城跡

賀儀(かぎ)城~小早川隆景の水軍の将である浦宗勝の城で交通上の要地でした。

賀儀(がぎ)城 



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【賀儀(かぎ)城】

浦宗勝乃美宗勝)の城です。
沼田小早川氏の一族の多くは、活路を海へ求めました。
その一つが浦氏の城とされています。
交通上の要地にある海上につき出した、
標高25mの小丘の上にあります。
城の北方にある勝運寺には、
浦宗勝の画像や墓など、
城主であった浦氏ゆかりの物が蔵されています。
城跡の西は深い湾となっており、
かつて船溜だったと見られています。

浦宗勝は毛利元就厳島で陶晴賢を敗った
「厳島合戦」において、
村上水軍を味方にするべく
外交をした人物として知られています。
現在は公園となっており、
二の丸の北側には土塁が残っています。
引き潮の時には「舟隠し」が見えるそうです。
頂上には5分程で歩いて行けるそうですが、
その道に柵がないので気を付けてくださいとのことです。
トイレ・専用駐車場はありません。
また、近隣にある勝運寺には浦宗勝の墓があります。

【所在地】
〒729-2314 広島県竹原市忠海床浦1丁目3−15

【標高(比高)】
20m( 20m )

【築城主】
浦(乃美)宗勝

【築城年】
永禄8年(1565年)

【別名】
鍵城

【勝運寺】
山号を翫月山(がんげつざん)といい、
賀儀城の城主である浦宗勝が
その菩提寺とした曹洞宗の寺です。
開山は以天圭穆と伝えられています。
浦宗勝は小早川氏の一族で、
小早川隆景の水軍の将として
村上水軍を率いた
石山合戦(1570年~1580年)に活躍して、
猛将の名を欲しいままに
していたとのことです。
寺宝として開山以天圭穆和尚の
所用という立派な漆塗りの駕篭や、
小早川隆景が浦宗勝に贈った
弾薬輸送庫などがあります。
境内には浦宗勝の遺髪を納めた
供養塔が遺存しています。
なお賀儀城は忠海駅の南西、
海岸沿いの城山にあり、
その構えが鍵の手形になっているので
鍵城一賀儀城と呼ばれるようになったとされています。

【所在地】
〒729-2314 
広島県竹原市忠海床浦2丁目10-1

【電話番号】
0846-26-0880

【営業時間】
※座禅:毎週日曜日
<4~9月> 
午前5時~午前6時30分
<10~3月> 
午前5時30分~午前7時

【料金】
無料

【座禅】
30~40分程度

【お経】
10分程度

【食事・お茶・お菓子】
数十分

【清掃】
数十分

【交通アクセス】
JR呉線「忠海」駅より徒歩10分。
山陽自動車道河内ICより車で約30分。
広島空港より車で約30分。
忠海バス停より徒歩約10分。

【浦宗勝(乃美宗勝)】

乃美 宗勝(のみ むねかつ)は、
戦国時代の武将です。
毛利氏・小早川氏の家臣でした。
安芸の国人領主で、
居城は忠海賀儀城(ただのうみ かぎじょう)。
沼田小早川氏の庶流である
浦氏の当主であり、
名は浦 宗勝(うら むねかつ)とも称します。
通称は兵部丞。

【村上水軍調略と厳島の戦い
大永7年(1527年)、
乃美賢勝の第4子として生まれました。
父は浦元安の養子でしたが、
元は小早川敬平の弟である
是景から始まる乃美氏で
乃美弘平の弟にあたり、
その為、宗勝は乃美姓を名乗っていました。
同じ乃美氏の乃美隆興は従兄です。
小早川氏の家督を継承した
小早川隆景に仕えました。
天文24年(1555年)の
厳島の戦いでは
自身の血縁関係もあり
村上吉充村上武吉とは血縁)、
村上水軍を味方に引き入れるべく交渉し、
毛利元就の
「一日だけ軍船をお借りしたい」
との言葉を伝えたとされています。
村上通康らは決断を下し、
浦(乃美)宗勝は
村上水軍を味方に引き入れ、
厳島の戦いの勝利、
そして陶晴賢の自害に
一役も二役も買うことになったのでした。




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【小早川水軍の主力として】
その後も小早川隆景に従い、
小早川水軍の主力として
各地で活動していきます。
天文24年(1555年)10月より始まる
防長経略でも水軍を率いて活動し、
毛利氏が九州に進出するとそれに従いました。
永禄4年(1561年)の
門司城攻防戦では敵前に上陸し、
大友方の勇将・伊美鑑昌(伊美弾正左衛門統正)
と一騎討ちを演じ、負傷しましたが、
伊美鑑昌の首を取ったのでした。
永禄8年(1565年)には
所領に賀儀城を築城し、拠点とします。
なおも筑前国博多の
支配権奪取を目論む毛利元就は
九州侵攻を継続し、
その事実上の前哨戦となった
毛利氏の伊予出兵でも
主力として活躍しました。
永禄12年(1569年)の
立花山城攻防戦でも活躍しました。

