地】
所在地: 〒285-0861 千葉県佐倉市臼井字城之内

【交通アクセス】
(電車)
京成電鉄本線「京成臼井」駅北口から
徒歩約15~20分程度。

(車)
東関東自動車道「佐倉」ICから20分程度。

【駐車場】
無料駐車場があります。

【臼井城址公園駐車場】
〒285-0863 千葉県佐倉市臼井634

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