【大内輝弘の乱】
立花山城攻略後はその城代となり、
筑前防衛の主将として行動しました。
けれども、大友義鎮の支援を受けた
大内輝弘が長門国に侵入し、
毛利領内は大混乱となり、
毛利軍主力は大内輝弘征伐のために
立花山城から撤退することになりました。
わずかな兵とともに殿として
立花山城に残った浦(乃美)宗勝でしたが、
翌年の永禄13年(1570年)に開城し、
戸次鑑連に城を明け渡しました。
開城の約束通り、毛利軍は堂々と安芸へ撤退し、
戸次鑑連もそれを追撃することはなかったとのことです。

同年、所領に勝運寺を建立しました。
自身の菩提寺としました。

【備中常山城攻撃と鶴姫】
天正3年(1575年)は
備中国へも転戦し、
ここでも主力として活動しています。
上野隆徳が守る備中常山城を攻撃した際に、
落城寸前の城内から鶴姫
(上野隆徳の妻、三村元親妹)が
34人の侍女を率い、
自ら出陣して猛攻を仕掛けたのでした。
そのあまりの突撃に毛利軍も驚いて
壊走したとのことです。
浦(乃美)宗勝は鶴姫に見つかり、
良き相手と勝負を挑まれたが、
「女とは戦えぬ」と説得。
勝負を諦めた鶴姫は伝家の宝刀である
「国平の太刀」を浦(乃美)宗勝に渡し、
城内へ戻って自害したとのことです。

【英賀合戦】
天正4年(1576年)5月、
毛利と同盟する播磨英賀の領主である
三木通秋の所領に入り、
三木軍と合流して5000の兵で
播磨国衆の中でも
親織田派であった
小寺孝高(黒田官兵衛)と
交戦しましたが敗北しました。

【木津川口の戦い】
同年9月の第一次木津川口の戦いでは
総大将として出陣し、
織田氏配下の九鬼嘉隆率いる
九鬼水軍と激突し、
焙烙を多用した毛利水軍の攻撃により
九鬼水軍は壊滅しました。
けれども、天正6年(1578年)の
第二次木津川口の戦いでは、
鉄甲船を使用した
九鬼水軍の前に敗北しました。
天正7年(1579年)に
別所長治が籠城する
三木城への兵糧搬入を成功させています。

【嫡男の謎の死】
天正10年(1582年)に、
織田氏(羽柴秀吉)の
調略工作が浦(乃美)宗勝に及び、
浦(乃美)宗勝本人はこれを拒絶しましたが、
嫡男である浦盛勝が秀吉方から
「盛勝単独の同心でも歓迎する」
などの書状を受けるなど
不穏な動きを見せたとのことです。
主君の小早川隆景はこれに素早く反応し、
同年に浦盛勝は急死しています。
暗殺説も囁かれる、謎の死でした。

【朝鮮出兵】
天正20年(1592年)、
豊臣秀吉の文禄の役で浦(乃美)宗勝も
朝鮮へ出陣しました。
けれども現地で病を得て、
帰国後の同年9月23日に、
立花山城近くの筑前糟屋郡秋屋で死去しました。
法名は宗勝寺殿天與勝運大居士。

【毛利家の勇将】
大友戦においては毛利軍のなかで最も活躍し、
大友氏の武将である戸次鑑連は
浦(乃美)宗勝を高く評価したそうです。
また生涯に亘って
毛利元就、小早川隆景、
毛利輝元、豊臣秀吉の4人から
戦功ありとして15通の感状を受け取ったとも。




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【子孫】
浦(乃美)宗勝の子孫は、
直系の子孫が浦姓を、
傍系の子孫が案浦(あんのうら)
と言う苗字を称していると
いわれています。
案浦と言う苗字は
宗勝寺住職の談話、
福岡県糟屋郡に残る石碑などから、
「宗勝の側室の子の系統であることから
浦を名乗る事が出来なかった子孫が、
宗勝を偲び、
安芸を安木と読み替え『安木の浦』から誕生した」
と伝承されているとのことです。
毛利家は守護大名の墓守(大内盛見公)の
菩提を弔うために
糟屋郡粕屋町の泉蔵寺に
案浦姓を配備し長く護持繁栄としたとのことです。

浦(乃美)宗勝の直系の末裔は、
江戸時代半ばに嫡流(宗勝の次男・景継流)が絶え、
度々他家から養子が入っているとのことです。
幕末の長州藩家老であった国司就孝の次男(浦元襄)
もその一人であるとのことです。

【墓所】
<宗勝寺>
<所在地>
〒813-0002 福岡県福岡市東区下原5丁目892
1569年に立花山城代を務めていた時に、
亡妻を弔うために建立されました。
宗勝寺には妻と浦(乃美)宗勝の
墓碑があるとのことです。

<勝運寺>
1570年、本領の忠海に建立されました。

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